三星城(みつぼしじょう)
●所在地 岡山県美作市明見
●高さ 標高233m/比高150m
●築城期 応保年間(1161~63)
●築城者 渡辺長寛
●城主 渡辺氏・後藤氏
●遺構 郭・竪堀・土塁・屋敷跡
●指定 市指定史跡
●登城日 2008年2月22日
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
三星城は、当ブログで取り上げてきた古代山城を除いて、築城期が最も古い部類に入るもので、渡辺長寛が応保年間(1161~63)に築いたといわれるから、時期は平安後期で平治の乱(1159)後から、平清盛が太政大臣になる(1167)あいだに当たる。
【写真左】三星山城遠望
左下に見える道路は国道179号線(出雲街道)
その後、長寛の子長信が正治2年(1200)、小田草城(岡山県苫田郡鏡野町馬場)でも述べたように、美作守護職であった梶原景時が幕府から誅罰を受け、自刃したとき、長信も景時に殉じ、ここに渡辺氏の三星城主としての終わりを告げることになる。
その後の経緯については、下段の案内板で紹介しておきたい。
現地の案内板より
“三星城史(概要)
今を去る約850年の昔、1160年 応保年間、土豪渡辺氏の居館としてこの地に妙見城が誕生したと伝えられている。
のち天下は足利幕府の下、1336年地頭職として後藤氏が塩湯郷に入封、1339年・延元4年、妙見城は、後藤一族の居城となる。以後200余年幾多の近郷豪族に依る攻防盛衰の乱世が続く。三星城主後藤一族も、風雲雷鳴の中に身をゆだねつつ、勢力を徐々に拡大、やがて後藤左衛門尉勝基の時代を迎える。
【写真左】登城口付近
右に見える看板に本文(説明板)が書かれている。
この上を上がるとすぐに明見三星稲荷神社や、屋敷跡が見えてくる。
当時、天下は朝廷・幕府共に力なく、まさに武士の社会、戦に勝った者のみが生き延びる戦国下剋上の時代であった。山陰に尼子、西国より毛利、但馬に山名、播磨の赤松、織田も又京に上がらんと機をうかがう、備前は浦上から宇喜多へと大きく勢力図がとってかわる。
1561年・永禄3年、勝基21歳のとき、備前宇喜多直家の息女千代を妻に迎え、これより10数年波乱の朝夜を戦い抜いた青年城主勝基が隆盛の一時代といえよう。
居城三星城は、三星山全山天然の要塞を駆使した三つの峰をもつ山城として、度々の外敵を駆逐し、遂に全作東を制覇し、京に上った信長とも交わりつつ、領国を固めてゆく。
しかし、運命の皮肉はやがて東作の役へと嵐を呼ぶこととなる。真木山長福寺一帯の寺領争いに端を発し、西方吉井川流域にも飛火する。天正5年頃から頻発する盟友備前国との領界争いは、遂に姻戚関係にありながら、不和を生み、備前宇喜多と美作後藤の対決が避けられぬ日を招く。
【写真左】屋敷跡
東西に四角い平坦地が3段連続し、その上に更に大きな平坦地1カ所が残る。
1579年・天正7年の年明けとともに、両雄決戦の火蓋は切られ、東作全土は戦火にまかれる。宇喜多軍は、4月初頭、茶臼山城、美作南部の鷲山、井の内、鷹の巣の諸城を陥して北上。
勝間・位田・湯郷を経て、吉野川、梶並川の合流点長大寺山から入田一帯に布陣。4月末、対岸の倉敷城を破り、三星山南面に肉迫、更に本陣を三海田原に押し進め、梶並川と滝川の中州中嶋口を渡河して、三星城の足下明見原に進攻。
旬日に及ぶ攻防激戦の末、5月2日数に勝る宇喜多軍萬余に及ぶ人馬の総攻撃に立ち向かう後藤が、策を駆使した奇襲白兵戦、山岳戦を展開。
三星軍精鋭の死守の甲斐むなしく敵間者の米倉放火も重なり、さしもの堅城要塞を誇った三星城も落城の悲運が迫りくる。
【写真左】土塁跡
この写真では分かりにくいが、登城路の西側に本丸側の稜線が北に延びた位置から連続して下まで伸びている。土塁としては、この個所のものが一番長大なものである。
勝基の妻子は、毛利方の岩尾山城に夜道を利して落去するも、後日、勝基自害の報せを聞き命を絶つ。
宵闇の刻、東の山に月が昇る頃、城内に側臣を呼んだ城主勝基は、長年苦楽を共にした星霜の日々をかえりみつつ礼を述べ、各々の居郷へ引き揚げるよう申渡し、惜別の盃を交わす。忠臣共は最後の一戦を交え、城を枕に討死を覚悟の勇将多くあり。
【写真左】井戸跡
登城路の途中にあるもので、現在でも水がたまっている。
さらばじゃー、やがて城に火を放ち、勝基は深夜城を退去、長内村大庵寺にて武運つたなく42歳の命を絶つ。
当地には、村人によって後藤神社が建立され、今も供養の日が続く。時あたかも天下統一が目前の織田勢、秀吉による中国毛利攻めが迫りくる。
また、この年より3年後、信長は本能寺に憤死する。今や伝説と化した三星城史は、ふるさと戦国史「三星城合戦伝」(高田編記)に収録されて後世に伝承されることとなる。
附記
三星城関係山城縄張図
遺跡案内、登山道案内
稲荷神社記、等別資料あり
ふるさと戦国史
「三星城合戦伝」解説史談会随時開催
2007、平成19年秋
三星城跡保存会
明見自治会 建立
お問い合わせ先
美作市明見 高田紀康 ℡ 0868-72-2743”
【写真左】西の丸
西の丸は、本丸からみてやや南東方向に曲がった峰に構築されている。頂部は広くなく、むしろ尖った形状をもつ。
説明板にもあるように、三星城は三星山の東西に連なる三つの峰を取り囲んでいる。本丸を中央の峰に、東西の峰をそれぞれ「東の丸」「西の丸」として出丸の役割を担っている。
いわゆる連郭式の山城で、規模はさほど大きくはないが、北麓から東麓を走る出雲街道をほぼ俯瞰できることから、縄張としては理想的な配置となっている。
後藤良貞の置文
三星城主後藤氏の中で、室町期の城主だった後藤豊前入道沙弥良貞(しゃみりょうてい)は、領地支配における「掟書」と同氏惣領に宛てた「置文」を残しているが、この史料は当時の在地領主が具体的にどのような規定の下に治めて行ったかを知る上で貴重なものである。
掟書について特異なのは、当地がすでに温泉地として繁栄し、多くの旅人が湯治に来ており、これらを役銭という形で入湯料として徴収していることである。このほか、同書では塩湯郷(湯郷)地頭職の職務遂行に関わり、諸社造営・湯大明神・上御宮などに対して、9カ条を定めている。
置文の大要は後藤氏一族の「イエ規範」を中心としたもので、掟書と併せ公私の弁別が明確に定められた在地領主法として特筆される。
【写真左】本丸付近
このあたりから眺望がきく。
後藤勝基の最期
説明板にもあるように、三星城の最期の城主となった後藤勝基は、落ち伸びる途中で自刃を遂げるが、その模様をのちに書かれた「三星軍伝記」は次のように伝えている。
“ 首に掛させ給う系図の巻物を河内守久元へ渡し給い、足下長く助命して、基景や基政が後見して、後藤の名字を起させ給えと、厚く頼み給えば(中略)諸士へ御遺言あって、御心静かに自害遂げさせ給う。”
●所在地 岡山県美作市明見
●高さ 標高233m/比高150m
●築城期 応保年間(1161~63)
●築城者 渡辺長寛
●城主 渡辺氏・後藤氏
●遺構 郭・竪堀・土塁・屋敷跡
●指定 市指定史跡
●登城日 2008年2月22日
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
三星城は、当ブログで取り上げてきた古代山城を除いて、築城期が最も古い部類に入るもので、渡辺長寛が応保年間(1161~63)に築いたといわれるから、時期は平安後期で平治の乱(1159)後から、平清盛が太政大臣になる(1167)あいだに当たる。
【写真左】三星山城遠望
左下に見える道路は国道179号線(出雲街道)
その後、長寛の子長信が正治2年(1200)、小田草城(岡山県苫田郡鏡野町馬場)でも述べたように、美作守護職であった梶原景時が幕府から誅罰を受け、自刃したとき、長信も景時に殉じ、ここに渡辺氏の三星城主としての終わりを告げることになる。
その後の経緯については、下段の案内板で紹介しておきたい。
現地の案内板より
“三星城史(概要)
今を去る約850年の昔、1160年 応保年間、土豪渡辺氏の居館としてこの地に妙見城が誕生したと伝えられている。
のち天下は足利幕府の下、1336年地頭職として後藤氏が塩湯郷に入封、1339年・延元4年、妙見城は、後藤一族の居城となる。以後200余年幾多の近郷豪族に依る攻防盛衰の乱世が続く。三星城主後藤一族も、風雲雷鳴の中に身をゆだねつつ、勢力を徐々に拡大、やがて後藤左衛門尉勝基の時代を迎える。
【写真左】登城口付近
右に見える看板に本文(説明板)が書かれている。
この上を上がるとすぐに明見三星稲荷神社や、屋敷跡が見えてくる。
当時、天下は朝廷・幕府共に力なく、まさに武士の社会、戦に勝った者のみが生き延びる戦国下剋上の時代であった。山陰に尼子、西国より毛利、但馬に山名、播磨の赤松、織田も又京に上がらんと機をうかがう、備前は浦上から宇喜多へと大きく勢力図がとってかわる。
1561年・永禄3年、勝基21歳のとき、備前宇喜多直家の息女千代を妻に迎え、これより10数年波乱の朝夜を戦い抜いた青年城主勝基が隆盛の一時代といえよう。
居城三星城は、三星山全山天然の要塞を駆使した三つの峰をもつ山城として、度々の外敵を駆逐し、遂に全作東を制覇し、京に上った信長とも交わりつつ、領国を固めてゆく。
しかし、運命の皮肉はやがて東作の役へと嵐を呼ぶこととなる。真木山長福寺一帯の寺領争いに端を発し、西方吉井川流域にも飛火する。天正5年頃から頻発する盟友備前国との領界争いは、遂に姻戚関係にありながら、不和を生み、備前宇喜多と美作後藤の対決が避けられぬ日を招く。
【写真左】屋敷跡
東西に四角い平坦地が3段連続し、その上に更に大きな平坦地1カ所が残る。
1579年・天正7年の年明けとともに、両雄決戦の火蓋は切られ、東作全土は戦火にまかれる。宇喜多軍は、4月初頭、茶臼山城、美作南部の鷲山、井の内、鷹の巣の諸城を陥して北上。
勝間・位田・湯郷を経て、吉野川、梶並川の合流点長大寺山から入田一帯に布陣。4月末、対岸の倉敷城を破り、三星山南面に肉迫、更に本陣を三海田原に押し進め、梶並川と滝川の中州中嶋口を渡河して、三星城の足下明見原に進攻。
旬日に及ぶ攻防激戦の末、5月2日数に勝る宇喜多軍萬余に及ぶ人馬の総攻撃に立ち向かう後藤が、策を駆使した奇襲白兵戦、山岳戦を展開。
三星軍精鋭の死守の甲斐むなしく敵間者の米倉放火も重なり、さしもの堅城要塞を誇った三星城も落城の悲運が迫りくる。
【写真左】土塁跡
この写真では分かりにくいが、登城路の西側に本丸側の稜線が北に延びた位置から連続して下まで伸びている。土塁としては、この個所のものが一番長大なものである。
勝基の妻子は、毛利方の岩尾山城に夜道を利して落去するも、後日、勝基自害の報せを聞き命を絶つ。
宵闇の刻、東の山に月が昇る頃、城内に側臣を呼んだ城主勝基は、長年苦楽を共にした星霜の日々をかえりみつつ礼を述べ、各々の居郷へ引き揚げるよう申渡し、惜別の盃を交わす。忠臣共は最後の一戦を交え、城を枕に討死を覚悟の勇将多くあり。
【写真左】井戸跡
登城路の途中にあるもので、現在でも水がたまっている。
さらばじゃー、やがて城に火を放ち、勝基は深夜城を退去、長内村大庵寺にて武運つたなく42歳の命を絶つ。
当地には、村人によって後藤神社が建立され、今も供養の日が続く。時あたかも天下統一が目前の織田勢、秀吉による中国毛利攻めが迫りくる。
また、この年より3年後、信長は本能寺に憤死する。今や伝説と化した三星城史は、ふるさと戦国史「三星城合戦伝」(高田編記)に収録されて後世に伝承されることとなる。
附記
三星城関係山城縄張図
遺跡案内、登山道案内
稲荷神社記、等別資料あり
ふるさと戦国史
「三星城合戦伝」解説史談会随時開催
2007、平成19年秋
三星城跡保存会
明見自治会 建立
お問い合わせ先
美作市明見 高田紀康 ℡ 0868-72-2743”
【写真左】西の丸
西の丸は、本丸からみてやや南東方向に曲がった峰に構築されている。頂部は広くなく、むしろ尖った形状をもつ。
説明板にもあるように、三星城は三星山の東西に連なる三つの峰を取り囲んでいる。本丸を中央の峰に、東西の峰をそれぞれ「東の丸」「西の丸」として出丸の役割を担っている。
いわゆる連郭式の山城で、規模はさほど大きくはないが、北麓から東麓を走る出雲街道をほぼ俯瞰できることから、縄張としては理想的な配置となっている。
後藤良貞の置文
三星城主後藤氏の中で、室町期の城主だった後藤豊前入道沙弥良貞(しゃみりょうてい)は、領地支配における「掟書」と同氏惣領に宛てた「置文」を残しているが、この史料は当時の在地領主が具体的にどのような規定の下に治めて行ったかを知る上で貴重なものである。
掟書について特異なのは、当地がすでに温泉地として繁栄し、多くの旅人が湯治に来ており、これらを役銭という形で入湯料として徴収していることである。このほか、同書では塩湯郷(湯郷)地頭職の職務遂行に関わり、諸社造営・湯大明神・上御宮などに対して、9カ条を定めている。
置文の大要は後藤氏一族の「イエ規範」を中心としたもので、掟書と併せ公私の弁別が明確に定められた在地領主法として特筆される。
【写真左】本丸付近
このあたりから眺望がきく。
後藤勝基の最期
説明板にもあるように、三星城の最期の城主となった後藤勝基は、落ち伸びる途中で自刃を遂げるが、その模様をのちに書かれた「三星軍伝記」は次のように伝えている。
“ 首に掛させ給う系図の巻物を河内守久元へ渡し給い、足下長く助命して、基景や基政が後見して、後藤の名字を起させ給えと、厚く頼み給えば(中略)諸士へ御遺言あって、御心静かに自害遂げさせ給う。”
右の「系図の巻物」とは、後藤氏が南北朝時代から続いた祖先の系譜が記され、また後藤氏の家訓が代々受け継がれてきた理念がそこに映し出されていたといわれている。
【写真左】本丸から西の丸
この辺りから全体に郭の形状が明確に残っているところが少ない。
築城期が平安後期といわれているので、場所によっては戦国期に至っても全く手が加えられていない遺構もあるかもしれない。
【写真左】本丸付近より美作の街並みを見る