神楽尾城(かぐらおじょう)
●所在地 岡山県津山市総社
●別名 平家城
●築城期 正平年間(1346~70)以前
●築城者 宇都宮教貞
●城主 山名右京太夫氏兼、大蔵甚兵衛尉尚清、千場三郎三衛門
●高さ 標高308m/比高170m
●遺構 郭・土塁・堀切
●指定 津山市指定史跡(1986年7月10日)
●登城日 2008年10月20日
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
神楽尾城は津山市市街地の北西約2キロ地点にある神楽尾山(H308m)に築かれた山城で、麓には登城口でもある「神楽尾公園」が設置され、市民の憩いの場となっている。
【写真左】神楽尾城遠望
登城途中からみたもの
現地に説明板が設置されているが、この日撮影したデジカメの調子が今一つで、ピンボケのため文字が判読できず、全文を紹介できないが、一部を下段に掲載しておく。
“神楽尾城
津山市指定史跡
1986(昭和61)7月10日指定
神楽尾城は、美作国のほぼ中央にある標高308mの神楽尾山に築かれた大きな山城です。(中略)
太平記にも出てくる神楽尾城では、室町時代、山名氏と赤松氏が戦いを繰り広げましたが、その後、永禄9年(1566)毛利元就が尼子義久をやぶると、神楽尾城は毛利氏の大事な城として大蔵甚兵衛尉尚清と千場三郎左衛門が守っていました。
この神楽尾城は、すぐれた縄張の三つの大きな曲輪からできており、多くの空堀や土塁で守られた城でしたが、宇喜多方の荒神山城主花房助兵衛職秀との戦いに負けて落城したといわれています。
山頂からの360度のながめは大変素晴らしく、「四周展望の城」と呼ばれています。
(神楽尾城跡保存協力会)”
【写真左】縄張図
写真が不鮮明だが、本丸は「一の曲輪」と書かれたところで、その南方に武者溜や馬場があり、そこから一旦東方へ100m余り向かうと独立の郭群(「二の曲輪」:二ノ丸)がある。
三の丸は馬場の尾根筋から南に連続した尾根に設置され、規模は二ノ丸より大分小さい。
先月の小田草城(岡山県苫田郡鏡野町馬場)でも記したように、尼子氏の居城・月山富田城が完全に落城したのは、小田草城主斎藤玄蕃に支援を求めた尼子の使者・平野又右衛門の自害の1年後である。
時に永禄9年(1566)11月21日、尼子義久・秀久・倫久(ともひさ)の三兄弟は、毛利元就に降伏、安芸円妙寺に幽閉された。
さて、毛利氏の手に落ちた神楽尾城は、説明板にあるように、大蔵氏と千場氏の両名が守城することになったが、その後、理由は不明ながらこの二人は、対立するようになり、千場氏は密かに城内から奔走、それを土井四郎次郎が追撃し、下田邑迫戸で討ち取られたという。
【写真左】神楽尾公園
登城コースは複数あるようだが、車で来た場合はこの公園内の駐車場に停めて行くのが一般的のようだ。
ここから本丸までは、歩いて約1.5km程度となる。
花房助兵衛職秀の攻略
宇喜多側の花房助兵衛職秀が拠った美作・荒神山城(岡山県津山市荒神山)は、神楽尾城から吉井川を挟んだ南方6キロの荒神山に築かれた山城で、当時宇喜多氏は毛利氏と敵対していたことから、毛利氏属城であったこの神楽尾城を含め、院庄・佐良山城(嵯峨山城:津山市)などに対抗するために築城された。
神楽尾城を落とした花房氏は、当城の守将となり、苔口宗十郎・難波孫左衛門・河内七郎右衛門・柴田六郎右衛門・小嶋次郎兵衛・苅田七郎兵衛らと城を固め、美作の中央部における宇喜多氏の拠点とした。
しかし、花房氏はその後、宇喜多秀家の代になって、文禄3年(1594)には常陸佐竹家に預けられ、荒神山城は廃城となった。
【写真左】二の丸・土塁跡
この日の登城ルートは、先に二の丸の方から(東側からのコース)向った。二の丸は余り整備されておらず、雑草がかなり伸びていた。
二の丸のほぼ中央部を登城路が走っており、事実上の堀切と考えられる。
二の丸は南北総延長約100mの規模を持ち、その間に大小5,6カ所の曲輪構成となている。また最南端の曲輪が最高所となっている。
この写真は、そのうちの南側の郭段に設けられた土塁跡。
【写真左】土橋
二の丸から馬場までの間100m余りの間には土橋が設置されている。
もともと、この土橋の北側には湿地帯があり、おそらく馬洗場のようなものがあったと思われるが、場合によっては、二の丸と馬場・本丸城域と分断する濠の用途にも使われたかもしれない。
平時は土橋として、戦時の際はこの土橋を破壊して濠とすることも計画されていたのかもしれない。
このため、付近には「泥田堀」という名称の遺構が残る。
【写真左】馬場跡付近
上記の土橋を抜けると、馬場跡にたどり着く。写真はこの場所で右(北)へは、武者溜や本丸に向い、左(南)に向かうと三の丸に繋がる地点。
先に馬場跡・三の丸に向かう。
【写真左】馬場跡
馬場跡は御覧の通り幅の広いもので、長さは約100m程度ある。
この先には一旦堀切で区画し、そのあと三の丸続く(下の写真参照)。
【写真左】三の丸
長径30m×短径20mの郭を北に、南に2段の郭段を構成している。
更にその先には、おそらく当城最大のものと思われる「竪堀」があり、ここで南方からの侵入を遮断している。
【写真左】武者溜(むしゃだまり)
三の丸から再びもどり本丸へ向かうと、馬場を過ぎた地点でやや傾斜しているものの、広い平坦地が見える。これが武者溜で、馬場との明確な区分はない。
当城の中でもっとも広大な規模を持つ遺構で、大半の兵はこの場所に陣取ったと思われる。
【写真左】井戸跡
武者溜脇にあるもので、この井戸は文字通り「人馬一体」の飲用水として使用されたのだろう。
【写真左】武者溜から本丸を目指す
武者溜から本丸へ向かうと、一気に登りこう配の険しいいわゆる切崖となる。
【写真左】本丸下の郭段にある土塁
本丸の下には南東・南西それぞれに向かって3,4段の腰郭が構成されている。
特に南西方向に伸びる郭段は規模が大きく、ここでの陣兵数もかなり確保できただろう。
【写真左】本丸・その1
本丸は南北45m×東西40mの規模をもち、中央部には写真にみえる6×5m、高さ2m程度の段郭が設置されている。
【写真左】本丸・その2
現地には展望・休憩所などが設置されている。
地元では手軽なハイキングコースとして利用されているようで、この日も数人の地元の方が上ってきた。
山城という意識よりも、眺望を楽しむために登ってくる人が大半のようだ。
【写真左】本丸から津山市の街並みを見る
この写真でははっきりしないが、津山市街地全域を俯瞰でき、津山城も綺麗に見える。
●所在地 岡山県津山市総社
●別名 平家城
●築城期 正平年間(1346~70)以前
●築城者 宇都宮教貞
●城主 山名右京太夫氏兼、大蔵甚兵衛尉尚清、千場三郎三衛門
●高さ 標高308m/比高170m
●遺構 郭・土塁・堀切
●指定 津山市指定史跡(1986年7月10日)
●登城日 2008年10月20日
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
神楽尾城は津山市市街地の北西約2キロ地点にある神楽尾山(H308m)に築かれた山城で、麓には登城口でもある「神楽尾公園」が設置され、市民の憩いの場となっている。
【写真左】神楽尾城遠望
登城途中からみたもの
現地に説明板が設置されているが、この日撮影したデジカメの調子が今一つで、ピンボケのため文字が判読できず、全文を紹介できないが、一部を下段に掲載しておく。
“神楽尾城
津山市指定史跡
1986(昭和61)7月10日指定
神楽尾城は、美作国のほぼ中央にある標高308mの神楽尾山に築かれた大きな山城です。(中略)
太平記にも出てくる神楽尾城では、室町時代、山名氏と赤松氏が戦いを繰り広げましたが、その後、永禄9年(1566)毛利元就が尼子義久をやぶると、神楽尾城は毛利氏の大事な城として大蔵甚兵衛尉尚清と千場三郎左衛門が守っていました。
この神楽尾城は、すぐれた縄張の三つの大きな曲輪からできており、多くの空堀や土塁で守られた城でしたが、宇喜多方の荒神山城主花房助兵衛職秀との戦いに負けて落城したといわれています。
山頂からの360度のながめは大変素晴らしく、「四周展望の城」と呼ばれています。
(神楽尾城跡保存協力会)”
【写真左】縄張図
写真が不鮮明だが、本丸は「一の曲輪」と書かれたところで、その南方に武者溜や馬場があり、そこから一旦東方へ100m余り向かうと独立の郭群(「二の曲輪」:二ノ丸)がある。
三の丸は馬場の尾根筋から南に連続した尾根に設置され、規模は二ノ丸より大分小さい。
先月の小田草城(岡山県苫田郡鏡野町馬場)でも記したように、尼子氏の居城・月山富田城が完全に落城したのは、小田草城主斎藤玄蕃に支援を求めた尼子の使者・平野又右衛門の自害の1年後である。
時に永禄9年(1566)11月21日、尼子義久・秀久・倫久(ともひさ)の三兄弟は、毛利元就に降伏、安芸円妙寺に幽閉された。
さて、毛利氏の手に落ちた神楽尾城は、説明板にあるように、大蔵氏と千場氏の両名が守城することになったが、その後、理由は不明ながらこの二人は、対立するようになり、千場氏は密かに城内から奔走、それを土井四郎次郎が追撃し、下田邑迫戸で討ち取られたという。
【写真左】神楽尾公園
登城コースは複数あるようだが、車で来た場合はこの公園内の駐車場に停めて行くのが一般的のようだ。
ここから本丸までは、歩いて約1.5km程度となる。
花房助兵衛職秀の攻略
宇喜多側の花房助兵衛職秀が拠った美作・荒神山城(岡山県津山市荒神山)は、神楽尾城から吉井川を挟んだ南方6キロの荒神山に築かれた山城で、当時宇喜多氏は毛利氏と敵対していたことから、毛利氏属城であったこの神楽尾城を含め、院庄・佐良山城(嵯峨山城:津山市)などに対抗するために築城された。
神楽尾城を落とした花房氏は、当城の守将となり、苔口宗十郎・難波孫左衛門・河内七郎右衛門・柴田六郎右衛門・小嶋次郎兵衛・苅田七郎兵衛らと城を固め、美作の中央部における宇喜多氏の拠点とした。
しかし、花房氏はその後、宇喜多秀家の代になって、文禄3年(1594)には常陸佐竹家に預けられ、荒神山城は廃城となった。
この日の登城ルートは、先に二の丸の方から(東側からのコース)向った。二の丸は余り整備されておらず、雑草がかなり伸びていた。
二の丸のほぼ中央部を登城路が走っており、事実上の堀切と考えられる。
二の丸は南北総延長約100mの規模を持ち、その間に大小5,6カ所の曲輪構成となている。また最南端の曲輪が最高所となっている。
この写真は、そのうちの南側の郭段に設けられた土塁跡。
【写真左】土橋
二の丸から馬場までの間100m余りの間には土橋が設置されている。
もともと、この土橋の北側には湿地帯があり、おそらく馬洗場のようなものがあったと思われるが、場合によっては、二の丸と馬場・本丸城域と分断する濠の用途にも使われたかもしれない。
平時は土橋として、戦時の際はこの土橋を破壊して濠とすることも計画されていたのかもしれない。
このため、付近には「泥田堀」という名称の遺構が残る。
【写真左】馬場跡付近
上記の土橋を抜けると、馬場跡にたどり着く。写真はこの場所で右(北)へは、武者溜や本丸に向い、左(南)に向かうと三の丸に繋がる地点。
先に馬場跡・三の丸に向かう。
【写真左】馬場跡
馬場跡は御覧の通り幅の広いもので、長さは約100m程度ある。
この先には一旦堀切で区画し、そのあと三の丸続く(下の写真参照)。
長径30m×短径20mの郭を北に、南に2段の郭段を構成している。
更にその先には、おそらく当城最大のものと思われる「竪堀」があり、ここで南方からの侵入を遮断している。
【写真左】武者溜(むしゃだまり)
三の丸から再びもどり本丸へ向かうと、馬場を過ぎた地点でやや傾斜しているものの、広い平坦地が見える。これが武者溜で、馬場との明確な区分はない。
当城の中でもっとも広大な規模を持つ遺構で、大半の兵はこの場所に陣取ったと思われる。
【写真左】井戸跡
武者溜脇にあるもので、この井戸は文字通り「人馬一体」の飲用水として使用されたのだろう。
【写真左】武者溜から本丸を目指す
武者溜から本丸へ向かうと、一気に登りこう配の険しいいわゆる切崖となる。
【写真左】本丸下の郭段にある土塁
本丸の下には南東・南西それぞれに向かって3,4段の腰郭が構成されている。
特に南西方向に伸びる郭段は規模が大きく、ここでの陣兵数もかなり確保できただろう。
【写真左】本丸・その1
本丸は南北45m×東西40mの規模をもち、中央部には写真にみえる6×5m、高さ2m程度の段郭が設置されている。
【写真左】本丸・その2
現地には展望・休憩所などが設置されている。
地元では手軽なハイキングコースとして利用されているようで、この日も数人の地元の方が上ってきた。
山城という意識よりも、眺望を楽しむために登ってくる人が大半のようだ。
【写真左】本丸から津山市の街並みを見る
この写真でははっきりしないが、津山市街地全域を俯瞰でき、津山城も綺麗に見える。
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