但馬・万場城(たじま・まんばじょう)
●所在地 兵庫県豊岡市日高町万場字城山
●形態 丘城
●高さ 360m(比高30m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 不明
●遺構 竪堀・堀切等
●登城日 2016年12月12日
◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』、HP『山城攻略記』等)
兵庫県豊岡市の南西部日高町にある神鍋高原は、スキーやキャンプ、トレッキングといった一年中楽しめるリゾート地として多くの観光客が訪れる場所である。
特にスキー場は昭和32年、関西初となる「第12回国民体育大会冬季大会スキー競技会」が開かれ、一流のスキー場として全国的にも知られるようになった。そして、この地区には最盛期になると、6ヶ所のスキー場が開設されたが、その後スキー人口の減少に伴い、現在では神鍋ファミリースキー場、北神鍋スキー場、及び万場スキー場などが営業をしている。
今稿で取り上げる万場城は、その中の万場スキー場に隣接する丘陵地先端に築かれた小規模な山城である。
【写真左】万場城遠望
下段で述べているように、城域の位置を間違えてしまい、手前の丘陵部を散策してしまった。
奥には万場スキー場が見える。
踏査地点を間違えた?
登城したこの日、いつものようにHP『城郭放浪記』氏の資料をコピーして向かったのだが、残念ながら、踏査地点が実際よりずれたところだったようで、アップした写真は城域とは別の場所だったことを最初にお断りしておきたい。
管理人が踏査したのは、万場城の手前の丘陵地だったようで、万場城は写真にもあるようにこの場所から更にスキー場側へ上った位置に在った。
【写真左】天神社
万場城に向かう途中に祀られている神社で、旧名は中古天満宮又は、的場大明神とも称した。
創建年は未詳。
祭神は菅原道真
明治3年(1870)天神社と改称され、同6年に村社に列する。
縄張の状況
当城については先述したHP『城郭放浪記』氏のものがすでに紹介されているが、これとは別にHP『山城攻略記』氏のものがある。当HPでは縄張図が添付されていて、当城の概要を知ることができる。
これによると、西側から伸びてきた尾根筋に設けられ、東西200m×南北50~70mほどの規模で、中央部に東西に30mほど伸びた郭(主郭)を置き、東側には腰郭や畝状竪堀群が尾根先端部に配置されている。中央部主郭の西側の尾根には堀切が配置されている。
【写真左】天神社のトチノキ
天神社の脇には兵庫県指定天然記念物の「天神社のトチノキ」が生えている。
樹高30m、胸高周囲7.6mで県内随一の大きさという。
平成17年3月18日指定
垣屋氏
当城の築城者・築城期などについては史料がないため、はっきりした事は分からない。
そこで、推測の域を出ないが、中世但馬日高地方の領主として考えられるのは、宵田城(兵庫県豊岡市日高町岩中字城山)で紹介した垣屋氏である。
当稿でも述べているように、垣屋氏が山名氏に従って最初に下向したのが神鍋高原付近といわれている。
同氏はその後次第に稲葉川沿いを下って日高町中心部へと移ることになる。因みに、神鍋高原地域には当城のほか、近くに名色城(なしきじょう)、大田城、南山城といった中小の城郭が点在しているが、これらも垣屋氏又はその一族が関わったものと思われる。
【写真左】勘違いした丘の先端部
万場城はこの場所からさらにスキー場に向かった位置だったが、この丘陵部が城域だと思い込んでしまった。
【写真左】この辺りから登ることにする。
万場城の遺構がある箇所でないため、以下の写真は当然ながらほとんど関連性はないが、それでも城域とさほど離れていない場所なので参考までに掲載しておきたい。
【写真左】尾根にたどり着く。
比高がさほどないため簡単に尾根にたどり着いた。
【写真左】尾根
上の写真とほぼ変わらないが、自然地形とはいえ尾根幅が広く、しかもフラットな面が多い。
まるで郭のような印象を持つ。
【写真左】東端部の谷
尾根の東側へ向かうと、登った側の傾斜とはだいぶ違う険阻な谷が見える。
【写真左】万場城方面を見る。
この位置から万場城の中心部まではおよそ300mほど離れている。
この尾根を奥に進むと、途中で谷を介して南から延びてきた別の尾根先端部に万場城が所在する。
従って、直接の関連性はないが、当時万場城の南麓部には万場スキー場を跨いで、西側の村岡方面に向かう街道があったことから、この付近も万場城を補完する施設があったのかもしれない。
【写真左】万場城側から流れる川
上記した谷から流れてきているもので、おそらく濠の役目をしていたのだろう。
●所在地 兵庫県豊岡市日高町万場字城山
●形態 丘城
●高さ 360m(比高30m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 不明
●遺構 竪堀・堀切等
●登城日 2016年12月12日
◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』、HP『山城攻略記』等)
兵庫県豊岡市の南西部日高町にある神鍋高原は、スキーやキャンプ、トレッキングといった一年中楽しめるリゾート地として多くの観光客が訪れる場所である。
特にスキー場は昭和32年、関西初となる「第12回国民体育大会冬季大会スキー競技会」が開かれ、一流のスキー場として全国的にも知られるようになった。そして、この地区には最盛期になると、6ヶ所のスキー場が開設されたが、その後スキー人口の減少に伴い、現在では神鍋ファミリースキー場、北神鍋スキー場、及び万場スキー場などが営業をしている。
今稿で取り上げる万場城は、その中の万場スキー場に隣接する丘陵地先端に築かれた小規模な山城である。
【写真左】万場城遠望
下段で述べているように、城域の位置を間違えてしまい、手前の丘陵部を散策してしまった。
奥には万場スキー場が見える。
踏査地点を間違えた?
登城したこの日、いつものようにHP『城郭放浪記』氏の資料をコピーして向かったのだが、残念ながら、踏査地点が実際よりずれたところだったようで、アップした写真は城域とは別の場所だったことを最初にお断りしておきたい。
管理人が踏査したのは、万場城の手前の丘陵地だったようで、万場城は写真にもあるようにこの場所から更にスキー場側へ上った位置に在った。
【写真左】天神社
万場城に向かう途中に祀られている神社で、旧名は中古天満宮又は、的場大明神とも称した。
創建年は未詳。
祭神は菅原道真
明治3年(1870)天神社と改称され、同6年に村社に列する。
縄張の状況
当城については先述したHP『城郭放浪記』氏のものがすでに紹介されているが、これとは別にHP『山城攻略記』氏のものがある。当HPでは縄張図が添付されていて、当城の概要を知ることができる。
これによると、西側から伸びてきた尾根筋に設けられ、東西200m×南北50~70mほどの規模で、中央部に東西に30mほど伸びた郭(主郭)を置き、東側には腰郭や畝状竪堀群が尾根先端部に配置されている。中央部主郭の西側の尾根には堀切が配置されている。
【写真左】天神社のトチノキ
天神社の脇には兵庫県指定天然記念物の「天神社のトチノキ」が生えている。
樹高30m、胸高周囲7.6mで県内随一の大きさという。
平成17年3月18日指定
垣屋氏
当城の築城者・築城期などについては史料がないため、はっきりした事は分からない。
そこで、推測の域を出ないが、中世但馬日高地方の領主として考えられるのは、宵田城(兵庫県豊岡市日高町岩中字城山)で紹介した垣屋氏である。
当稿でも述べているように、垣屋氏が山名氏に従って最初に下向したのが神鍋高原付近といわれている。
同氏はその後次第に稲葉川沿いを下って日高町中心部へと移ることになる。因みに、神鍋高原地域には当城のほか、近くに名色城(なしきじょう)、大田城、南山城といった中小の城郭が点在しているが、これらも垣屋氏又はその一族が関わったものと思われる。
【写真左】勘違いした丘の先端部
万場城はこの場所からさらにスキー場に向かった位置だったが、この丘陵部が城域だと思い込んでしまった。
【写真左】この辺りから登ることにする。
万場城の遺構がある箇所でないため、以下の写真は当然ながらほとんど関連性はないが、それでも城域とさほど離れていない場所なので参考までに掲載しておきたい。
【写真左】尾根にたどり着く。
比高がさほどないため簡単に尾根にたどり着いた。
【写真左】尾根
上の写真とほぼ変わらないが、自然地形とはいえ尾根幅が広く、しかもフラットな面が多い。
まるで郭のような印象を持つ。
【写真左】東端部の谷
尾根の東側へ向かうと、登った側の傾斜とはだいぶ違う険阻な谷が見える。
【写真左】万場城方面を見る。
この位置から万場城の中心部まではおよそ300mほど離れている。
この尾根を奥に進むと、途中で谷を介して南から延びてきた別の尾根先端部に万場城が所在する。
従って、直接の関連性はないが、当時万場城の南麓部には万場スキー場を跨いで、西側の村岡方面に向かう街道があったことから、この付近も万場城を補完する施設があったのかもしれない。
【写真左】万場城側から流れる川
上記した谷から流れてきているもので、おそらく濠の役目をしていたのだろう。
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