松前城(まさきじょう)
●所在地 愛媛県伊予郡松前町筒井1440
●別名 正木城、真崎城、松崎城
●指定 松前町指定史跡
●形態 海城
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 不明
●城主 合田氏、河野氏、粟野氏、加藤嘉明等
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2016年11月26日
◆解説(参考資料 「日本城郭体系 第16巻」、HP 『城びと』、HP『城郭放浪記』等)
伊予・松山城(愛媛県松山市丸の内) から南西方向へおよそ8キロほど進むと、伊予灘に注ぐ重信川河口付近に松前城が所在する。
【写真左】松前城跡に建つ石碑
現地は都市化によって大幅に改変され、遺構を残すものはほとんどなく、盛土によってその位置を示すものしかない。
現地の説明板より
”松前(まさき)城址
この辺りは、古くに松前城があったところで、この碑は、松前城の歴史を後世に伝えるため、大正14年(1925)に建立したものです。題額は旧陸軍大将 秋山好古(よしふる)の書で、撰文は郷土史研究家西園寺源透(げんとう)によるものです。
松前城の歴史は古く、その起源は平安時代にさかのぼると伝えられていますが、松前城の名が初めて文献にあらわれるのは、大山祇神社文書の「祝安親(ほふりやすちか)軍忠状」による祝氏の軍功報告においてです。それによると、建武三年(1336)、松前城にたてこもる南朝方の合田弥太郎定遠(さだとう)を北朝方の祝氏が攻め落とした旨記されていますので、松前城はすでに南北朝時代には存在していたことになります。
【左図】松前城 想像図
残された記録から管理人が想像で描いたもので、左側は外堀を介して伊予灘が接し、北側は伊予川(重信川)が西進している。
松前城に拠った武将も湊川の戦いには北朝側として戦い、楠正成を敗った大森彦七やその大森氏を滅ぼした荏原の平岡氏などが次々に入れ替わりました。
やがて南北朝時代が終わり、室町時代を経て戦国期になると、松前城は河野氏の居城湯築城の出城として、西方海上防衛の前線基地の役割を果たすこととなり、河野氏家臣の栗上氏が詰めていた頃には、豊後の大友氏、安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏らが相次いで侵攻してきたため、松前城では攻防の激戦が幾度となく繰り返されました。
【写真左】西側から遠望
松前城の西側は県道22号線が南北に走っているが、このあたりはおそらく内堀や外堀があったところだろう。
天正13年(1585)、豊臣秀吉による四国平定後は河野氏の当主通直(みちなお)は、夫人の実家のある安芸国竹原に退去し、天正16年(1588)、淡路国志智城(しちじょう)主1万5千石の加藤嘉明が久米、温泉、乃万、伊予の中予四郡6万石の領主として松前城の最後の城主となりました。
松前城に入城した嘉明は城内にあってこの城の起源と深くかかわってきた性尋寺(しょうじんじ)を金蓮寺(こんれんじ)として、今の西古泉に移したうえ、城郭内外の拡充整備を行いました。同時に松前を乱流していた伊予川とその河口の港の大改修に取り掛かりました。
【写真左】石碑・その1
慶長2年(1597)には、秀吉の命により、2千4百余の兵を率いて朝鮮に出兵し、その功で10万石に加増されました。秀吉の死後、徳川方として戦った関ヶ原の合戦でも戦功をあげ、20万石に加増され、慶長8年(1603)、新たに築城した松山城に移り、松前城は廃城とされました。
松前城に使われていた石垣や櫓などの資材は、松山城の築城に使われ、廃城後の松前城は、「古城(ふるしろ)」と呼ばれますが、その跡地は次第に農地化され、明治期に行われた耕地整理により地形は一変しました。唯一、二の丸跡に残されていた龍燈の松も、大正11年(1922)に倒壊し、古城跡は消滅しました。
この松前城は、龍燈の松があったところで、昭和44年(1969)に史跡として松前町文化財に指定しました。
松前町教育委員会”
南北朝期
松前城の築城期及び築城者については上掲した説明板にも史料がなくはっきりしないとしているが、おそらく源平合戦が行われた平安後期頃であろう。記録として残るのは南北朝期で、『集古文書』(『大山祇神社文書』)によれば、南朝方の合田弥四郎定遠が籠城していて、建武3年(1336)北朝方の河野通治の臣・祝彦三郎安親が攻め、合田弥四郎は由並・本尊城(愛媛県伊予市双海町上灘) へ敗走したといわれる。
その後応安元年(1368)当城には北朝方の宍草入道出羽守が守城していたが、河野通直(土居構(愛媛県西条市中野日明) 参照)の攻撃によって落城、以後河野氏の支配となり、同氏の将栗上通宗・宗閑の居城となった。その後、戦国期に至るまで目立った記録がないところを見ると、そのまま河野氏の居城として続いたものと思われる。
粟野秀用
戦国に至ると、天正13年(1585)の秀吉による四国征伐で当城は小早川隆景の前に開城した。その後、文禄年間(1592~)になると粟野秀用が7万石を領して入城した。
粟野秀用(あわのひでもち)、余り馴染みのない武将だが、もともと奥州伊達政宗の家臣である。しかし、仔細あって当地で罪を犯し死罪を言い渡されると、これを知って逃亡した。京都に出奔したのち、尾張で豊臣秀吉に仕える機会を与えられ、武功を挙げた。これに対し秀吉は知行一万石を与えた。それを知った政宗は、秀吉に秀用を引き渡すように要求したが、秀吉が拒否したため政宗は秀吉の威光に恐れたのだろう、それ以上追及しなかった。
その後、上述した四国攻めの際は、再び武勲を挙げ、その功に依ってこの松前城10万石を与えられることになった。その後、秀用は秀吉の命により豊臣秀次(近江・八幡山城(滋賀県近江八幡市見宮内町) 参照)に仕え、さらなる加増を与えられていくことなる。
しかし、文禄4年(1595)6月、突如として秀次に謀反の疑いが掛けられ、この秀次事件に連座して京の三条河原にて斬首された(一説には、大雲院に入って秀次の無罪を訴え自害したともいわれている)。
秀吉による秀次事件の処罰は常軌を逸したもので、誰も諫めることができなくなった独裁者の典型的な末路であるが、それにしても、犠牲となった秀用をはじめ多くの無実の者たちは、実に憐れとしかいいようがない。
【写真左】歩道側から見る。
車で走っていると見過ごすほどの小規模なものなので、近くに車を停め、じっくりと歩いて向かった方がいいと思われる。
塙団右衛門(ばん だんえもん)
さて、粟野秀用が斬首されたその年(文禄4年)、秀用に代わって入部したのが加藤嘉明である。加藤嘉明は賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦) で紹介したように、七本槍の一人で、のちに伊予・松山城(愛媛県松山市丸の内) を築くことになる。
その嘉明に仕えていたのが塙団右衛門である。松前城跡には彼の事績を示す石碑が祀られている。
現地の説明板より
❝塙 団右衛門
(1550頃~1615)
遠江に生まれたと言われ、名は直之。18歳の頃、織田信長に仕えた。義侠心に富み、友情は厚かったが、直情径行、独断専行するところがあった。やがて士分に取り立てられたが、酒に酔って人を傷つけ追放された。
その後、加藤嘉明に仕え、各地を転戦し手柄を立てて次第に昇進し、大豪の士として認められるようになった。文禄の役(1592)では、縦横数メートルの旗を背負い活躍したという。
文禄4年(1595)、嘉明が伊予国松前城に6万石の大名として封ぜられたときには、団右衛門も松前に住んでいたのであろう。
関ヶ原の戦い(1600年)では、嘉明のとっておきの鉄砲隊を指揮したが、独断で突撃した。
●所在地 愛媛県伊予郡松前町筒井1440
●別名 正木城、真崎城、松崎城
●指定 松前町指定史跡
●形態 海城
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 不明
●城主 合田氏、河野氏、粟野氏、加藤嘉明等
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2016年11月26日
◆解説(参考資料 「日本城郭体系 第16巻」、HP 『城びと』、HP『城郭放浪記』等)
伊予・松山城(愛媛県松山市丸の内) から南西方向へおよそ8キロほど進むと、伊予灘に注ぐ重信川河口付近に松前城が所在する。
【写真左】松前城跡に建つ石碑
現地は都市化によって大幅に改変され、遺構を残すものはほとんどなく、盛土によってその位置を示すものしかない。
現地の説明板より
”松前(まさき)城址
この辺りは、古くに松前城があったところで、この碑は、松前城の歴史を後世に伝えるため、大正14年(1925)に建立したものです。題額は旧陸軍大将 秋山好古(よしふる)の書で、撰文は郷土史研究家西園寺源透(げんとう)によるものです。
松前城の歴史は古く、その起源は平安時代にさかのぼると伝えられていますが、松前城の名が初めて文献にあらわれるのは、大山祇神社文書の「祝安親(ほふりやすちか)軍忠状」による祝氏の軍功報告においてです。それによると、建武三年(1336)、松前城にたてこもる南朝方の合田弥太郎定遠(さだとう)を北朝方の祝氏が攻め落とした旨記されていますので、松前城はすでに南北朝時代には存在していたことになります。
【左図】松前城 想像図
残された記録から管理人が想像で描いたもので、左側は外堀を介して伊予灘が接し、北側は伊予川(重信川)が西進している。
松前城に拠った武将も湊川の戦いには北朝側として戦い、楠正成を敗った大森彦七やその大森氏を滅ぼした荏原の平岡氏などが次々に入れ替わりました。
やがて南北朝時代が終わり、室町時代を経て戦国期になると、松前城は河野氏の居城湯築城の出城として、西方海上防衛の前線基地の役割を果たすこととなり、河野氏家臣の栗上氏が詰めていた頃には、豊後の大友氏、安芸の毛利氏、土佐の長宗我部氏らが相次いで侵攻してきたため、松前城では攻防の激戦が幾度となく繰り返されました。
【写真左】西側から遠望
松前城の西側は県道22号線が南北に走っているが、このあたりはおそらく内堀や外堀があったところだろう。
天正13年(1585)、豊臣秀吉による四国平定後は河野氏の当主通直(みちなお)は、夫人の実家のある安芸国竹原に退去し、天正16年(1588)、淡路国志智城(しちじょう)主1万5千石の加藤嘉明が久米、温泉、乃万、伊予の中予四郡6万石の領主として松前城の最後の城主となりました。
松前城に入城した嘉明は城内にあってこの城の起源と深くかかわってきた性尋寺(しょうじんじ)を金蓮寺(こんれんじ)として、今の西古泉に移したうえ、城郭内外の拡充整備を行いました。同時に松前を乱流していた伊予川とその河口の港の大改修に取り掛かりました。
【写真左】石碑・その1
慶長2年(1597)には、秀吉の命により、2千4百余の兵を率いて朝鮮に出兵し、その功で10万石に加増されました。秀吉の死後、徳川方として戦った関ヶ原の合戦でも戦功をあげ、20万石に加増され、慶長8年(1603)、新たに築城した松山城に移り、松前城は廃城とされました。
松前城に使われていた石垣や櫓などの資材は、松山城の築城に使われ、廃城後の松前城は、「古城(ふるしろ)」と呼ばれますが、その跡地は次第に農地化され、明治期に行われた耕地整理により地形は一変しました。唯一、二の丸跡に残されていた龍燈の松も、大正11年(1922)に倒壊し、古城跡は消滅しました。
この松前城は、龍燈の松があったところで、昭和44年(1969)に史跡として松前町文化財に指定しました。
松前町教育委員会”
【写真左】石碑・その2
大正14年に建立されたもので、撰文は郷土史研究家西園寺源透(げんとう)氏のもの。
南北朝期
松前城の築城期及び築城者については上掲した説明板にも史料がなくはっきりしないとしているが、おそらく源平合戦が行われた平安後期頃であろう。記録として残るのは南北朝期で、『集古文書』(『大山祇神社文書』)によれば、南朝方の合田弥四郎定遠が籠城していて、建武3年(1336)北朝方の河野通治の臣・祝彦三郎安親が攻め、合田弥四郎は由並・本尊城(愛媛県伊予市双海町上灘) へ敗走したといわれる。
その後応安元年(1368)当城には北朝方の宍草入道出羽守が守城していたが、河野通直(土居構(愛媛県西条市中野日明) 参照)の攻撃によって落城、以後河野氏の支配となり、同氏の将栗上通宗・宗閑の居城となった。その後、戦国期に至るまで目立った記録がないところを見ると、そのまま河野氏の居城として続いたものと思われる。
粟野秀用
戦国に至ると、天正13年(1585)の秀吉による四国征伐で当城は小早川隆景の前に開城した。その後、文禄年間(1592~)になると粟野秀用が7万石を領して入城した。
粟野秀用(あわのひでもち)、余り馴染みのない武将だが、もともと奥州伊達政宗の家臣である。しかし、仔細あって当地で罪を犯し死罪を言い渡されると、これを知って逃亡した。京都に出奔したのち、尾張で豊臣秀吉に仕える機会を与えられ、武功を挙げた。これに対し秀吉は知行一万石を与えた。それを知った政宗は、秀吉に秀用を引き渡すように要求したが、秀吉が拒否したため政宗は秀吉の威光に恐れたのだろう、それ以上追及しなかった。
その後、上述した四国攻めの際は、再び武勲を挙げ、その功に依ってこの松前城10万石を与えられることになった。その後、秀用は秀吉の命により豊臣秀次(近江・八幡山城(滋賀県近江八幡市見宮内町) 参照)に仕え、さらなる加増を与えられていくことなる。
しかし、文禄4年(1595)6月、突如として秀次に謀反の疑いが掛けられ、この秀次事件に連座して京の三条河原にて斬首された(一説には、大雲院に入って秀次の無罪を訴え自害したともいわれている)。
秀吉による秀次事件の処罰は常軌を逸したもので、誰も諫めることができなくなった独裁者の典型的な末路であるが、それにしても、犠牲となった秀用をはじめ多くの無実の者たちは、実に憐れとしかいいようがない。
【写真左】歩道側から見る。
車で走っていると見過ごすほどの小規模なものなので、近くに車を停め、じっくりと歩いて向かった方がいいと思われる。
塙団右衛門(ばん だんえもん)
さて、粟野秀用が斬首されたその年(文禄4年)、秀用に代わって入部したのが加藤嘉明である。加藤嘉明は賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦) で紹介したように、七本槍の一人で、のちに伊予・松山城(愛媛県松山市丸の内) を築くことになる。
その嘉明に仕えていたのが塙団右衛門である。松前城跡には彼の事績を示す石碑が祀られている。
現地の説明板より
❝塙 団右衛門
(1550頃~1615)
遠江に生まれたと言われ、名は直之。18歳の頃、織田信長に仕えた。義侠心に富み、友情は厚かったが、直情径行、独断専行するところがあった。やがて士分に取り立てられたが、酒に酔って人を傷つけ追放された。
その後、加藤嘉明に仕え、各地を転戦し手柄を立てて次第に昇進し、大豪の士として認められるようになった。文禄の役(1592)では、縦横数メートルの旗を背負い活躍したという。
文禄4年(1595)、嘉明が伊予国松前城に6万石の大名として封ぜられたときには、団右衛門も松前に住んでいたのであろう。
関ヶ原の戦い(1600年)では、嘉明のとっておきの鉄砲隊を指揮したが、独断で突撃した。
下の写真にある奥出雲可部屋集成館に展示されているもので、普段は下段に紹介している田儀櫻井家(分家)がある出雲市多伎町の文化伝承館に収蔵されている。
今回(2021年10月~12月5日)秋の企画展において展示された。
奮戦したにもかかわらず、嘉明に「生涯、人の将たり得ず」とひどく責められた。
団右衛門は納得できず、「遂に、江南の野水に留まらず、高く飛ぶ東海の一閑鷗」と床柱に墨書し、城を去ったといわれている。
また、「義農之墓」に並んで後年建てられた、平田東助子爵撰文の「義農頌徳碑」に使われた石は、団右衛門が松前を去る時に振り返った橋に使われていた石であるとして名付けられた「団右衛門見返りの石」という。
大坂冬の陣(1614)では、嘉明が東軍についたのに対し、団右衛門は豊臣方として本町橋(現、大阪市中央区)での夜襲戦を指揮し、快勝するなど活躍した。夏の陣では勇敢に戦い豊臣方大将の最初の戦死者になったという。
松前町教育委員会”
【写真左】塙団右衛門の説明板
現地に設置されている。
可部屋集成館
ところで、説明板にもあるように塙団右衛門は最期は大阪夏の陣で、和泉国において討死するが、彼の嫡男直胤は母方の姓「桜井」を名乗り、広島の福島正則に仕えた。
福島正則が改易になると、武士を捨て広島城の北方可部郷に移り、製鉄業を開始した。三世直重の代になると、鉄の鉱脈を求めて奥出雲の上阿井に入り、屋号を「可部屋」とし、以後奥出雲櫻井家として「たたら製鉄」の操業を発展させた。
【写真左】可部屋集成館
所在地:島根県仁多郡奥出雲町上阿井1655
可部屋集成館は雪深い地であることから、毎週月曜日とは別に、12月中旬から3月中旬までは休館日となっている。
現在当地(奥出雲町)には、その資料等を収めた「可部集成館」があり、奥出雲の三大鉄師(田部家・絲原家・櫻井家)の一人として繁栄を誇った桜井氏累代の資料が展示されている。
因みに、奥出雲桜井家はその後、江戸時代になると、新たな鉱脈を求めて石見国との境になる神門郡奥田儀村(現:出雲市多伎町奥田儀)へ来住し、以後明治23年(1890)までのおよそ250年間タタラ製鉄を中心として栄えた。
平成18年には「田儀櫻井家たたら製鉄遺跡」として国史跡に指定されている。
【写真左】田儀櫻井家たたら製鉄遺跡
所在地:島根県出雲市多伎町奥田儀
探訪日:2007年1月20日
写真:櫻井家別荘及び山内従事者の住宅跡に残る石垣。
【写真左】管理人の本家御夫婦と当地を訪ねる。
探訪日:2007年6月13日
本家(屋号:鍛冶屋)の先祖は、櫻井家に代々仕えた渡辺(渡部)家の系譜に繋がる。
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