2012年11月20日火曜日

檜ヶ仙城(島根県出雲市多久町)

檜ヶ仙城(ひがせんじょう)

●所在地 島根県出雲市多久町
●別名 桧ヶ仙城(ひのきがせんじょう)、城床山
●高さ 標高333m(比高250m)
●築城期 大永年間(1521~28)
●築城者 東郷三河守忠光か
●城主 東郷三河忠光・多久弾正義敷・毛利氏
●遺構 井戸・郭・帯郭・土塁・堀切
●登城日 2012年2月29日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 地元・出雲にありながら、なかなか登城するタイミングを逸していた山城である。所在地は宍道湖の北方に連なる連山の一つで、通称「ひのきがせん」と呼ばれている山に築かれている。
 また、檜ヶ仙城の南東には、出雲風土記にうたわれた「神名樋山(かんなびやま)」の一つ大船山(おおふなさん:H:327m)が佇んでいる。
【写真左】檜ヶ仙城遠望
 南西麓から見たもの。

 見る角度によって随分と違う山容だが、この方向からは形がよく、地元では「檜山富士」とも呼ばれている。



東郷氏

 現地には当城を紹介するような説明板などは全くないが、『出雲国稽古知今図説』によると、大永年間に東郷三河(参河)守忠光が拠った、と記されている。この東郷忠光なる武将については、詳細は不明である。

 ただ、檜ヶ仙城から南麓に下ったところに、東郷町という地区があり、そこには「東郷地頭瀬館跡」という郭・土塁を遺構としていた場所があった(現在は殆ど改変され事実上消滅している)。

 このことから、東郷氏は地頭職として当地に補任された可能性が高い。ただこの地頭が、鎌倉開幕期のものか、それとも承久の乱後のいわゆる新補地頭のものか判断がつかない。いずれにせよ、東郷忠光の祖は鎌倉期であったことが推察される。
【写真左】登城口付近
 登城ルートは、東麓から向かうものと、西側からのものと2か所ある。今回は東側の別所谷という所から向かった。




 ちなみに、この付近で地頭職として補任されていた一族が二つある。一つは、東郷町の西方万田町にある「万田地頭瀬館」というものである。おそらく、この万田(氏)も、東郷氏と同じころ補任されたのではないかと考えられる。

 また、もう一つの一族としては、東郷町の東方で現在の松江市寄りの小境町には、以前取り上げた霜北城(島根県出雲市小境町)があり、鎌倉期には地頭・小境二郎が当地・小境保を治めていた。

 いずれにしても、東郷氏が当城及び当地を支配していた時期は、鎌倉期から大永年間までの約300年間と考えられる。
【写真左】登城道
 南に延びる尾根筋に向かって西進すると、西側からの道と合流する。そのあと尾根筋を辿りながら北進していく。

 九十九折の箇所は少なく、ひたすら尾根筋を向かうため、次第に傾斜がきつくなっていく。



多久(多久和)氏

 さて、戦国期の永禄年間(1558~70)には、多久弾正正敷(たくだんじょうまさしき)が当城に拠って、毛利氏の攻撃を受けたという。

 鎌倉期から大永年間まで檜ヶ仙城主であった東郷氏が、このあと多久氏に代わっていることになるが、その経緯ははっきりしない。しかし、東郷氏が檜ヶ仙城主として活躍していた南北朝期、すでにこの付近で多久氏の名を見ることができる。

 以前にも記したように、正平5年(観応元年・1350)は出雲国における南北朝動乱の節目となった年でもある。
【写真左】南方に宍道湖を見る。
 檜ヶ仙城は残念ながら眺望はあまり期待できない。

 この箇所は登城途中に見えたもので、霞んでいるものの、宍道湖南岸の大平山城(大平山城跡・その1(島根県松江市宍道町上来待小林)、丸倉山城などが見える。



 この年6月21日、光厳上皇は、石見国にあった足利直冬追討の院宣を発し、高師泰が石見に向かった。
 7月20日、直冬は出雲の鰐淵寺に祈祷を命じ、8月19日、小境一部地頭・伊藤次郎義明の子・小境元智は、直冬方として旗揚げ、小境に隣接する領主・多久中太郎入道らと共に、白潟橋(松江市白潟町)において終日武家方と交戦した(「鰐淵寺文書」「萩閥66」)。

 このことからも分かるように、多久氏が南北朝期すでに当地で活躍していることが知られる。
【写真左】南方の最初の郭段
 ほぼ直登コースで、次第にきつくなるが、最初の郭段までの直近(50m前後か)は、管理人にとってハードなものになった。このためか、途中に堀切などはない。

 ここで、檜ヶ仙城の遺構概要を簡単に示すと次の通りである。

 檜ヶ仙城は、Y字の尾根の稜線をそのまま利用し、これら三方に曲輪群が構成されている。

 三方が交わる位置に主郭(南北26m×東西36m)を置き、登ってきた南稜線(南の段)には6郭、右の稜線(北の段)には4郭、左の稜線(西の段)には8郭(8番目は飛び地)の構成となっている。
 なお、東西稜線の間の谷には井戸跡が2か所確認されている。
【写真左】主郭手前の郭
 南稜線の6番目に当たる郭で、主だった遺構にはこのような、コーンスタンドが設置してあり、№63と記してある。

 当城を紹介するような表示板などは見当たらなかったが、何か別にこの番号を記した資料などがあるのかもしれない。



檜ヶ仙城と多久和城

さて、戦国期の永禄年間(1558~70)になると、当城にはその多久氏の末孫と思われる多久弾正義敷が拠ったとある。出典元である『出雲国稽古知今図説』では、多久弾正が拠った期間は、最後の年を1570年、すなわち元亀元年としている。そして、その後毛利氏の拠城となり、翌元亀2年(1572)、尼子再興軍の挙兵に対応するため、当城を改修・修復しているとされる。
【写真左】「登山口」と記された主郭の入口付近
 相当体力を消耗した先に、「登山口」という表示がある。
 どういう理由でこのような表示をここに設置したのか不明だが、実際はこの位置が主郭の入口に当たる。
 このまま主郭の左側(西側)を先に進む。
【写真左】主郭
 現地の情況はご覧の通り木立と篠が生え、全体の見通しはよくない。
 このまま西側の尾根を進む。
 



多久氏については、以前多久和城(たくわじょう)その1(島根県雲南市三刀屋町多久和)及び、多久和城 その2 多久(和)氏などでも開陳したように、雲南市三刀屋町にあった「多久和城」とのかかわりが強い。

 また、多久氏と、多久和氏という姓名については、これまでも管理人としては出自を同じくするものだと考えているが、明確な証左史料を持っているわけではない。ただ、今稿の檜ヶ仙城主・多久氏と、三刀屋の多久和城主・多久和氏との関係が明らかになれば、おのずとそれらについても解明できるのではないかと思われる。
【写真左】西の段・一の段
 主郭を過ぎて最初の段(郭)で、細長く、幅6m×長さ20m余りの規模。
 全体に西の段は東側(右)に高さ1m程度の土塁が残る。

 この土塁は、大平山城と同じく毛利氏が後に修復したとき造成されたものかもしれない。

 
 さて、出雲国における尼子氏と毛利氏の抗争において、これまで関係してきた主だった城砦をとりあげているが、今稿の檜ヶ仙城についてはこの時期(戦国期)に関する資料が極めて少ない。

 そして、尼子氏の本拠城月山富田城を中心に支えた10か所の支城、すなわち「尼子十旗(あまごじっき)」の中にも含まれていない。位置的には宍道湖北岸であったこともあり、南方から攻め入ることが多かった毛利氏に対して、当城の役割がさほど重要なものでなかったことも考えられる。

 ただ、山城としての要害性・規模などは、決して「尼子十旗」のそれらと比肩して劣るものではないことを附記しておきたい。
【写真左】西の段・三の段
 西の段の稜線上には、北端部までで6か所の段が数えられる。残りの7の段は4の段の真下にあって、そこから100mほど西の稜線を下がった所に8の段が控えている。

 この三の段は規模は小さいものの、土塁が明瞭に残る。
【写真左】西の段・四の段
 当城の最高所に当たる位置で、長さ42.5m×幅7~17mの規模を持つ。

 この先には五の段・六の段が控え、そのまま尾根伝いに降りる道があったというが、現在はほとんど消滅している。この尾根筋を降りていくと、三浦の港に繋がる。
【写真左】四の段から西方を見る。
 四の段付近は近年伐採整備されたようで、ご覧の眺望が広がる。

 以前にも述べたように、戦国期はこの斐伊川は左側の宍道湖に流下せず、反対の右側(出雲大社側の日本海)へ流れていた。そして平田城の麓は、東西に長く伸びた宍道湖が迫っていた。
【写真左】四の段から南方を見る。
 斐川平野を挟んでほぼ真南に、尼子十旗の一つ高瀬城が見える。

 なお、反対側である北の眺望は枯れ枝の間から日本海が見えるが、良好とはいえない。
【写真左】北の段に向かう。
 西の段から再び主郭に戻り、北の段に向かう。

 最初に出てくる一の段は、主郭から約5m程度低くなっており、規模は幅5m×長さ10m程度。
【写真左】北の段
 一の段から三の段までほぼ一直線につながり、次第に尾根幅は狭くなっていく。
【写真左】井戸跡があったとされる谷
 北の段と西の段の間にある谷には、2か所の井戸があったとされる。

 少し降りてみたが、残雪や土砂の影響で確認できなかった。
【写真左】北の段・四の段
 北の段の最高所で、三の段を過ぎると一旦鞍部となり、再び登ると四の段が控える。

 規模は比較的大きなもので、主郭の半分の大きさはある。

 ここからさらに先は下っていき、次の堀切が控える。
【写真左】北の段・堀切
 当城の遺構の中で、今のところ唯一のものとされている。

 なお、この堀切を下ってさらに北に向かうと小伊津に繋がるが、この下手でかつて「鉄釜」が出土したといわれる。

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