石蟹山城(いしがやまじょう)
●所在地 岡山県新見市石蟹
●高さ H:300m(比高130m)
●築城期 不明(16世紀前半か)
●築城者 不明
●城主 石蟹氏
●遺構 郭・土塁・堀切・石積他
●登城日 2016年11月18日
◆解説(参考資料 石蟹山城パンフ等)
石蟹山城は、備中国高梁川沿いにある山城で、当城の真下をJR伯備線がトンネルで通過している。
【写真左】石蟹山城遠望
東麓の上長屋方面から見たもので、右側に大きく蛇行した高梁川が流れている。
この地区には上長屋と長屋という字名をとどめていることから、この付近にかつて石蟹山城の根小屋があったことを想起させる。
現地の説明板より
‟石蟹山城の概要
石蟹山城は、標高310mの尾根にある典型的な連郭式山城である。高梁川と小坂部川の合流する西方の山頂にあり、城の西は谷によって画されており、天険の要害である。
12の郭をもつ本丸と、3つの郭を持つ出丸とからなる。東方から登ると、五の壇の北側に虎口がある。五の壇はきわめて重要で、上の郭と下の郭とを区分している。また、南東側には武者走り、兵の移動が迅速にできるように造られている。なお、本丸と出丸の間には堀切、東の出丸下に大手、西南の搦手には水の元がある。
【左図】石蟹山城の周辺案内図
現地にあったパンフレットから抜粋したもので、この図では石蟹山城のほか、支城と思われる鯉滝城が描かれている。
「石蟹与兵衛元宜」の名が登場するのは、天文の頃(1532~54)からで、天文年間は、周防の大内義隆と出雲の尼子晴久が中国地方の覇権を、また、備中では、尼子の先鋒庄為資と三村家親とが備中の覇権を巡って激しく争っていた時代である。
「石蟹与兵衛元宜」は、三村氏の庶流といわれたが、三村氏に追随することなく、庄一族として独自の道を歩んでいる。
「石蟹与兵衛元宜」は、天文の初め頃、出雲の富田城に13年蟄居している。その間、新見氏の庶流新見左京が城代として居城している。『日本城郭体系』によると、元亀元年(1570)石蟹山城は、宇喜多直家に攻められて落城している。
なお『豊臣秀吉朱印状』には、朝鮮出兵の活躍で「石蟹氏」の子孫の名が見えるが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い以後「石蟹氏」の動向は不明である。
平成27年5月吉日 石蟹山城保存会“
【左図】縄張図
同じくパンフレットに掲載されたもので、白石博則氏提供のもの。
一般的な縄張構造で、シンプルなものだ。
この図でいえば、登城口は右上の方に当たる。
石蟹氏
石蟹山城及び 石蟹氏についてはこれまで、備中・西山城(岡山県新見市哲西町八鳥) 、佐井田城(岡山県真庭市下中津井) で少し触れている。
説明板にもあるように、石蟹山城の築城期は不明だが、16世紀前半すなわち室町時代と思われる。築城者も不明とあるが、おそらく石蟹氏と思われる。
城主と思われる石蟹与兵衛元宜(以下「石蟹元宜」とする。)は、天文年間出雲の尼子氏居城・月山富田城に13年間蟄居されていたとされ、その間、当城の城代として新見氏の庶流新見左京が入っている。
【写真左】登城口
以前訪れたとき、麓の道の幅員が大変狭く、また適当な駐車スペースも確保できなく断念したが、この年(2016年)神社の左側の道が広くなり、車一台分の路肩スペースに停めることができた。
そこから少し歩くとに小さな「石蟹山城→」と書かれた案内板が設置してある。
尼子氏の天文年間における動きについては、これまで述べてきたように、尼子経久が備中・美作を席巻し、さらには備前をこえて播磨に入った時である。おそらく石蟹元宜はこのとき捕らえられたものだろう。
元宜が蟄居されたとき、楪城(岡山県新見市上市)主新見氏の庶流新見左京が 城代として当城の任に当たっていたとある(『備中府志』)。一般的には攻略したあとは、勝者側に属する者が奪取した城の城番等に収まる場合が多いが、当城では尼子氏直臣のものでなく、石蟹城から高梁川沿いに12キロほど向かった楪城の新見氏を城番としていることを考えると、新見氏はこのときすでに尼子氏に恭順の意を示し、尼子氏もそれを受け入れたということだろう。そして石蟹元宜の蟄居については、おそらく尼子氏がその後の備中攻めの際、彼を有効に使いたい意図があったものと思われ、自刃をさせずそのまま生かしておきたかったのだろう。
【写真左】登城道・その1
前半の道は全体に傾斜が緩やかで歩きやすい。
途中の所々には写真にあるように標柱が立っており迷うことはない。
なお、説明板では関ヶ原以後石蟹氏の動向は不明となっているが、毛利氏が防長二州に移封された際、石蟹(石賀)氏は随従しておらず、在地(石蟹)に根付いて独自性を持続したようであると『日本城郭体系』には記してある。
【写真左】登城道・その2
この辺りからだんだん傾斜がきつくなる。
最初は尾根の左側を進むが途中で右に向かう。
【写真左】石積
右側の登城道に切り替わった地点で、まとまった石積が左側にある。
おそらく城戸だったところだろう。
【写真左】案内図
冒頭の縄張図とは別に国道180号線沿いに案内看板が設置されているが、その下部にあった案内図を添付しておく。
この図で言えば下方が北を示す。
【写真左】郭段が出始める。
何度か左右に折れ道を過ぎると、やがて小中の郭段が出てくる。
【写真左】出丸
【写真左】堀切
出丸を過ぎるとすぐに堀切が配置されている。
【写真左】堀切から上を見上げる。
手前に堀切があるため、この先にある曲輪群先端部との比高差は10m近くあるだろう。
【写真左】虎口
ここから右側に連続する郭群が続く。
虎口を形成する左右の高まりは枯れ枝などの堆積ではっきりしないが、当時は左右に警備上の遺構があったと思われる。
【写真左】郭段
最初の段からおよそ8か所の郭が連続して続くが、写真はそのうちの一つで、横から見たもの。
【写真左】犬走りと石列
中段で示した案内図には犬走は途中の郭に接続され、その郭の反対側(北側)に繋がっているように書かれているが、現地は整備されていないため、このまま左側の段を進んだ(下記参照)。
写真は犬走の途中に見えた石列。
【写真左】6段目の郭を下の段から見る。
冒頭の説明板にも記されているように、連続する郭段の途中(5~6段目)の比高差はそれまでの段差に比べて明らかに高く、ここで区分されている。
ちなみに、この段の奥(北側)から虎口を介して搦手のルートが設定されている。
【写真左】主郭が近づいてきた。
【写真左】主郭
「石蟹山城址」と刻銘された石碑が建っているが、おそらくこの位置が最高所だろう。
石碑の傍らにはヘルメットとチェーンソーが置いてある。どなたかがこの時期当城の整備作業に携わっておられたのだろう。
【写真左】見張台
主郭の北西端部に当たるところで、手前には最近設置されたのだろう皮をくりぬいた木製のベンチが設置してある。
【写真左】展望台の椅子にかけて休憩
山城登城でいつも思うことは、こうした本丸にたどり着いたとき、休憩するための椅子や腰掛があるととてもうれしい。
無い場合は持参してきた簡単な敷物を開いて地ベタに座るのだが、座り心地の点から言えばやはり腰掛の方が断然楽である。
設置していただいた関係者の方に感謝したい。
【写真左】本丸から石蟹の街並みを俯瞰する。
この位置からは北北西の方向になるが、JR伯備線石蟹駅や、右下に少し高梁川の川岸が見える。因みにこのまま高梁川を遡っていくと楪城に繋がる。
【写真左】石列?
主郭の一角に見えたもので、不揃いながらまとまっている。主郭の南下の帯郭縁には石列の跡があるようだが、この石塊は何かを祀っていた基壇跡かもしれない。
【写真左】主郭下の腰郭
主郭の南側下段には2段の腰郭が配置されている。
ここから降りてみる。
【写真左】腰郭の土塁
縁部分は御覧の通り土塁が構築されている。
全体に石蟹山城の防御上の特徴は尾根の西側から北にかけての遺構が多く、このことから高梁川上流部からの攻撃を意識して築かれた意図が読み取れる。
換言すれば、新見氏(杠氏)あるいは、出雲の尼子氏の攻撃を想定していたのではないかと考えられる。
【写真左】腰郭からさらに下を望む。
案内図では、ここからさらに下に降りると搦手道があるはずだが、今回はそこまで向かっていない。因みにその道が実質上の堀切となり、南から延びる尾根をここで区切る。
【写真左】腰郭から主郭を見上げる。
振り返るとなかなかの険峻さである。
【写真左】横堀か
記憶が定かでないが、上記の腰郭から少し回り込んだ箇所で横堀のような長い窪みが見えた。またそれを跨ぐ土橋のようなものも見える。
【写真左】五輪塔
当城麓の数か所にこうした小規模な五輪塔が点在している。
石蟹氏一族らのものだろうか。
●所在地 岡山県新見市石蟹
●高さ H:300m(比高130m)
●築城期 不明(16世紀前半か)
●築城者 不明
●城主 石蟹氏
●遺構 郭・土塁・堀切・石積他
●登城日 2016年11月18日
◆解説(参考資料 石蟹山城パンフ等)
石蟹山城は、備中国高梁川沿いにある山城で、当城の真下をJR伯備線がトンネルで通過している。
【写真左】石蟹山城遠望
東麓の上長屋方面から見たもので、右側に大きく蛇行した高梁川が流れている。
この地区には上長屋と長屋という字名をとどめていることから、この付近にかつて石蟹山城の根小屋があったことを想起させる。
現地の説明板より
‟石蟹山城の概要
石蟹山城は、標高310mの尾根にある典型的な連郭式山城である。高梁川と小坂部川の合流する西方の山頂にあり、城の西は谷によって画されており、天険の要害である。
12の郭をもつ本丸と、3つの郭を持つ出丸とからなる。東方から登ると、五の壇の北側に虎口がある。五の壇はきわめて重要で、上の郭と下の郭とを区分している。また、南東側には武者走り、兵の移動が迅速にできるように造られている。なお、本丸と出丸の間には堀切、東の出丸下に大手、西南の搦手には水の元がある。
【左図】石蟹山城の周辺案内図
現地にあったパンフレットから抜粋したもので、この図では石蟹山城のほか、支城と思われる鯉滝城が描かれている。
「石蟹与兵衛元宜」の名が登場するのは、天文の頃(1532~54)からで、天文年間は、周防の大内義隆と出雲の尼子晴久が中国地方の覇権を、また、備中では、尼子の先鋒庄為資と三村家親とが備中の覇権を巡って激しく争っていた時代である。
「石蟹与兵衛元宜」は、三村氏の庶流といわれたが、三村氏に追随することなく、庄一族として独自の道を歩んでいる。
「石蟹与兵衛元宜」は、天文の初め頃、出雲の富田城に13年蟄居している。その間、新見氏の庶流新見左京が城代として居城している。『日本城郭体系』によると、元亀元年(1570)石蟹山城は、宇喜多直家に攻められて落城している。
なお『豊臣秀吉朱印状』には、朝鮮出兵の活躍で「石蟹氏」の子孫の名が見えるが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い以後「石蟹氏」の動向は不明である。
平成27年5月吉日 石蟹山城保存会“
【左図】縄張図
同じくパンフレットに掲載されたもので、白石博則氏提供のもの。
一般的な縄張構造で、シンプルなものだ。
この図でいえば、登城口は右上の方に当たる。
石蟹氏
石蟹山城及び 石蟹氏についてはこれまで、備中・西山城(岡山県新見市哲西町八鳥) 、佐井田城(岡山県真庭市下中津井) で少し触れている。
説明板にもあるように、石蟹山城の築城期は不明だが、16世紀前半すなわち室町時代と思われる。築城者も不明とあるが、おそらく石蟹氏と思われる。
城主と思われる石蟹与兵衛元宜(以下「石蟹元宜」とする。)は、天文年間出雲の尼子氏居城・月山富田城に13年間蟄居されていたとされ、その間、当城の城代として新見氏の庶流新見左京が入っている。
【写真左】登城口
以前訪れたとき、麓の道の幅員が大変狭く、また適当な駐車スペースも確保できなく断念したが、この年(2016年)神社の左側の道が広くなり、車一台分の路肩スペースに停めることができた。
そこから少し歩くとに小さな「石蟹山城→」と書かれた案内板が設置してある。
尼子氏の天文年間における動きについては、これまで述べてきたように、尼子経久が備中・美作を席巻し、さらには備前をこえて播磨に入った時である。おそらく石蟹元宜はこのとき捕らえられたものだろう。
元宜が蟄居されたとき、楪城(岡山県新見市上市)主新見氏の庶流新見左京が 城代として当城の任に当たっていたとある(『備中府志』)。一般的には攻略したあとは、勝者側に属する者が奪取した城の城番等に収まる場合が多いが、当城では尼子氏直臣のものでなく、石蟹城から高梁川沿いに12キロほど向かった楪城の新見氏を城番としていることを考えると、新見氏はこのときすでに尼子氏に恭順の意を示し、尼子氏もそれを受け入れたということだろう。そして石蟹元宜の蟄居については、おそらく尼子氏がその後の備中攻めの際、彼を有効に使いたい意図があったものと思われ、自刃をさせずそのまま生かしておきたかったのだろう。
【写真左】登城道・その1
前半の道は全体に傾斜が緩やかで歩きやすい。
途中の所々には写真にあるように標柱が立っており迷うことはない。
なお、説明板では関ヶ原以後石蟹氏の動向は不明となっているが、毛利氏が防長二州に移封された際、石蟹(石賀)氏は随従しておらず、在地(石蟹)に根付いて独自性を持続したようであると『日本城郭体系』には記してある。
【写真左】登城道・その2
この辺りからだんだん傾斜がきつくなる。
最初は尾根の左側を進むが途中で右に向かう。
【写真左】石積
右側の登城道に切り替わった地点で、まとまった石積が左側にある。
おそらく城戸だったところだろう。
【写真左】案内図
冒頭の縄張図とは別に国道180号線沿いに案内看板が設置されているが、その下部にあった案内図を添付しておく。
この図で言えば下方が北を示す。
【写真左】郭段が出始める。
何度か左右に折れ道を過ぎると、やがて小中の郭段が出てくる。
【写真左】出丸
【写真左】堀切
出丸を過ぎるとすぐに堀切が配置されている。
【写真左】堀切から上を見上げる。
手前に堀切があるため、この先にある曲輪群先端部との比高差は10m近くあるだろう。
【写真左】虎口
ここから右側に連続する郭群が続く。
虎口を形成する左右の高まりは枯れ枝などの堆積ではっきりしないが、当時は左右に警備上の遺構があったと思われる。
【写真左】郭段
最初の段からおよそ8か所の郭が連続して続くが、写真はそのうちの一つで、横から見たもの。
【写真左】犬走りと石列
中段で示した案内図には犬走は途中の郭に接続され、その郭の反対側(北側)に繋がっているように書かれているが、現地は整備されていないため、このまま左側の段を進んだ(下記参照)。
写真は犬走の途中に見えた石列。
【写真左】6段目の郭を下の段から見る。
冒頭の説明板にも記されているように、連続する郭段の途中(5~6段目)の比高差はそれまでの段差に比べて明らかに高く、ここで区分されている。
ちなみに、この段の奥(北側)から虎口を介して搦手のルートが設定されている。
【写真左】主郭が近づいてきた。
【写真左】主郭
「石蟹山城址」と刻銘された石碑が建っているが、おそらくこの位置が最高所だろう。
石碑の傍らにはヘルメットとチェーンソーが置いてある。どなたかがこの時期当城の整備作業に携わっておられたのだろう。
【写真左】見張台
主郭の北西端部に当たるところで、手前には最近設置されたのだろう皮をくりぬいた木製のベンチが設置してある。
【写真左】展望台の椅子にかけて休憩
山城登城でいつも思うことは、こうした本丸にたどり着いたとき、休憩するための椅子や腰掛があるととてもうれしい。
無い場合は持参してきた簡単な敷物を開いて地ベタに座るのだが、座り心地の点から言えばやはり腰掛の方が断然楽である。
設置していただいた関係者の方に感謝したい。
【写真左】本丸から石蟹の街並みを俯瞰する。
この位置からは北北西の方向になるが、JR伯備線石蟹駅や、右下に少し高梁川の川岸が見える。因みにこのまま高梁川を遡っていくと楪城に繋がる。
【写真左】石列?
主郭の一角に見えたもので、不揃いながらまとまっている。主郭の南下の帯郭縁には石列の跡があるようだが、この石塊は何かを祀っていた基壇跡かもしれない。
【写真左】主郭下の腰郭
主郭の南側下段には2段の腰郭が配置されている。
ここから降りてみる。
【写真左】腰郭の土塁
縁部分は御覧の通り土塁が構築されている。
全体に石蟹山城の防御上の特徴は尾根の西側から北にかけての遺構が多く、このことから高梁川上流部からの攻撃を意識して築かれた意図が読み取れる。
換言すれば、新見氏(杠氏)あるいは、出雲の尼子氏の攻撃を想定していたのではないかと考えられる。
【写真左】腰郭からさらに下を望む。
案内図では、ここからさらに下に降りると搦手道があるはずだが、今回はそこまで向かっていない。因みにその道が実質上の堀切となり、南から延びる尾根をここで区切る。
【写真左】腰郭から主郭を見上げる。
振り返るとなかなかの険峻さである。
【写真左】横堀か
記憶が定かでないが、上記の腰郭から少し回り込んだ箇所で横堀のような長い窪みが見えた。またそれを跨ぐ土橋のようなものも見える。
【写真左】五輪塔
当城麓の数か所にこうした小規模な五輪塔が点在している。
石蟹氏一族らのものだろうか。
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