2020年2月7日金曜日

真浄庵土居屋敷(広島県三原市久井町羽倉)

真浄庵土居屋敷(しんじょうあん どいやしき)

●所在地 広島県三原市久井町羽倉
●築城期 不明
●築城者 不明(末近氏か)
●遺構・遺物 土塁
●備考 羽倉城、殿様墓
●登城日 2016年12月7日

◆解説
 真浄庵土居屋敷は広島県の旧御調郡久井町に所在した中世の館跡である。現在当地域は2005年に三原市に合併され、所在地は三原市久井町羽倉となる。
【写真左】真浄庵土居屋敷遠望
 南西側から見たもので、手前には末近信賀供養塔が見える。






久井

 真浄庵土居屋敷(以下「土居屋敷」とする。)の所在する久井(クイ)という地名は、もともと杭と呼ばれ、平安時代から牛馬の売買が盛んな市場となっていた。

 その繁盛ぶりは衰微することなく、江戸時代の延宝8年(1680)になると、広島藩の公認を受け、近畿・九州・北陸など遠方からも多くの牛馬商人(博労等)が集まり、豊後の「浜の牛馬市」、伯耆の大山(大仙)の牛馬市と並んで日本三大牛馬市の一つとして広く知られるようになった。
【写真左】久井稲荷神社
所在地:三原市久井町江木1-1

 古伝によれば、往古山城国(京都)伏見稲荷神社の神田(社領地)があり、天慶元年(938)に現在地に遷座。
 戦国時代になると毛利元就が弘治3年当社本殿を造営し、3年後の永禄3年小早川隆景が社殿を造営したとある。


 しかし、昭和に入り農業機械化の発達により、昭和39年に千年以上続いたこの牛馬市はその歴史の幕を閉じることになる。
 
 久井の地域がこうした牛馬を中心とした盛んな農耕地を有していたことから、おそらくその時代ごとに当地を支配していた領主もまたそれらを積極的に支援してきたものと思われる。
【写真左】久井町歴史民俗資料館前に建つ「杭の牛市跡」を紹介した説明板
 所在地:久井町下津1397





羽賀城

 ところで、この土居屋敷付近は、現在近年の圃場整備事業に伴い、整然と区画化された田んぼが広がっているが、土居屋敷から北西方向へおよそ200mほど向かうと、その圃場整備された田圃の中に「羽賀城」という平城があったことが知られる。
 伝承では当城は末近氏の居館といわれている。末近は地元では「セジカ」と呼称している。
【写真左】羽賀城のあった方向を見る。
 御覧の通り圃場された田園風景で、遺構は田圃の下に隠され、まったく見ることはできない。



 規模は54m×44m、周囲には幅8~11m、深さ2.5~3.0mの水濠を巡らし、北側には幅5.7mの土塁が設けられ、特徴的なのはその土塁上部に5m間隔で、ピットが確認されている。このピットが柱穴とすれば、土塁の上に柵を設けていた可能性もある。

 発掘調査後圃場整備がなされ、城址部分は遺構上部に約2mの盛土を行い、その後圃場(水田)となっているので、すでに現地はその面影を残していない。
【写真左】羽賀城付近
 上の写真とは別の箇所から見たもの。
 おそらく当時は不定形で小規模な田圃が棚田状になっていたのだろう。




殿様墓

 さて、土居屋敷の話に戻るが、この付近の南東部に数体の墓石(五輪塔・宝篋印塔)が祀られ、これらを「殿様墓」と呼んでいる。そして傍らには末近左衛門尉信賀の顕彰碑が建立されている。
 この奥には写真でも紹介しているように、土塁上の段や庵(屋敷)の時代に盛土されたような跡が残る。
【写真左】殿様墓
 写真の左から2番目にある石柱に「殿様墓」と刻銘されたものがあり、そのまわりに五輪塔や宝篋印塔などが並んでいる。




末近左衛門尉信賀

 天正10年(1582)6月4日、備中・高松城(岡山県岡山市北区高松) を攻めた秀吉は、毛利方と講和を結んだが、そのときの条件として高松城主・清水宗治に自刃を求めた。巷間伝えられているのは、自刃したのは宗治一人だったというイメージが強いが、実際には彼に殉死した武将が複数いたことが知られる。

 具体的には、宗治をはじめ、宗治の兄・月清入道、宗治の弟・難波宗忠、そして末近左衛門尉信賀と合わせて4名である。
【写真左】供養塔
 殿様墓と並んで右側には近年建立された供養塔が併設されている。

 供養塔には
「大圓鏡智為 備中高松城天正之陣 水攻め講和四百年年忌 羽倉城主末近信賀自刃追善供養塔」
 とあり、右面には
「奉斎 岡山市高松城址保興会 萩市郷土文化協会」
と筆耕されている。


 末近左衛門尉信賀(以下「末近信賀」とする。)は、セジカ(又はスエチカ)ノブヨシと呼称する。信賀の父は内蔵助で、このころから小早川家の家臣であったという(別説では、これ以前の沼田小早川氏、すなわち隆景が養子に入る前からの小早川氏の被官であったという)。(安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1 参照)

 信賀はこの当時隆景の家臣となっていた。信賀が当地に羽倉城を築いたのは、元亀元年(1570)といわれている。領地経営に意を注ぎ、水路開削や水田開発を積極的に行ったという。

 信賀が自刃したのは、この年(天正10年)隆景から備中高松城の軍監として派遣されていたことから、その責を負ってのことだろうが、清水宗治一族のみの自刃では秀吉が納得しなかったのかもしれない。
 信賀が自刃したあとの同月18日付で、小早川隆景から信賀の子・光久宛てに感状が出されている。
【写真左】信賀辞世の句
 近くには信賀の辞世の句が刻まれた石碑が建つ。







”君がため
  名を高松にとめおきて
      心は帰る 故郷の方”


【写真左】五輪塔群
 手前の墓石とは別に奥にも小規模な五輪塔群が見える。
 このあと奥の方に向かってみる。
【写真左】段のある箇所。
 土居屋敷が真浄庵という名前を付記していることを考えると、末近氏に近い一族が当地に屋敷にを構え、その後出家した僧がこの場所で庵を営んだというような経緯が考えられるが、史料がないためはっきりしない。
【写真左】土塁
 上の段に上がり、少し奥に向かうと小規模だが土塁の痕跡が認められる。
【写真左】切岸
 周辺部が圃場整備されているため、土居屋敷との境目が当時どのような状態だったのか分からないが、この個所はかなり高低差を残しているので、切岸だったと思われる。
【写真左】遠望・その1
 土居屋敷は写真の右側に当たり、手前の墓は地元の民家のもの。
【写真左】遠望・その2
 上の写真から更に南西方向に移動した位置から見たもので、手前の田圃から見ると意外と高低差がある。

 この田圃の畔がカーブを描いていることから、当時はこの付近も土居屋敷(真浄庵)の関連した建物などがあったのかもしれない。

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