2020年1月26日日曜日

松前城(愛媛県伊予郡松前町筒井1440)

松前城(まさきじょう)

●所在地 愛媛県伊予郡松前町筒井1440
●別名 正木城、真崎城、松崎城
●指定 松前町指定史跡
●形態 海城
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 不明
●城主 合田氏、河野氏、粟野氏、加藤嘉明等
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2016年11月26日

◆解説(参考資料 「日本城郭体系 第16巻」、HP 『城びと』、HP『城郭放浪記』等)
 伊予・松山城(愛媛県松山市丸の内) から南西方向へおよそ8キロほど進むと、伊予灘に注ぐ重信川河口付近に松前城が所在する。
【写真左】松前城跡に建つ石碑
 現地は都市化によって大幅に改変され、遺構を残すものはほとんどなく、盛土によってその位置を示すものしかない。


現地の説明板より

”松前(まさき)城址

 この辺りは、古くに松前城があったところで、この碑は、松前城の歴史を後世に伝えるため、大正14年(1925)に建立したものです。題額は旧陸軍大将 秋山好古(よしふる)の書で、撰文は郷土史研究家西園寺源透(げんとう)によるものです。

 松前城の歴史は古く、その起源は平安時代にさかのぼると伝えられていますが、松前城の名が初めて文献にあらわれるのは、大山祇神社文書の「祝安親(ほふりやすちか)軍忠状」による祝氏の軍功報告においてです。それによると、建武三年(1336)、松前城にたてこもる南朝方の合田弥太郎定遠(さだとう)を北朝方の祝氏が攻め落とした旨記されていますので、松前城はすでに南北朝時代には存在していたことになります。
【左図】松前城 想像図
 残された記録から管理人が想像で描いたもので、左側は外堀を介して伊予灘が接し、北側は伊予川(重信川)が西進している。




 松前城に拠った武将も湊川の戦いには北朝側として戦い、楠正成を敗った大森彦七やその大森氏を滅ぼした荏原の平岡氏などが次々に入れ替わりました。

 やがて南北朝時代が終わり、室町時代を経て戦国期になると、松前城は河野氏の居城湯築城の出城として、西方海上防衛の前線基地の役割を果たすこととなり、河野氏家臣の栗上氏が詰めていた頃には、豊後の大友氏、安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏らが相次いで侵攻してきたため、松前城では攻防の激戦が幾度となく繰り返されました。
【写真左】西側から遠望
 松前城の西側は県道22号線が南北に走っているが、このあたりはおそらく内堀や外堀があったところだろう。



 天正13年(1585)、豊臣秀吉による四国平定後は河野氏の当主通直(みちなお)は、夫人の実家のある安芸国竹原に退去し、天正16年(1588)、淡路国志智城(しちじょう)主1万5千石の加藤嘉明が久米、温泉、乃万、伊予の中予四郡6万石の領主として松前城の最後の城主となりました。
 松前城に入城した嘉明は城内にあってこの城の起源と深くかかわってきた性尋寺(しょうじんじ)を金蓮寺(こんれんじ)として、今の西古泉に移したうえ、城郭内外の拡充整備を行いました。同時に松前を乱流していた伊予川とその河口の港の大改修に取り掛かりました。
【写真左】石碑・その1





 慶長2年(1597)には、秀吉の命により、2千4百余の兵を率いて朝鮮に出兵し、その功で10万石に加増されました。秀吉の死後、徳川方として戦った関ヶ原の合戦でも戦功をあげ、20万石に加増され、慶長8年(1603)、新たに築城した松山城に移り、松前城は廃城とされました。

 松前城に使われていた石垣や櫓などの資材は、松山城の築城に使われ、廃城後の松前城は、「古城(ふるしろ)」と呼ばれますが、その跡地は次第に農地化され、明治期に行われた耕地整理により地形は一変しました。唯一、二の丸跡に残されていた龍燈の松も、大正11年(1922)に倒壊し、古城跡は消滅しました。

 この松前城は、龍燈の松があったところで、昭和44年(1969)に史跡として松前町文化財に指定しました。
      松前町教育委員会”

【写真左】石碑・その2
 大正14年に建立されたもので、撰文は郷土史研究家西園寺源透(げんとう)氏のもの。









南北朝期

 松前城の築城期及び築城者については上掲した説明板にも史料がなくはっきりしないとしているが、おそらく源平合戦が行われた平安後期頃であろう。記録として残るのは南北朝期で、『集古文書』(『大山祇神社文書』)によれば、南朝方の合田弥四郎定遠が籠城していて、建武3年(1336)北朝方の河野通治の臣・祝彦三郎安親が攻め、合田弥四郎は由並・本尊城(愛媛県伊予市双海町上灘) へ敗走したといわれる。

 その後応安元年(1368)当城には北朝方の宍草入道出羽守が守城していたが、河野通直(土居構(愛媛県西条市中野日明) 参照)の攻撃によって落城、以後河野氏の支配となり、同氏の将栗上通宗・宗閑の居城となった。その後、戦国期に至るまで目立った記録がないところを見ると、そのまま河野氏の居城として続いたものと思われる。

粟野秀用

 戦国に至ると、天正13年(1585)の秀吉による四国征伐で当城は小早川隆景の前に開城した。その後、文禄年間(1592~)になると粟野秀用が7万石を領して入城した。

 粟野秀用(あわのひでもち)、余り馴染みのない武将だが、もともと奥州伊達政宗の家臣である。しかし、仔細あって当地で罪を犯し死罪を言い渡されると、これを知って逃亡した。京都に出奔したのち、尾張で豊臣秀吉に仕える機会を与えられ、武功を挙げた。これに対し秀吉は知行一万石を与えた。それを知った政宗は、秀吉に秀用を引き渡すように要求したが、秀吉が拒否したため政宗は秀吉の威光に恐れたのだろう、それ以上追及しなかった。

 その後、上述した四国攻めの際は、再び武勲を挙げ、その功に依ってこの松前城10万石を与えられることになった。その後、秀用は秀吉の命により豊臣秀次(近江・八幡山城(滋賀県近江八幡市見宮内町) 参照)に仕え、さらなる加増を与えられていくことなる。
 しかし、文禄4年(1595)6月、突如として秀次に謀反の疑いが掛けられ、この秀次事件に連座して京の三条河原にて斬首された(一説には、大雲院に入って秀次の無罪を訴え自害したともいわれている)。

 秀吉による秀次事件の処罰は常軌を逸したもので、誰も諫めることができなくなった独裁者の典型的な末路であるが、それにしても、犠牲となった秀用をはじめ多くの無実の者たちは、実に憐れとしかいいようがない。
【写真左】歩道側から見る。
 車で走っていると見過ごすほどの小規模なものなので、近くに車を停め、じっくりと歩いて向かった方がいいと思われる。




塙団右衛門(ばん だんえもん)

 さて、粟野秀用が斬首されたその年(文禄4年)、秀用に代わって入部したのが加藤嘉明である。加藤嘉明は賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦) で紹介したように、七本槍の一人で、のちに伊予・松山城(愛媛県松山市丸の内) を築くことになる。
 その嘉明に仕えていたのが塙団右衛門である。松前城跡には彼の事績を示す石碑が祀られている。

現地の説明板より

 団右衛門
     (1550頃~1615)

 遠江に生まれたと言われ、名は直之。18歳の頃、織田信長に仕えた。義侠心に富み、友情は厚かったが、直情径行、独断専行するところがあった。やがて士分に取り立てられたが、酒に酔って人を傷つけ追放された。
 その後、加藤嘉明に仕え、各地を転戦し手柄を立てて次第に昇進し、大豪の士として認められるようになった。文禄の役(1592)では、縦横数メートルの旗を背負い活躍したという。
 文禄4年(1595)、嘉明が伊予国松前城に6万石の大名として封ぜられたときには、団右衛門も松前に住んでいたのであろう。
 関ヶ原の戦い(1600年)では、嘉明のとっておきの鉄砲隊を指揮したが、独断で突撃した。
【写真左】塙団右衛門の鎧
 下の写真にある奥出雲可部屋集成館に展示されているもので、普段は下段に紹介している田儀櫻井家(分家)がある出雲市多伎町の文化伝承館に収蔵されている。
 今回(2021年10月~12月5日)秋の企画展において展示された。






 奮戦したにもかかわらず、嘉明に「生涯、人の将たり得ず」とひどく責められた。
 団右衛門は納得できず、「遂に、江南の野水に留まらず、高く飛ぶ東海の一閑鷗」と床柱に墨書し、城を去ったといわれている。
 また、「義農之墓」に並んで後年建てられた、平田東助子爵撰文の「義農頌徳碑」に使われた石は、団右衛門が松前を去る時に振り返った橋に使われていた石であるとして名付けられた「団右衛門見返りの石」という。
 大坂冬の陣(1614)では、嘉明が東軍についたのに対し、団右衛門は豊臣方として本町橋(現、大阪市中央区)での夜襲戦を指揮し、快勝するなど活躍した。夏の陣では勇敢に戦い豊臣方大将の最初の戦死者になったという。
     松前町教育委員会”
【写真左】塙団右衛門の説明板
 現地に設置されている。










可部屋集成館

 ところで、説明板にもあるように塙団右衛門は最期は大阪夏の陣で、和泉国において討死するが、彼の嫡男直胤は母方の姓「桜井」を名乗り、広島の福島正則に仕えた。

 福島正則が改易になると、武士を捨て広島城の北方可部郷に移り、製鉄業を開始した。三世直重の代になると、鉄の鉱脈を求めて奥出雲の上阿井に入り、屋号を「可部屋」とし、以後奥出雲櫻井家として「たたら製鉄」の操業を発展させた。
【写真左】可部屋集成館
 所在地:島根県仁多郡奥出雲町上阿井1655

 可部屋集成館は雪深い地であることから、毎週月曜日とは別に、12月中旬から3月中旬までは休館日となっている。


 現在当地(奥出雲町)には、その資料等を収めた「可部集成館」があり、奥出雲の三大鉄師(田部家・絲原家・櫻井家)の一人として繁栄を誇った桜井氏累代の資料が展示されている。

 因みに、奥出雲桜井家はその後、江戸時代になると、新たな鉱脈を求めて石見国との境になる神門郡奥田儀村(現:出雲市多伎町奥田儀)へ来住し、以後明治23年(1890)までのおよそ250年間タタラ製鉄を中心として栄えた。
 平成18年には「田儀櫻井家たたら製鉄遺跡」として国史跡に指定されている。
【写真左】田儀櫻井家たたら製鉄遺跡
所在地:島根県出雲市多伎町奥田儀
探訪日:2007年1月20日
写真:櫻井家別荘及び山内従事者の住宅跡に残る石垣。
【写真左】管理人の本家御夫婦と当地を訪ねる。
 探訪日:2007年6月13日
 本家(屋号:鍛冶屋)の先祖は、櫻井家に代々仕えた渡辺(渡部)家の系譜に繋がる。

2020年1月18日土曜日

石蟹山城(岡山県新見市石蟹)

石蟹山城(いしがやまじょう)

●所在地 岡山県新見市石蟹
●高さ H:300m(比高130m)
●築城期 不明(16世紀前半か)
●築城者 不明
●城主 石蟹氏
●遺構 郭・土塁・堀切・石積他
●登城日 2016年11月18日

◆解説(参考資料 石蟹山城パンフ等)
 石蟹山城は、備中国高梁川沿いにある山城で、当城の真下をJR伯備線がトンネルで通過している。
【写真左】石蟹山城遠望
 東麓の上長屋方面から見たもので、右側に大きく蛇行した高梁川が流れている。
 この地区には上長屋と長屋という字名をとどめていることから、この付近にかつて石蟹山城の根小屋があったことを想起させる。


現地の説明板より

‟石蟹山城の概要

 石蟹山城は、標高310mの尾根にある典型的な連郭式山城である。高梁川と小坂部川の合流する西方の山頂にあり、城の西は谷によって画されており、天険の要害である。

 12の郭をもつ本丸と、3つの郭を持つ出丸とからなる。東方から登ると、五の壇の北側に虎口がある。五の壇はきわめて重要で、上の郭と下の郭とを区分している。また、南東側には武者走り、兵の移動が迅速にできるように造られている。なお、本丸と出丸の間には堀切、東の出丸下に大手、西南の搦手には水の元がある。
【左図】石蟹山城の周辺案内図
 現地にあったパンフレットから抜粋したもので、この図では石蟹山城のほか、支城と思われる鯉滝城が描かれている。



 「石蟹与兵衛元宜」の名が登場するのは、天文の頃(153254)からで、天文年間は、周防の大内義隆と出雲の尼子晴久が中国地方の覇権を、また、備中では、尼子の先鋒庄為資と三村家親とが備中の覇権を巡って激しく争っていた時代である。
 「石蟹与兵衛元宜」は、三村氏の庶流といわれたが、三村氏に追随することなく、庄一族として独自の道を歩んでいる。

「石蟹与兵衛元宜」は、天文の初め頃、出雲の富田城に13年蟄居している。その間、新見氏の庶流新見左京が城代として居城している。『日本城郭体系』によると、元亀元年(1570)石蟹山城は、宇喜多直家に攻められて落城している。
 なお『豊臣秀吉朱印状』には、朝鮮出兵の活躍で「石蟹氏」の子孫の名が見えるが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い以後「石蟹氏」の動向は不明である。

 平成275月吉日 石蟹山城保存会“
【左図】縄張図
 同じくパンフレットに掲載されたもので、白石博則氏提供のもの。
 一般的な縄張構造で、シンプルなものだ。
 この図でいえば、登城口は右上の方に当たる。





石蟹氏

 石蟹山城及び 石蟹氏についてはこれまで、備中・西山城(岡山県新見市哲西町八鳥)佐井田城(岡山県真庭市下中津井) で少し触れている。
 説明板にもあるように、石蟹山城の築城期は不明だが、16世紀前半すなわち室町時代と思われる。築城者も不明とあるが、おそらく石蟹氏と思われる。
 
 城主と思われる石蟹与兵衛元宜(以下「石蟹元宜」とする。)は天文年間出雲の尼子氏居城・月山富田城に13年間蟄居されていたとされ、その間、当城の城代として新見氏の庶流新見左京が入っている。
【写真左】登城口
 以前訪れたとき、麓の道の幅員が大変狭く、また適当な駐車スペースも確保できなく断念したが、この年(2016年)神社の左側の道が広くなり、車一台分の路肩スペースに停めることができた。
 そこから少し歩くとに小さな「石蟹山城→」と書かれた案内板が設置してある。


 尼子氏の天文年間における動きについては、これまで述べてきたように、尼子経久が備中・美作を席巻し、さらには備前をこえて播磨に入った時である。おそらく石蟹元宜はこのとき捕らえられたものだろう。

 元宜が蟄居されたとき、楪城(岡山県新見市上市)主新見氏の庶流新見左京が 城代として当城の任に当たっていたとある(『備中府志』)。一般的には攻略したあとは、勝者側に属する者が奪取した城の城番等に収まる場合が多いが、当城では尼子氏直臣のものでなく、石蟹城から高梁川沿いに12キロほど向かった楪城の新見氏を城番としていることを考えると、新見氏はこのときすでに尼子氏に恭順の意を示し、尼子氏もそれを受け入れたということだろう。そして石蟹元宜の蟄居については、おそらく尼子氏がその後の備中攻めの際、彼を有効に使いたい意図があったものと思われ、自刃をさせずそのまま生かしておきたかったのだろう。
【写真左】登城道・その1
 前半の道は全体に傾斜が緩やかで歩きやすい。
 途中の所々には写真にあるように標柱が立っており迷うことはない。


 なお、説明板では関ヶ原以後石蟹氏の動向は不明となっているが、毛利氏が防長二州に移封された際、石蟹(石賀)氏は随従しておらず、在地(石蟹)に根付いて独自性を持続したようであると『日本城郭体系』には記してある。
【写真左】登城道・その2
 この辺りからだんだん傾斜がきつくなる。
 最初は尾根の左側を進むが途中で右に向かう。
【写真左】石積
  右側の登城道に切り替わった地点で、まとまった石積が左側にある。
 おそらく城戸だったところだろう。
【写真左】案内図
 冒頭の縄張図とは別に国道180号線沿いに案内看板が設置されているが、その下部にあった案内図を添付しておく。
 この図で言えば下方が北を示す。
【写真左】郭段が出始める。
 何度か左右に折れ道を過ぎると、やがて小中の郭段が出てくる。
【写真左】出丸
【写真左】堀切
 出丸を過ぎるとすぐに堀切が配置されている。
【写真左】堀切から上を見上げる。
 手前に堀切があるため、この先にある曲輪群先端部との比高差は10m近くあるだろう。
【写真左】虎口
 ここから右側に連続する郭群が続く。

 虎口を形成する左右の高まりは枯れ枝などの堆積ではっきりしないが、当時は左右に警備上の遺構があったと思われる。
【写真左】郭段
 最初の段からおよそ8か所の郭が連続して続くが、写真はそのうちの一つで、横から見たもの。
【写真左】犬走りと石列
 中段で示した案内図には犬走は途中の郭に接続され、その郭の反対側(北側)に繋がっているように書かれているが、現地は整備されていないため、このまま左側の段を進んだ(下記参照)。
 写真は犬走の途中に見えた石列。
【写真左】6段目の郭を下の段から見る。
 冒頭の説明板にも記されているように、連続する郭段の途中(5~6段目)の比高差はそれまでの段差に比べて明らかに高く、ここで区分されている。

 ちなみに、この段の奥(北側)から虎口を介して搦手のルートが設定されている。
【写真左】主郭が近づいてきた。
【写真左】主郭
 「石蟹山城址」と刻銘された石碑が建っているが、おそらくこの位置が最高所だろう。

 石碑の傍らにはヘルメットとチェーンソーが置いてある。どなたかがこの時期当城の整備作業に携わっておられたのだろう。
【写真左】見張台
 主郭の北西端部に当たるところで、手前には最近設置されたのだろう皮をくりぬいた木製のベンチが設置してある。
【写真左】展望台の椅子にかけて休憩
 山城登城でいつも思うことは、こうした本丸にたどり着いたとき、休憩するための椅子や腰掛があるととてもうれしい。

 無い場合は持参してきた簡単な敷物を開いて地ベタに座るのだが、座り心地の点から言えばやはり腰掛の方が断然楽である。
 設置していただいた関係者の方に感謝したい。
【写真左】本丸から石蟹の街並みを俯瞰する。
 この位置からは北北西の方向になるが、JR伯備線石蟹駅や、右下に少し高梁川の川岸が見える。因みにこのまま高梁川を遡っていくと楪城に繋がる。
【写真左】石列?
 主郭の一角に見えたもので、不揃いながらまとまっている。主郭の南下の帯郭縁には石列の跡があるようだが、この石塊は何かを祀っていた基壇跡かもしれない。
【写真左】主郭下の腰郭
 主郭の南側下段には2段の腰郭が配置されている。
 ここから降りてみる。
【写真左】腰郭の土塁
 縁部分は御覧の通り土塁が構築されている。
 全体に石蟹山城の防御上の特徴は尾根の西側から北にかけての遺構が多く、このことから高梁川上流部からの攻撃を意識して築かれた意図が読み取れる。

 換言すれば、新見氏(杠氏)あるいは、出雲の尼子氏の攻撃を想定していたのではないかと考えられる。
【写真左】腰郭からさらに下を望む。
 案内図では、ここからさらに下に降りると搦手道があるはずだが、今回はそこまで向かっていない。因みにその道が実質上の堀切となり、南から延びる尾根をここで区切る。
【写真左】腰郭から主郭を見上げる。
 振り返るとなかなかの険峻さである。
【写真左】横堀か
 記憶が定かでないが、上記の腰郭から少し回り込んだ箇所で横堀のような長い窪みが見えた。またそれを跨ぐ土橋のようなものも見える。
【写真左】五輪塔
 当城麓の数か所にこうした小規模な五輪塔が点在している。
 石蟹氏一族らのものだろうか。


2020年1月13日月曜日

芝山城(香川県高松市香西北町芝山)

芝山城(しばやまじょう)

●所在地 香川県高松市香西北町芝山
●形態 海城
●高さ H:44m(比高40m)
●築城期 戦国期
●築城者 香西佳清
●城主 渡辺市之亟・三之亟兄弟
●遺構 土塀・郭
●備考 芝山神社
●登城日 2016年11月12日、及び2020年1月9日

◆解説
 芝山城は、前稿藤尾城(香川県高松市香西本町465 宇佐神社) で紹介したように、香西氏18代佳清のとき、長宗我部元親の讃岐侵攻に備えて築いた北の海の砦として築かれた海城である。
【写真左】芝山城遠望
 芝山城の南麓を東西に横断するさぬき浜街道(国道16号線)に架かる橋の途中から西方に見たもので、右側にある宅地は当時は陸はなく、芝山城の麓までが瀬戸内の海だった。


現地の説明板・その1

”芝山城跡

 勝賀城主香西氏の出城の一つで、芝山の頂上にありました。
  本丸   四間に六間(7.3m、11m)
  北ノ丸  三間に五間(5.5m、9m)
  南ノ丸  四間に七間(7.3m、12.7m)

 現在は土塀の一部がわずかに残っているだけである。城を守っていたのは、香西氏の家臣で直島に本居をかまえていた渡辺氏の市之亟と三之亟兄弟が守っていた水城でありました。″
【左図】芝山城の位置図
 前稿・藤尾城で紹介したように、芝山城は藤尾城の北方にあり、瀬戸内に面している。
【写真左】南端部入口の階段
 国道16号線と南北に交わる幹線道路の交差点付近で、写真の横断歩道を渡り、階段を上がっていく。


渡辺氏と高原氏

 芝山城の城代として渡辺市之亟及び三之亟兄弟の名が残る。香西氏の家臣で直島に本拠を構えていたという。ところで、この「亟」という漢字をあてているが、現地の説明板ではこれより画数の多い旧字で書かれている。残念ながら、この漢字をIMEパッドでは置き換えができないため「亟」としている。呼称は「じょう」なので、それぞれ市之亟(いちのじょう)、三之亟(さんのじょう)であろう。
【写真左】芝山城の石碑
 階段の上り縁には御覧の「芝山城跡」と筆耕された石碑が建つ。






 さて、説明板ではこの渡辺兄弟は直島に本拠を構えていたという。直島は芝山城のある香西から北へおよそ10キロ余り北に向かった瀬戸内に浮かぶ島だが、本州側岡山の宇野からはおよそ2キロほどしか離れていない。

 直島の水軍領主として名が残るのは、同島に直島城(別名 高原城)を居城とした高原氏である。高原氏は天正年間(1573~92)にこの直島城を築いたとされ、その出自は香西氏の一族または川之江の川上氏(河上氏)(川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山) 参照)など諸説が残る。
【写真左】階段を上がる。
 芝山城の本丸跡には後段でも紹介する芝山神社が祀られている。
 そのため、最初の階段を登った踊り場には門柱が建っている。登城したのが今年(2010年)の正月明けだったので、注連縄などが飾られていた。


 説明板では渡辺市之亟兄弟も直島を本拠としていると書かれているが、もともと直島を含めたこの付近の島嶼は世に名高い「塩飽水軍(海賊)」が支配していた場所で、この中から塩飽氏を筆頭に、宮本・吉田・妹尾及び渡辺氏の諸氏が出ており、渡辺氏の当時の本拠地が直島であったとするならば、高原氏が居城とした直島城とは反対側の西側すなわち、宮浦港付近であったかもしれない。
【写真左】勝賀城を遠望する。
 階段の途中で振り返ると、右側に勝賀城(香川県高松市鬼無町) が見えてくる。





渡辺党

 ところで、同氏は瀬戸内を活動域としていた水軍もしくは水運にかかわる一族であったことから、平安時代後期摂津国(大阪)の渡辺津(江戸時代には「八軒家」)を本拠とし、淀川・大和川・大阪湾の水運権益を担った渡辺党がその源流と考えられる。

 この場所は現在の大阪府中央区天満橋京町で、京阪鉄道天満橋駅の近くに当たり、今も八軒家浜舟着場がある。因みに、源平合戦の際、義経が屋島の戦いに赴く際、この渡辺党の協力があったといわれている。

 また、以前紹介した備後の、一乗山城(広島県福山市熊野町上山田・黒木谷) の城主渡辺氏も元はこの渡辺党の庶流ともいわれ、後に同氏が福山港側の手城山城(広島県福山市手城町字古城) に在陣したのも、もとは水軍領主であったことからきたものだろう。
【写真左】直登の階段
 麓からの九十九折れ階段を過ぎると、今度はまっすぐな階段が上に向かって伸びる。
 途中には鳥居が見える。
【写真左】改修された灯篭
 階段の脇には、左右に灯篭が配置され、その台座が新しい。見ると令和元年の文字がある。昨年(2019年)にこの先の階段を含めた参道が改修されたようだ。
【写真左】藤尾城を遠望する。
 登坂の参道を上がっていくと、次第に景色が広がる。振り返ると、南に藤尾城見える。
 芝山城から藤尾城まではおよそ700mほどである。
【写真左】狛犬
 芝山の頂部が近づいてきた。左右には狛犬が鎮座し、奥には芝山神社の拝殿が見える。






芝山天狗伝説

 本殿わきには芝山天狗伝説の由来を示す説明板が掲示されている。
 この中に書かれている白峰山とは、以前紹介した崇徳天皇 白峯陵(香川県坂出市青海町) や四国81番札所白峯寺のある白峰山(H:350~400m)で、八栗山とは、85番札所八栗山がある通称五剣山(H:366m)のことである。両山間の距離は約20㎞で、芝山城はほぼその中間点に当たる。
【写真左】説明板の裏にある岩
 今付近にはこのほか三体ぐらい別の岩があり、いずれも注連縄が掛けられている。いずれも磐座として祀ってきたものだろう。

現地の説明板・その2

❝芝山天狗伝説

 昔から白峰山の天狗相模坊(さごんぼう)と八栗山の天狗中将坊(ちゅうじょうぼう)は、仲間同志でお互いに行ったり来たりしていた。ある日、白峰の相模坊天狗が八栗の中将坊天狗のところへ飛んでいく途中、芝山の上空で突然大風にあおられて芝山に落ちてきたそうな。天狗は風がやむのを待つため腰かけて休憩したそうな。

 その時、腰かけた岩を天狗岩と言ったそうだが、どの岩が天狗岩か知っている人は今はいない。こんなことがあってからは、白峰の天狗は芝山の上空を飛ぶときは、芝山で一休みしていたそうな。
 八栗の天狗は、一ツはまの金の下駄をはいてチャリン、チャリンと鳴らして歩いていたと言うそうな。

 芝山にも天狗が棲んでいたいたと伝えられている。ある夜、沖で投網を打っていた漁師が芝山から天狗が飛ぶのを見たという言い伝えがあるそうな。この様な言い伝えが天狗伝説として芝山には昔から残されています。”

【写真左】芝山神社拝殿
 規模は小さなものだが、定期的に祭事が行われているようだ。

 この付近から頂部になり、奥まで平坦部が続く。芝山神社周辺部が当時の南の丸だったと思われる。


現地の説明板より

”芝山神社
 芝山神社の祭神は
大歳神大国主命 大黒さん
御歳神事代主命 恵比須さん
市杵島姫命 弁天神さん
 を奉り、地区住民が毎年10月に例祭を執り行っています。”

【写真左】本殿東側・その1
 いわゆる境内となるが、意外と奥行がありそうだ。

【写真左】本殿東側・その2
 現地には神社及び関連の施設なども設置されていて当時の遺構は確認できないが、何となくこの東側には土塁のようなものがあったようにも見える。
【写真左】さらに奥に進む。
 南の丸から本丸にかけての位置になる。
【写真左】三角点
 この辺りが本丸となる。
【写真左】北の丸
 南北に細く伸びた当城の北端部で、北の丸に位置する。
 この先は向かっていないが、先端部は切岸となっている。
 現在北麓は道路が回り込んでいるが、当時は海岸部だったと思われる。
【写真左】勝賀城を遠望する。
 振り返ると右奥には香西氏の詰城勝賀城が優美な姿を見せる。
【写真左】本丸付近から瀬戸内を俯瞰する。
 北東方向を見たもので、眼下には香西の港があり、奥には屋嶋城(香川県高松市屋島東町) や、女木島・男木島などが見える。



香西寺

 ところで、藤尾城の近くには古刹・香西寺が建立されている。天平11年(739)行基が勝賀山の北麓に勝賀寺を創建し、その後空海が弘仁8年(817)に現在地に移転、その後衰退したが、鎌倉時代に香西氏の祖・資村が再興し、香西寺と改称、以後代々香西氏の庇護を受けた。

 南北朝期に至ると細川頼之(讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)参照) が守護所を当地(香西本町)に移すと、11代当主香西元資が地福寺と改称し、桃山時代には生駒親正が復興した際、高福寺と再び改称、元の名に戻ったのは江戸時代の寛文9年(1669)高松藩主松平頼重が、伽藍整備を行った時で、寶幢山(ほうどうざん)香西寺とした。
【写真左】香西寺
所在地 高松市香西西町211番地

宗派 真言宗大覚寺派

本尊 地蔵菩薩

札所 四国別格20番霊場