大別当城(だいべっとうじょう)
●所在地 岡山県勝田郡奈義町高円
●築城期 不明(平安後期か)
●築城者 有元氏(菅家一党)
●高さ 標高591m/比高230m
●別名 大見丈城
●遺構 郭等
●登城日 2009年8月17日
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
大別当城のある勝田郡奈義町は、前稿竹山城(岡山県美作市下町)のある美作市の西隣で、津山市とに挟まれた位置にある。
当町の北部にある那岐山(H1255m)は、北部鳥取県八頭郡智頭町との境界に聳える山で、その南麓一帯は南北朝期より、美作菅家の本拠地として続いた。
【写真左】大別当城遠望
大別当城の南西麓に「那岐山麓の駅」という施設がある。写真はその位置から撮ったもの。
美作菅家一党
美作菅家の始祖は、『尊卑文脈』菅家系図によると、菅原道真から7代目の知頼とされる。
そしてその知頼の曾孫・仲頼が今稿の「大別当城」の初代城主とされている。仲頼の三男・満佐は、当地に伝わる「三穂太郎」伝説の主人公とされ、その満佐には7人の子があり、有元・広戸・福光・植月・原田・鷹取・江見と七流に分かれ、これが後の美作菅家七流となった。
大別当城が具体的に記録に見えるのは『太平記』で、赤松円心が播磨で反幕の旗を挙げ、京に攻めのぼった際、この軍勢の中に有元氏らの名が見えている。
元弘3年4月3日、赤松勢が京で幕府方六波羅軍と戦う際、上記の有元三兄弟及び、福光・原田等菅家一族が壮絶な討死をしたという。
【写真左】登城口
上記の位置から北に延びる道があり、那岐山へ向かう登山道とも兼ねているが、一旦鞍部になった地点に登城口がある。
なお、この登山口と反対側(北側)には、「八巻城」という山城もあり、大別当城の支城の役目があったものと思われるが、詳細は不明。
この城については、「城格放浪記」さんがすでに登城して紹介しているので、御覧頂きたい。
建武の新政後、後醍醐に離反した尊氏派に赤松氏も属したが、美作菅家もそれに従った。新田義貞が播磨・中国地方に進攻した時、美作方面を任された江田兵部大輔3,000騎が、菅家一党を攻め立てたという。
大別当城のある奈義町付近で、主だった山城として『太平記』に書かれたものとしては、当城以外として、「奈義能山城」「菩提寺城」があり、いずれもこの付近に隣接しているが、新田義貞が攻め入ったとき、これら3城は新田氏の手に堕ちた。しかし、その後新田氏の撤退により、小房城(大別当城より南南東6キロの梶並川東方の小房山H610m)から、有元佐顕(すけあき)が入った。
【写真左】登城路
登城口がすでに相当高い位置のため、比高はあまりない。しかし、前半はこうした傾斜のある上りこう配となっている。
竹山城の稿でも述べたように、美作国における南北朝期から室町時代にかけては、赤松氏と山名氏による争奪禅が繰り広げられ、美作菅家一党は赤松氏に属していたため、度々山名氏による攻撃をうけている。
戦国期になると、尼子氏の侵攻によりおそらく同氏の麾下として戦ったと思われ、さらに三星城(岡山県美作市明見)でも紹介した当城の城主・後藤勝基が、宇喜多氏に攻められたとき、菅家一族は周辺の一族を集め、後藤氏の支援にまわった。
三星城が落城した後、菅家一党は宇喜多氏に属し、関ヶ原の役を経て、徳川幕府が開かれ当国に森忠政が入国すると、有元氏は武士を捨てこの地域の大庄屋を務めた。
【写真左】本丸跡
大別当城は、南北260m、幅約10mという細長い構成をなし、その間に堀切・土塁などを設けていると記録されているが、現地では明確な遺構としては残っていない。
本丸は南北20m×東西10m程度で、位置は、北側1/3の方にあって、東北部に腰郭を設けているとあるが、御覧の通り整備されていないので写真におさめていない。
【写真左】南端部から奈義町の街並みを見る
全体に尾根続きの構成を基本とした郭段が続き、南端部には展望台が設置してある。
この郭の更に南にも郭があるようだが、整備されていない。
戦略的にこの場所はもっとも重要な重要な場所だったと思われる。
●所在地 岡山県勝田郡奈義町高円
●築城期 不明(平安後期か)
●築城者 有元氏(菅家一党)
●高さ 標高591m/比高230m
●別名 大見丈城
●遺構 郭等
●登城日 2009年8月17日
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
大別当城のある勝田郡奈義町は、前稿竹山城(岡山県美作市下町)のある美作市の西隣で、津山市とに挟まれた位置にある。
当町の北部にある那岐山(H1255m)は、北部鳥取県八頭郡智頭町との境界に聳える山で、その南麓一帯は南北朝期より、美作菅家の本拠地として続いた。
【写真左】大別当城遠望
大別当城の南西麓に「那岐山麓の駅」という施設がある。写真はその位置から撮ったもの。
美作菅家一党
美作菅家の始祖は、『尊卑文脈』菅家系図によると、菅原道真から7代目の知頼とされる。
そしてその知頼の曾孫・仲頼が今稿の「大別当城」の初代城主とされている。仲頼の三男・満佐は、当地に伝わる「三穂太郎」伝説の主人公とされ、その満佐には7人の子があり、有元・広戸・福光・植月・原田・鷹取・江見と七流に分かれ、これが後の美作菅家七流となった。
大別当城が具体的に記録に見えるのは『太平記』で、赤松円心が播磨で反幕の旗を挙げ、京に攻めのぼった際、この軍勢の中に有元氏らの名が見えている。
元弘3年4月3日、赤松勢が京で幕府方六波羅軍と戦う際、上記の有元三兄弟及び、福光・原田等菅家一族が壮絶な討死をしたという。
【写真左】登城口
上記の位置から北に延びる道があり、那岐山へ向かう登山道とも兼ねているが、一旦鞍部になった地点に登城口がある。
なお、この登山口と反対側(北側)には、「八巻城」という山城もあり、大別当城の支城の役目があったものと思われるが、詳細は不明。
この城については、「城格放浪記」さんがすでに登城して紹介しているので、御覧頂きたい。
建武の新政後、後醍醐に離反した尊氏派に赤松氏も属したが、美作菅家もそれに従った。新田義貞が播磨・中国地方に進攻した時、美作方面を任された江田兵部大輔3,000騎が、菅家一党を攻め立てたという。
大別当城のある奈義町付近で、主だった山城として『太平記』に書かれたものとしては、当城以外として、「奈義能山城」「菩提寺城」があり、いずれもこの付近に隣接しているが、新田義貞が攻め入ったとき、これら3城は新田氏の手に堕ちた。しかし、その後新田氏の撤退により、小房城(大別当城より南南東6キロの梶並川東方の小房山H610m)から、有元佐顕(すけあき)が入った。
【写真左】登城路
登城口がすでに相当高い位置のため、比高はあまりない。しかし、前半はこうした傾斜のある上りこう配となっている。
竹山城の稿でも述べたように、美作国における南北朝期から室町時代にかけては、赤松氏と山名氏による争奪禅が繰り広げられ、美作菅家一党は赤松氏に属していたため、度々山名氏による攻撃をうけている。
戦国期になると、尼子氏の侵攻によりおそらく同氏の麾下として戦ったと思われ、さらに三星城(岡山県美作市明見)でも紹介した当城の城主・後藤勝基が、宇喜多氏に攻められたとき、菅家一族は周辺の一族を集め、後藤氏の支援にまわった。
三星城が落城した後、菅家一党は宇喜多氏に属し、関ヶ原の役を経て、徳川幕府が開かれ当国に森忠政が入国すると、有元氏は武士を捨てこの地域の大庄屋を務めた。
大別当城は、南北260m、幅約10mという細長い構成をなし、その間に堀切・土塁などを設けていると記録されているが、現地では明確な遺構としては残っていない。
本丸は南北20m×東西10m程度で、位置は、北側1/3の方にあって、東北部に腰郭を設けているとあるが、御覧の通り整備されていないので写真におさめていない。
【写真左】南端部から奈義町の街並みを見る
全体に尾根続きの構成を基本とした郭段が続き、南端部には展望台が設置してある。
この郭の更に南にも郭があるようだが、整備されていない。
戦略的にこの場所はもっとも重要な重要な場所だったと思われる。
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