比叡尾山城(ひえびやまじょう)・その2
●所在地 広島県三次市畠敷町
●探訪日 2012年5月20日、及び6月6日
◆解説
今稿は比叡尾山城の周辺に残る三吉氏関連の史跡を紹介する。
高源寺跡・三吉氏の墓
比叡尾山城の北側登城口に向かう途中の林道から北に枝分かれし、下段に紹介する岩屋寺に向かう途中にある。この場所は、三吉氏の菩提寺とされた高源寺跡及び、同氏の墓所といわれている。
三吉氏が鎌倉期から築城し、以後400年もの間この比叡尾山城を居城としたことを考えると、当然ながら当地における文化的遺産も数多くあったものと思われる。また、三吉氏と同じく三次盆地に土着していった東隣の和智氏もまた信仰深い一族だった。
【写真左】「比叡尾山城主の墓」と書かれた案内板
岩屋寺に向かう途中にある。
【写真左】上から見たもの。
入口付近から北西方向に奥深く延びる平坦地があり、その左側(南)に尾根上に延びる丘がある。この場所に墓所がある。
高源寺本堂はおそらくこの平坦地に立っていたものと思われる。
【写真左】墓所・その1
墓所は石積みで3,4段の構成となった区分けとなっている。
墓石は、五輪塔・宝篋印塔形式のものから、近世様式のものなど大小50前後が分散して建立されている。
【写真左】天正16年と刻銘された墓石
下の方の文字は劣化して読めないが、天正16年は三吉氏が後に比熊山城へ移る3年前のことになる。
吉祥山 岩屋寺
高源寺跡からさらに脇の道を進むと古刹・岩屋寺がある。行基開創とされ、南北朝期には足利尊氏が堂宇造営し、戦国期に至ると、天文8年(1539)三吉致高が本堂を造営。江戸期に入り、浅野長治・長照の代に現在の場所に移し、本堂・庫裡などを建てたといわれている。
【写真左】岩屋寺・その1
朱色に染められた鐘楼
場所から考えると、もとは山岳密教の修験道場だったと思われる。
天文8年に致高が造営しているが、この年は三吉氏が名実ともに毛利氏の家臣となっていく時である。
【写真左】岩屋寺・その2
本堂から東に谷を隔てて鎮守白山大権現剣大明神が見える。
【写真左】岩屋寺から三次の町並みを見る。
当山境内の南端部からは三次の町並みが眺望できる。
粟屋隆信の墓
岩屋寺から少し南に向かったところには、岩屋寺山公園の一角に展望台が設置されている。この場所には「粟屋隆信公の墓」が祀られている。
【写真左】岩屋寺山公園
現地の説明板より
“粟屋隆信公之墓
比叡尾山城主十五世三吉廣高は、叔父である粟屋村勝山城主、三吉隆信(粟屋隆述)を天正年中、比叡尾城にて誘殺す。
隆信、死に臨みて吾が魂魄ながくこの土に留まりて汝を滅ぼさんとの一念の為に、天正19年(1591)三吉氏、比叡尾城を廃して比熊山城に移りし後、僅か10年にして亡ぶという。
南無観世音菩薩”
【写真左】粟屋隆信公之墓の碑
墓はこの碑の傍にあるが、五輪塔や宝篋印塔形式の墓石としての原形は保っていない。
粟屋村勝山城というのは、三次市街地から南西に江の川を上った粟屋町市場付近にある城砦で、江の川の北方に切り立つ山に構築されている。
サイト『山城賛歌』氏が詳細な登城報告をされているが、竪堀・土塁・石積など見ごたえ十分の山城のようだ。中国自動車道や、国道54号線を走るたびに遠望しているが、かなり厳しい直登コースのため躊躇している。
熊野神社
比叡尾山城の南麓に建立された神社で、以前は若一王子神社、又は若一王子権現と号されていた。現在の名に改名されたのは、明治3年(1870)である。
【写真左】熊野神社
広島県重要文化財とされている「鉄製釣燈篭」は、高さ33cm、総廻り64cmの鍛鉄製で、腰部分には、天正8年(1580)比叡尾山城主三吉隆亮が祈願のため寄進したと刻銘されている。
また、同文化財となっている「金銅製板塔婆」には、弘治2年(1556)比叡尾山城主三吉致高(むねたか)・隆亮父子が寄進したことが記されている。
【写真左】熊野神社・本殿
若宮八幡神社
【写真左】若宮八幡神社
三次市十日町にある若宮八幡神社は、始祖・三吉兼範が男山八幡神社(京都)から勧請したもので、その後三吉氏代々の尊崇を受け、天正10年(1582)銘の三吉隆亮(たかすけ)寄進の鉄灯篭が残る。
当社はもとは「救い山」という場所に建立されていたという。この「救い山」の場所は解らないが、おそらく比叡尾山城の麓で、上里町にあったと思われる。
【写真左】若宮八幡神社境内
桜の名勝として市民に親しまれているが、晩秋の紅葉も捨てがたい。
【写真左】若宮八幡神社から北西に比熊山城、尾関山城を見る。
当社からは比叡尾山城が見えるかと期待したが、北側の木立があるため遮られている。
比熊山城については、次稿で取り上げたい。
●所在地 広島県三次市畠敷町
●探訪日 2012年5月20日、及び6月6日
◆解説
今稿は比叡尾山城の周辺に残る三吉氏関連の史跡を紹介する。
高源寺跡・三吉氏の墓
比叡尾山城の北側登城口に向かう途中の林道から北に枝分かれし、下段に紹介する岩屋寺に向かう途中にある。この場所は、三吉氏の菩提寺とされた高源寺跡及び、同氏の墓所といわれている。
三吉氏が鎌倉期から築城し、以後400年もの間この比叡尾山城を居城としたことを考えると、当然ながら当地における文化的遺産も数多くあったものと思われる。また、三吉氏と同じく三次盆地に土着していった東隣の和智氏もまた信仰深い一族だった。
【写真左】「比叡尾山城主の墓」と書かれた案内板
岩屋寺に向かう途中にある。
【写真左】上から見たもの。
入口付近から北西方向に奥深く延びる平坦地があり、その左側(南)に尾根上に延びる丘がある。この場所に墓所がある。
高源寺本堂はおそらくこの平坦地に立っていたものと思われる。
【写真左】墓所・その1
墓所は石積みで3,4段の構成となった区分けとなっている。
墓石は、五輪塔・宝篋印塔形式のものから、近世様式のものなど大小50前後が分散して建立されている。
【写真左】天正16年と刻銘された墓石
下の方の文字は劣化して読めないが、天正16年は三吉氏が後に比熊山城へ移る3年前のことになる。
吉祥山 岩屋寺
高源寺跡からさらに脇の道を進むと古刹・岩屋寺がある。行基開創とされ、南北朝期には足利尊氏が堂宇造営し、戦国期に至ると、天文8年(1539)三吉致高が本堂を造営。江戸期に入り、浅野長治・長照の代に現在の場所に移し、本堂・庫裡などを建てたといわれている。
【写真左】岩屋寺・その1
朱色に染められた鐘楼
場所から考えると、もとは山岳密教の修験道場だったと思われる。
天文8年に致高が造営しているが、この年は三吉氏が名実ともに毛利氏の家臣となっていく時である。
【写真左】岩屋寺・その2
本堂から東に谷を隔てて鎮守白山大権現剣大明神が見える。
【写真左】岩屋寺から三次の町並みを見る。
当山境内の南端部からは三次の町並みが眺望できる。
粟屋隆信の墓
岩屋寺から少し南に向かったところには、岩屋寺山公園の一角に展望台が設置されている。この場所には「粟屋隆信公の墓」が祀られている。
【写真左】岩屋寺山公園
現地の説明板より
“粟屋隆信公之墓
比叡尾山城主十五世三吉廣高は、叔父である粟屋村勝山城主、三吉隆信(粟屋隆述)を天正年中、比叡尾城にて誘殺す。
隆信、死に臨みて吾が魂魄ながくこの土に留まりて汝を滅ぼさんとの一念の為に、天正19年(1591)三吉氏、比叡尾城を廃して比熊山城に移りし後、僅か10年にして亡ぶという。
南無観世音菩薩”
【写真左】粟屋隆信公之墓の碑
墓はこの碑の傍にあるが、五輪塔や宝篋印塔形式の墓石としての原形は保っていない。
粟屋村勝山城というのは、三次市街地から南西に江の川を上った粟屋町市場付近にある城砦で、江の川の北方に切り立つ山に構築されている。
サイト『山城賛歌』氏が詳細な登城報告をされているが、竪堀・土塁・石積など見ごたえ十分の山城のようだ。中国自動車道や、国道54号線を走るたびに遠望しているが、かなり厳しい直登コースのため躊躇している。
熊野神社
比叡尾山城の南麓に建立された神社で、以前は若一王子神社、又は若一王子権現と号されていた。現在の名に改名されたのは、明治3年(1870)である。
【写真左】熊野神社
広島県重要文化財とされている「鉄製釣燈篭」は、高さ33cm、総廻り64cmの鍛鉄製で、腰部分には、天正8年(1580)比叡尾山城主三吉隆亮が祈願のため寄進したと刻銘されている。
また、同文化財となっている「金銅製板塔婆」には、弘治2年(1556)比叡尾山城主三吉致高(むねたか)・隆亮父子が寄進したことが記されている。
【写真左】熊野神社・本殿
若宮八幡神社
【写真左】若宮八幡神社
三次市十日町にある若宮八幡神社は、始祖・三吉兼範が男山八幡神社(京都)から勧請したもので、その後三吉氏代々の尊崇を受け、天正10年(1582)銘の三吉隆亮(たかすけ)寄進の鉄灯篭が残る。
当社はもとは「救い山」という場所に建立されていたという。この「救い山」の場所は解らないが、おそらく比叡尾山城の麓で、上里町にあったと思われる。
【写真左】若宮八幡神社境内
桜の名勝として市民に親しまれているが、晩秋の紅葉も捨てがたい。
【写真左】若宮八幡神社から北西に比熊山城、尾関山城を見る。
当社からは比叡尾山城が見えるかと期待したが、北側の木立があるため遮られている。
比熊山城については、次稿で取り上げたい。
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