2012年11月18日日曜日

須々万沼城(山口県周南市須々万本郷字要害)

須々万沼城(すすまぬまじょう)

●所在地 山口県周南市須々万本郷字要害
●別名 遠徳山城・要害山
●形態 沼城
●築城期 室町時代
●築城者 不明
●城主 山崎伊豆守興盛など
●規模 東西150m、南北100m、
●遺構 土塁など
●備考 保福寺
●登城日 2012年6月29日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 須々万城は、前稿鞍掛山城(山口県岩国市玖珂町字谷津)でとりあげた元就による防長制圧の第2弾となった戦いの場所でもある。
【写真左】須々万沼城遠望
南側から見たもの。










現地の説明板より

“沼城址
 毛利元就の防長制圧において、最大の激戦となったところが、ここ沼城の戦いです。
 天文24年(1555)10月1日、安芸の厳島の戦いにおいて陶晴賢を破った元就は、破竹の勢いで周防の国に入り、岩国の永興寺を本陣として、防長二州の制圧にとりかかりました。

 弘治2年(1556)4月19日、元就の嫡子隆元は、兵約50騎を率いて岩国を出発し、翌20日須々万に到着、沼城攻撃を開始しました。
 しかし、沼城に集結した大内陣営の勢力は、毛利方の予想をはるかに上回るものがあり、その上、城は三方を沼沢に囲まれた要塞堅固な城塞であったため、退去を余儀なくされました。

 その後、9月22日に再び、隆元が大軍を率いて来攻しましたが、沼に悩まされて進めず、両軍の全面衝突には至りませんでした。
【写真左】須々万沼城・その1
 保福寺山門付近
慈光山 保福寺(ほふくじ)
 当院の縁起については下段に示す。




 このため、翌弘治3年(1557)2月27日、元就自らが総大将となり、将兵1万余騎を率いて岩国を出発し、翌々29日から総攻撃に取り掛かりました。総攻撃にあたっては、沼に編み竹を投げ入れ、この上に莚を敷いて押し渡り、城中に攻め入ったため、城内は大混乱となりました。


【写真左】「沼城・城主の菩提寺  曹洞宗 保福寺」と書かれた看板
 境内前に大きな当院の看板が設置してある。






 城主山崎伊豆守興盛は、陣頭指揮で必死に抵抗をしましたが、やがて力尽き、江良弾正忠賢宣は、城を出て降参し、伊豆守父子は自刃し、3月3日落城いたしました。この戦いで籠城していた男女1,500人余は討たれたともいわれています。

 なお、須々万地区には、沼城の戦いを物語る哀話として「沼を渉る女」の伝説があります。

   恋ふ人は沼の彼方よ  濡れぬれて
     わたるわれをば  とかめ給ふな

 これは、新婚間もなく離別を余儀なくされた、伊豆守の息子右京進隆次の妻が、夫を慕う姿を伝えたものです。
     周南市
     都濃観光協会”
【写真左】本堂西側付近
 本堂を中心に西側から北側にかけて高くなっており、この位置で比高6,7m前後ある。
 写真右の屋根は保福寺の建物。



須々万の地勢

 須々万と書いて「すすま」という。前稿の鞍掛山城登城を終えて、国道376号線を西に進んで行くに従って違和感を感じたのが、須々万本郷あたりから付近を流れる川の上下(かみしも)の区別が分からなくなったことである。

 須々万沼城のある本郷地区は中山間地にありながら、非常に平坦な盆地である。中心部を流れる須々万川は、東進して狭い谷間を蛇行しながら北方に造成されたダム湖・菅野湖に注いでいる。そして驚いたことに、このダム湖から流下する水は、そのまま一旦北に向かって流れ、東方の安芸灘に注ぐ岩国市の錦川に合流する。
【写真左】屋敷跡付近
 上の写真の位置からさらに4,5m程度高くなった段で、現在ここからぐるっと保福寺を取り囲むような道が設置してある。






 須々万本郷から南に10キロ余り下がれば、すぐに周防灘に繋がる。山を一つ越えた西方の富田川などはこれに従っている。

 須々万を源流とする水系が、これほど大回りして東進するこの独特の地勢は、四国の四万十川のそれに似ている。

 そして、特に須々万本郷はこのためか、落差のない盆地として、中世には湿地帯のような地域だったことが想像される。
【写真左】沼城主之墓と石碑
 上の写真の位置から少し北側に進むと、近年建立されたような石碑などが建立されている。





山代一揆

 ところで、沼城での戦いを取り上げる前に、実は毛利氏にとって鎮圧すべき地域があった。前述した須々万川が注ぐ錦川には、これとは別に北に向かって大きな支流が何本か流れてきている。

 このうち、生見(いきみ)川を中心とする現在の美和町周辺と、さらに北に向かい石見国吉賀(島根県)と堺を接する宇佐川を中心とする錦町周辺にそれぞれの一揆が組織されていた。これらを総称して「山代一揆」と呼んだ。この一揆は前者は「五ヶ」という5か所の郷でまとまり、後者は「八ヶ」という8ヶ所の郷でまとまっていた。
【写真左】北西側から振り返る。
 この位置で、下の段と上の段が合流している。









 そしてそれぞれが重層的連合組織を作り、リーダーは「刀禰(とね)」がその任務をつかさどった。

 刀禰とは、古代から中世にかけて、日本各地にあった役職で、官人的な職務や、神社での神職、あるいは船頭や河湊の取り締まりを担う者など、さまざまな形態があったが、この周防の錦川沿いにあった山代の刀禰は、おそらく元は川の利水・治水等々を中心として統轄する権限を有していたものだろう。
【写真左】屋敷跡
 西側の段を過ぎると畑地となっている。
 民有地の畑地のようだが、この畑と段との間にすこし高まりの跡が残る。

 館を防御する土塁のようなものがあったのかもしれない。
 


 ところで、山代一揆のそれぞれの郷は、刀禰を中心として小規模ながら本拠として根城(生見の高盛城、本郷の成君寺城など)を持っていた。

 もともと「五ヶ」と「八ヶ」には領有境界、河川の漁業権などをめぐってしばしば小競り合いがあった。これに目を付けた毛利氏は、巧みに対立をあおり山代一揆の平定を行った。

 なお、このあと当地は防長征服が一段落した後の永禄3年(1560)、毛利氏は検地をおこない、刀禰による自治組織を解体させ、新しい支配秩序を敷くことになる。
【写真左】再び北側に廻る。
 保福寺を取り囲む段の高さはほぼ一定であるが、ご覧の通り法面は角度があり、当時のものか不明だが、切崖状である。




須々万の戦い

 さて、山代一揆の平定後、毛利氏はさらに西進し、須々万本郷の沼城せめに向かった。

 当時、沼城には、城将の山崎興盛をはじめ、大内義長から派遣されていた江良賢宣(かたのぶ)、付近の一揆衆、そして前述した山代一揆の生き残りである「八ヶ」の神田丹後守をはじめとするものなど、総勢1万余騎が立て籠もっていた。
 用意周到、練達な毛利氏にしては予想以上に手間取った戦いとなり、その結果3度目の戦いで勝利することになる。
【写真左】北側の地蔵群
 現在はこのような地蔵が整然と並んでいる。









 説明板では、第1回目の攻撃は弘治2年(1556)4月19日、毛利隆元が攻め入ったとあるが、別の史料では小早川隆景が攻め入ったとする記録もある。

 これによると、隆景に随従していた者の中には、陶氏一族であった右田隆康の遺児鶴千代がいた。この日の戦いは、沼城側の強大な抵抗にあい退却に追い込まれた。

 そして翌日の20日、今度は沼城にたどり着いた毛利隆元が攻め入っている。ただ、説明板には隆元の軍が、僅か「50騎」と記されているが、これは明らかな誤記で、実際には5,000騎の兵で戦っている。

 この2度目の戦いも劣勢に陥り、危うく坂元祐・粟屋元通率いる三分一式部丞(阿賀郷の有力農民一族)・神田蔵人丞(元山代一揆の総大将の息子)らに援けられた。
【写真左】ぐるっと一周して山門付近に戻る。
右側には「煤間小学開校の地」とあり、「明治25年(1892)校名を「沼城」と改称。

昭和54年(1979)須々万本郷514番地に新築移転」と刻まれた石碑が建つ。




 2度とも沼城側の強力な抵抗にあったため、毛利氏は作戦を練り直し、沼地に対応するため、各兵には、編み竹と、薦(莚)を所持させ、一部には鉄砲も所有させたという。

 そして年が明けた弘治3年(1557)2月、御大元就自身が着陣、総指揮をとって沼城を攻めたてた。この結果、同年3月3日、沼城はここに陥落した。
 
 一説によると、沼城陥落の報を知った陶晴賢の息子長房は、周防・若山城(山口県周防市福川)にて自刃したという。この結果、大内義長は高嶺城を捨て、さらに長門の勝山城に逃れていくことになる。
【写真左】灯篭
 参道脇に灯篭が設置され、「施主 沼城主 山崎一族」を銘打ってある。


【写真左】保福寺本堂
現地の説明板より


縁起

 保福寺は、保禅寺と福聚寺が明治6年に合併して成立しました。

 保禅寺は創建年代不明ですが、はじめ兼元にあって慈光山林慶庵と称しました。その後現在地に移り寺号を保禅寺と改めました。飛龍八幡宮の元文2(1737)年の棟札によると宮坊林慶庵とあり、同社の社坊であったことが分かります。
 福聚寺は、寛永年間(17世紀前半)に龍文寺18世鉄岑珠鷹が、和奈古に開いた寺院とされています。

 保福寺所蔵の絹本着色釈迦十六善神図は、文亀3年(1503)に勝屋貴為が須々万八幡宮(後・飛龍八幡宮)に寄進した画幅で、十六体の護法善神が精緻な筆使いで描かれています。

 また、紙本墨書大般若波羅密多経は毛利元就が八幡宮に献納したものと伝えられています。
 ともに昭和52年に市指定文化財(絵画、典籍)に指定されました。
   周南市教育委員会”

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