石見・稲積城(いわみ・いなづみじょう)
●所在地 島根県益田市水分町
●高さ 78.9m(比高70m)
●築城期 暦応3年・興国元年(1340)
●築城者 日野邦光
●城主 日野氏、益田氏
●遺構 郭その他
●備考 稲積神社
●登城日 2016年12月2日
◆解説(参考資料 『益田市誌・上巻』、『日本城郭体系』等)
石見・稲積城(以下「稲積城」とする。)は、益田市水分町の稲積山に築かれた小規模な山城で、当城から東に1キロ余り向かうと益田氏の居城七尾城が所在する。
【写真左】稲積山城遠望・その1
2010年9月12日登城した益田氏の居城・七尾城から見たもの。
【写真左】稲積山城遠望・その2
南麓の机崎神社側から見たもの。
石見の南北朝期
南北朝時代における石見の動きについてはこれまでも高津城(島根県益田市高津町上市)の稿などでも再三触れてきたように、 当国でも南朝方と北朝方が激しく戦った。
稲積山城に関わるものとしては、七尾城・その2(島根県益田市七尾) の稿で少し述べているが、興国年間(1340~)に日野邦光が稲積山城に拠って、南朝方の三隅城主・三隅兼連らと呼応し、北朝方の益田兼見の七尾城と対峙したといわれる。
【写真左】途中から直登
登城口が分からず、たまたま南側に手摺のようなものが見えたので、そこから向かったが、結局墓地に向かう道で、その先はまったく道がなく、このあたりから直登することになった。
日野邦光
日野邦光は藤原北家真夏流日野家の出で、日野資朝の子である。資朝は鎌倉幕府を倒そうとしたが、六波羅探題に察知され、同族の日野俊基らと共に捕縛され、佐渡島に流罪された公卿である。
邦光は幼名を阿新丸(くまわかまる)といい、15歳のとき佐渡島に渡り、父の仇討ちを成し遂げた逸話を持つ。延元4年・暦応2年(1339)石見国司として新田義氏と共に同国へ下向した。
【写真左】畑地跡
ひたすら尾根を目指してたどり着くと、割と解放された場所に出た。城域より大分西に来ているようだ。
後述するように、先の大戦中食糧確保のため畑として開墾された跡だろう。
このころ石見では南朝軍が劣勢に陥り、士気が停滞していたが、邦光は地元の南朝方高津長幸(高津城(島根県益田市高津町上市) 参照)・三隅兼連・内田致景(神主城(島根県江津市二宮町神主) 参照)らと相呼応し、稲積山に砦を築いて立て籠り、北朝方(益田兼見・虫追政国・乙吉十郎・領家公恒ら)と対峙し牽制しあった。
稲積城の記録が現れるのは暦応4年(1341)正月28日で、三隅兼連(三隅城・その2(島根県浜田市三隅町三隅) 参照)が当城の食糧欠乏を知って、籐三(とうぞう)という家臣に命じてその護送に当たらせていたところ、益田三宅の袴田で益田方の軍勢に発見されて戦いを交えたというものである。そして、籐三は討死したが、食糧の一部を城内に搬入した。しかし、その年(暦応4年)2月18日、高津城と共に落城し、城主日野邦光は三隅城に落ち延びたといわれる。
【写真左】主郭方面を確認する。
持参した地形図と磁石を頼りに方向を確認すると、この先から城域になるはず。登り勾配となっている。
これに関連する記録としては、次のようなものが残る。
西側から緩やかな登り勾配が続いてきたが、ここで切岸に遭遇。明らかな郭段の様相を呈してきた。
密集していない樹木の間をかき分け、上に向かって這い上がる。
しかし、邦光はその後も石見南朝方を鼓舞すべく、彼らを率いて都を恢復しようと遠大な計画を主張したが、石見在地の武士たちから賛同を得られず、国司の立場であった邦光と三隅氏らの間に次第に隙間が生じ、石見を立ち去った。
邦光は一旦南朝方の本拠・吉野(大和)へ帰還したが、その後も菊池氏らが戦っていた阿蘇(肥後)(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山) 参照)にも赴いたという。
彼のこうした行動を見ると、いささか他人の意見を聞かず、猪突猛進のタイプにも思えるが、その神出鬼没なフットワークには驚かざるを得ない。
当城周辺部の変遷
山頂に本丸を置き、北東部には二の丸、西側には三の丸を配置していたが、先の大戦中食糧難のため、本丸から二の丸付近は伐採・開墾がなされ、さらに西側の三の丸側は砕石場となったため、北側の道路から見ても景観が大きく変わった。
近年では城域内に高圧電線の鉄塔なども建ったことから遺構の残存度はあまり期待できないが、それでも主だった郭の跡はなんとか残っている。
●所在地 島根県益田市水分町
●高さ 78.9m(比高70m)
●築城期 暦応3年・興国元年(1340)
●築城者 日野邦光
●城主 日野氏、益田氏
●遺構 郭その他
●備考 稲積神社
●登城日 2016年12月2日
◆解説(参考資料 『益田市誌・上巻』、『日本城郭体系』等)
石見・稲積城(以下「稲積城」とする。)は、益田市水分町の稲積山に築かれた小規模な山城で、当城から東に1キロ余り向かうと益田氏の居城七尾城が所在する。
【写真左】稲積山城遠望・その1
2010年9月12日登城した益田氏の居城・七尾城から見たもの。
【写真左】稲積山城遠望・その2
南麓の机崎神社側から見たもの。
石見の南北朝期
南北朝時代における石見の動きについてはこれまでも高津城(島根県益田市高津町上市)の稿などでも再三触れてきたように、 当国でも南朝方と北朝方が激しく戦った。
稲積山城に関わるものとしては、七尾城・その2(島根県益田市七尾) の稿で少し述べているが、興国年間(1340~)に日野邦光が稲積山城に拠って、南朝方の三隅城主・三隅兼連らと呼応し、北朝方の益田兼見の七尾城と対峙したといわれる。
【写真左】途中から直登
登城口が分からず、たまたま南側に手摺のようなものが見えたので、そこから向かったが、結局墓地に向かう道で、その先はまったく道がなく、このあたりから直登することになった。
日野邦光
日野邦光は藤原北家真夏流日野家の出で、日野資朝の子である。資朝は鎌倉幕府を倒そうとしたが、六波羅探題に察知され、同族の日野俊基らと共に捕縛され、佐渡島に流罪された公卿である。
邦光は幼名を阿新丸(くまわかまる)といい、15歳のとき佐渡島に渡り、父の仇討ちを成し遂げた逸話を持つ。延元4年・暦応2年(1339)石見国司として新田義氏と共に同国へ下向した。
【写真左】畑地跡
ひたすら尾根を目指してたどり着くと、割と解放された場所に出た。城域より大分西に来ているようだ。
後述するように、先の大戦中食糧確保のため畑として開墾された跡だろう。
このころ石見では南朝軍が劣勢に陥り、士気が停滞していたが、邦光は地元の南朝方高津長幸(高津城(島根県益田市高津町上市) 参照)・三隅兼連・内田致景(神主城(島根県江津市二宮町神主) 参照)らと相呼応し、稲積山に砦を築いて立て籠り、北朝方(益田兼見・虫追政国・乙吉十郎・領家公恒ら)と対峙し牽制しあった。
稲積城の記録が現れるのは暦応4年(1341)正月28日で、三隅兼連(三隅城・その2(島根県浜田市三隅町三隅) 参照)が当城の食糧欠乏を知って、籐三(とうぞう)という家臣に命じてその護送に当たらせていたところ、益田三宅の袴田で益田方の軍勢に発見されて戦いを交えたというものである。そして、籐三は討死したが、食糧の一部を城内に搬入した。しかし、その年(暦応4年)2月18日、高津城と共に落城し、城主日野邦光は三隅城に落ち延びたといわれる。
【写真左】主郭方面を確認する。
持参した地形図と磁石を頼りに方向を確認すると、この先から城域になるはず。登り勾配となっている。
これに関連する記録としては、次のようなものが残る。
- 前年(暦応3年・興国元年)8月27日、益田兼見が上野頼兼に従い、13日の豊田(内田)致員の城(豊田城か)での戦い、18日の日野邦光・高津長幸との戦いの軍忠状を提出する(『益田家文書』)。
- さらに2月には、益田兼躬(おそらく兼見のことと思われる)、上野頼兼に従い、昨年8月19日以来須古山(須子山)に陣取り、18日に高津・稲積両城を攻め落としたとする軍忠状を提出する(『益田家文書』)。
西側から緩やかな登り勾配が続いてきたが、ここで切岸に遭遇。明らかな郭段の様相を呈してきた。
密集していない樹木の間をかき分け、上に向かって這い上がる。
しかし、邦光はその後も石見南朝方を鼓舞すべく、彼らを率いて都を恢復しようと遠大な計画を主張したが、石見在地の武士たちから賛同を得られず、国司の立場であった邦光と三隅氏らの間に次第に隙間が生じ、石見を立ち去った。
邦光は一旦南朝方の本拠・吉野(大和)へ帰還したが、その後も菊池氏らが戦っていた阿蘇(肥後)(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山) 参照)にも赴いたという。
彼のこうした行動を見ると、いささか他人の意見を聞かず、猪突猛進のタイプにも思えるが、その神出鬼没なフットワークには驚かざるを得ない。
当城周辺部の変遷
山頂に本丸を置き、北東部には二の丸、西側には三の丸を配置していたが、先の大戦中食糧難のため、本丸から二の丸付近は伐採・開墾がなされ、さらに西側の三の丸側は砕石場となったため、北側の道路から見ても景観が大きく変わった。
近年では城域内に高圧電線の鉄塔なども建ったことから遺構の残存度はあまり期待できないが、それでも主だった郭の跡はなんとか残っている。
出土品・小札
ところで、この稲積城跡から甲冑の部品の一つである小札(こざね)が3点発掘されている。土の中からボロボロにさびた鉄製品を発掘した際、以前は同定する術が確立していなかったが、近年はエックス線撮影という技術で解明できるようになった。
件のものは鎌倉時代から南北朝時代のものであるという。しかもこの時代のものとしてはかなり高価な甲冑だったことから、南朝方の大将クラスのものだったかもしれない。
【写真左】切岸の上から下の畑地跡を見下ろす。
戦時中の開墾箇所はおそらく切岸の下までだったのだろう。
従って、当時(南北朝期)は畑地跡も郭段(三の丸か)があったのかもしれない。
【写真左】主郭・その1
切岸を越えて振り返ると鉄塔が目に入った。当城の最高所(78.9m)の位置で、主郭のあった場所となる。
こうした工作物が設置されているので、周辺は相当改変されたのか遺構らしきものが見当たらず、変化のない削平地となっている。
【写真左】主郭・その2
鉄塔付近で三角点を探してみたが見つからなかった。
鉄塔から北西の方向は藪になっているが、ほぼ同じ高さで少し伸びており、この部分は実際には長径70m×短径40m前後もあり、当時(南北朝期)の状況を考えると、北側(藪側)に主郭としての中心を置いていたのかもしれない。
【写真左】三角点?
縁の方に見えたもので三角点のような杭が見えるが、→がついているので境杭かもしれない。
【写真左】主郭の南側
少し盛り上がっているので土塁跡か。
【写真左】東側の段
主郭から少し東の端に来たところで、郭段の形状が残る。
【写真左】二の丸・その1
主郭の東側に階段が見えたので、そこから降りてみると御覧の郭段がしっかりと残っている。
これが二の丸だろう。
【写真左】二の丸・その2
二ノ丸の北側まで向かったが思った以上に奥行がある。
また、その先は藪化しているが、上の主郭から帯郭の様相が読み取れたので、北側を囲繞する構図となっていると思われる。
【写真左】二の丸から主郭を見上げる。
高低差は7m前後はあるだろう。
このあと、部分的に残る階段を目安に下に向かう。
【写真左】緩やかな斜面
先ほどのような郭の形状は認められないが、当時は小郭が階段状に設置されていたのかもしれない。
【写真左】七尾城が見えてきた。
結局東側にあった階段を頼りに降りて行ったが、この階段はどうやら鉄塔の施設管理用に設置されたもののようだ。
途中で東方に益田氏居城の七尾城(左側の奥の山)が見えてきた。
【写真左】下山口(登城口)
結局、稲積山城の登城道として利用できるのは東麓部にある鉄塔管理用の道しかないようだ。
ただ、電柱の右側にあり、冬でも草丈が伸びているので、よほど注意してみないと見過ごすかもしれない。
既述したように稲積山城が築かれたのは南北朝期である。それ以前には山頂部に稲積神社が祀られていた。当社が創建された時期は聖武天皇の天平年間(729~749)といわれ、最初は稲積山南麓にあった。
現地の説明板より
‟机崎神社説明板
《御祭神》宇迦魂命 大国主命 猿田彦命
《由緒・歴史》
古伝によれば、この机崎神社は奈良時代、聖武天皇の天平年間(約1200年前)、背後の稲積山に五穀産業海運の祖神である宇迦魂命、大国主命、猿田彦命の三柱の神様を御祭神として奉斎したことに始まります。
平安時代には稲積山に官柱を新たに造営し、稲積神社と称して、盛んな祭祀を営みました。鎌倉時代初期、益田兼高公が七尾城主となるや、神威は更に増し、南北朝時代初期、興国2年(1341)の争乱の時に山頂の神社を現在地に遷座し、机崎神社と称するようになりました。
【写真左】机崎神社遠望
稲積山城の東~南を流れる多田川を挟んで南東におよそ100mほど向かった土井町に建立されている。
その後、益田氏の居城七尾城が建久4年(1193)に築かれると、益田兼高が稲積山山頂を削平し、当社を移転した。それに併せ城下に町割りなどが敷設され、七尾城下と共にこの水分地域も人々が集うことなる。
春耕・夏耕・秋収・冬蔵それぞれの節目に祭事が行われ、夜間神社境内に大篝を焚き、歌や踊りさらには仮面衣装の男女が出でて、牛馬をも持ち出し賑やかな祭事を行ったという。神事が終盤に差し掛かると、大篝火が燃えつくし、その柱が倒れる。その柱の倒れ方によってその年の豊作の吉兆を占った。
【写真左】机崎神社
本殿後背には稲積山城が控える。
長州軍陣地
ところで、稲積山城及び、机崎神社は、時代が下った江戸末期の慶応2年(1866)、長州軍と幕府軍が戦った益田の戦いで長州軍が布陣した場所でもある。
現地の説明板より
《机崎神社 益田戦争長州軍陣地》
幕府は慶応2年(1866)第二次長州戦争の軍を起こし、四境より戦端が開かれ石州口の戦場となったのが益田でした。幕府軍は浜田藩、福山藩の連合軍で、6月17日の朝、萬福寺と勝達寺(天石勝神社)、医光寺に布陣しました。
村田蔵六(大村益次郎)率いる長州軍は、幕府軍の動きを読み、16日には扇原関門に迫りました。
【写真左】岸静江国治の墓
所在地:益田市多田町
机崎神社の前を流れる多田川をおよそ2キロほど遡ったところに建立されている。
岸静江国治は、圧倒的な数の長州軍の来襲を知り、部下や農民らを先に退去させ、一人で仁王立ちして死守したが、長州軍の敵弾を受け、敢え無く絶命した。
藩命とはいえ、わずか31歳の若さだった。合掌。
扇原関門の関守は浜田藩士岸静江国治、少数の士卒そして農民兵16名のみです。藩命を遵守した岸静江は開門を迫る長州軍を断固拒絶し、槍を構えた立ち姿のまま銃弾を浴び絶命したといいます。藩境の扇原関門を突破した長州軍は、机崎神社に集結し、指揮を執った村田蔵六が傍らの稲積山で敵情視察をし、幕府軍の動静を探り、作戦を立てたといわれています。
平成27年2月吉日 益田市観光協会”
【写真左】切岸の上から下の畑地跡を見下ろす。
戦時中の開墾箇所はおそらく切岸の下までだったのだろう。
従って、当時(南北朝期)は畑地跡も郭段(三の丸か)があったのかもしれない。
【写真左】主郭・その1
切岸を越えて振り返ると鉄塔が目に入った。当城の最高所(78.9m)の位置で、主郭のあった場所となる。
こうした工作物が設置されているので、周辺は相当改変されたのか遺構らしきものが見当たらず、変化のない削平地となっている。
【写真左】主郭・その2
鉄塔付近で三角点を探してみたが見つからなかった。
鉄塔から北西の方向は藪になっているが、ほぼ同じ高さで少し伸びており、この部分は実際には長径70m×短径40m前後もあり、当時(南北朝期)の状況を考えると、北側(藪側)に主郭としての中心を置いていたのかもしれない。
【写真左】三角点?
縁の方に見えたもので三角点のような杭が見えるが、→がついているので境杭かもしれない。
【写真左】主郭の南側
少し盛り上がっているので土塁跡か。
【写真左】東側の段
主郭から少し東の端に来たところで、郭段の形状が残る。
【写真左】二の丸・その1
主郭の東側に階段が見えたので、そこから降りてみると御覧の郭段がしっかりと残っている。
これが二の丸だろう。
【写真左】二の丸・その2
二ノ丸の北側まで向かったが思った以上に奥行がある。
また、その先は藪化しているが、上の主郭から帯郭の様相が読み取れたので、北側を囲繞する構図となっていると思われる。
【写真左】二の丸から主郭を見上げる。
高低差は7m前後はあるだろう。
このあと、部分的に残る階段を目安に下に向かう。
【写真左】緩やかな斜面
先ほどのような郭の形状は認められないが、当時は小郭が階段状に設置されていたのかもしれない。
【写真左】七尾城が見えてきた。
結局東側にあった階段を頼りに降りて行ったが、この階段はどうやら鉄塔の施設管理用に設置されたもののようだ。
途中で東方に益田氏居城の七尾城(左側の奥の山)が見えてきた。
【写真左】下山口(登城口)
結局、稲積山城の登城道として利用できるのは東麓部にある鉄塔管理用の道しかないようだ。
ただ、電柱の右側にあり、冬でも草丈が伸びているので、よほど注意してみないと見過ごすかもしれない。
机崎神社と稲積神社
既述したように稲積山城が築かれたのは南北朝期である。それ以前には山頂部に稲積神社が祀られていた。当社が創建された時期は聖武天皇の天平年間(729~749)といわれ、最初は稲積山南麓にあった。
現地の説明板より
《御祭神》宇迦魂命 大国主命 猿田彦命
《由緒・歴史》
古伝によれば、この机崎神社は奈良時代、聖武天皇の天平年間(約1200年前)、背後の稲積山に五穀産業海運の祖神である宇迦魂命、大国主命、猿田彦命の三柱の神様を御祭神として奉斎したことに始まります。
平安時代には稲積山に官柱を新たに造営し、稲積神社と称して、盛んな祭祀を営みました。鎌倉時代初期、益田兼高公が七尾城主となるや、神威は更に増し、南北朝時代初期、興国2年(1341)の争乱の時に山頂の神社を現在地に遷座し、机崎神社と称するようになりました。
【写真左】机崎神社遠望
稲積山城の東~南を流れる多田川を挟んで南東におよそ100mほど向かった土井町に建立されている。
その後、益田氏の居城七尾城が建久4年(1193)に築かれると、益田兼高が稲積山山頂を削平し、当社を移転した。それに併せ城下に町割りなどが敷設され、七尾城下と共にこの水分地域も人々が集うことなる。
春耕・夏耕・秋収・冬蔵それぞれの節目に祭事が行われ、夜間神社境内に大篝を焚き、歌や踊りさらには仮面衣装の男女が出でて、牛馬をも持ち出し賑やかな祭事を行ったという。神事が終盤に差し掛かると、大篝火が燃えつくし、その柱が倒れる。その柱の倒れ方によってその年の豊作の吉兆を占った。
【写真左】机崎神社
本殿後背には稲積山城が控える。
稲積神社は南北朝期(興国年間)日野邦光が稲積山に城郭を築くようになって、山頂にあった社を南麓の机崎に遷座することになる。それが現在の机崎神社である。
長州軍陣地
ところで、稲積山城及び、机崎神社は、時代が下った江戸末期の慶応2年(1866)、長州軍と幕府軍が戦った益田の戦いで長州軍が布陣した場所でもある。
現地の説明板より
《机崎神社 益田戦争長州軍陣地》
幕府は慶応2年(1866)第二次長州戦争の軍を起こし、四境より戦端が開かれ石州口の戦場となったのが益田でした。幕府軍は浜田藩、福山藩の連合軍で、6月17日の朝、萬福寺と勝達寺(天石勝神社)、医光寺に布陣しました。
村田蔵六(大村益次郎)率いる長州軍は、幕府軍の動きを読み、16日には扇原関門に迫りました。
【写真左】岸静江国治の墓
所在地:益田市多田町
机崎神社の前を流れる多田川をおよそ2キロほど遡ったところに建立されている。
岸静江国治は、圧倒的な数の長州軍の来襲を知り、部下や農民らを先に退去させ、一人で仁王立ちして死守したが、長州軍の敵弾を受け、敢え無く絶命した。
藩命とはいえ、わずか31歳の若さだった。合掌。
扇原関門の関守は浜田藩士岸静江国治、少数の士卒そして農民兵16名のみです。藩命を遵守した岸静江は開門を迫る長州軍を断固拒絶し、槍を構えた立ち姿のまま銃弾を浴び絶命したといいます。藩境の扇原関門を突破した長州軍は、机崎神社に集結し、指揮を執った村田蔵六が傍らの稲積山で敵情視察をし、幕府軍の動静を探り、作戦を立てたといわれています。
平成27年2月吉日 益田市観光協会”
※赤字 管理人による。
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