合元寺(ごうがんじ)
●所在地 大分県中津市寺町973
●別名 赤壁寺
●創建年 天正15年(1587)
●開創 黒田孝高(官兵衛)
●開山 空誉上人
●宗派 浄土宗西山派
●参拝 2014年10月19日
◆解説
本稿では宇都宮鎮房及び、黒田氏(官兵衛)などが関わった中津市街地に点在する幾つかの寺院を取り上げたい。
寺町
下段の寺町周辺マップでも示されているように、当時の中津城の城域ともいえる総曲輪の中で、特に東側に寺町としての町割りができている。
主だった寺院を時系列的に整理すると以下のようになる。
1、黒田氏入封以前のもの
地蔵院・安随寺
2、黒田氏入封時のもの
合元寺・大法寺・円応寺・西蓮寺
3、細川藩時代のもの
普門院・宝蓮坊・本伝寺
4、小笠原藩時代のもの
圓龍寺・浄安寺
5、奥平藩時代のもの
松厳寺
※赤字は本稿で紹介しているもの。
合元寺
城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)で、天正16年4月、宇都宮鎮房が中津城において黒田長政によって謀殺されたことを紹介したが、そのとき鎮房と共に中津に出向いていた家臣たちも誅滅された。その殺害された場所が号元寺といわれており、通称「赤壁寺」とも呼ばれている。
【写真左】合元寺山門
ご覧の通り通りに面した塀や山門付近も朱色で染まっている。
現地説明板より
“赤壁 合元寺(ごうがんじ)
通称「赤壁」といわれるこの寺は、浄土宗西山派開山空上人が天正15年(1587年)黒田孝高(如水)に従って姫路から中津に移り来た。
その後天正17年4月、孝高が前領主宇都宮鎮房を謀略結婚により中津城内に誘致したとき、その従臣らが中津城を脱出し、この寺を拠点として奮戦し最期をとげた。
【写真左】寺町周辺マップ
合元寺を含めたこの辺りは寺町と呼ばれ、数多くの寺院が建ち並んでいる。
(後段参照)
合元寺は右下に記されているが、なお、黒田氏居城の中津城は西側の中津川河畔に築城されている。
以来門前の白壁は、幾度塗り替えても血痕が絶えないので、ついに赤色に塗り替えられるようになった。
当時の激戦の様子は現在も庫裡の大黒柱に刀痕が点々と残されている。また戦死した宇都宮家の家臣は合葬し寺内の延命地蔵菩薩堂に祀り菩提を弔った。
その空誉上人は、宇都宮鎮房の庶子であったといわれ、文武の道に秀で世人の崇敬が篤かったため、後事をおそれ、慶長16年黒田長政に福岡城で誘殺されたという哀史を秘めた寺である。
寺内には、三浦梅園・倉成龍渚の師・儒学者藤田敬所(藤貞一)の墓がある。後のお堂は経蔵である。
中津市教育委員会
中津の郷土史を語る会”
【写真左】号元寺に面した通り
円応寺 浄土宗 鏡智山
【写真左】浄土宗 鏡智山 円応寺
当院縁起より
“円応寺
天正15年(1587)に黒田官兵衛の開基によって建立された浄土宗の寺院です。
開山は真誉(しんよ)上人見道大和尚。
慶長5年(1600)、見道和尚は黒田氏に従って福岡に移り、同名の円応寺を開きました。
円応寺の境内に河童の墓と呼ばれる五輪塔があります。『下毛郡誌』によるとこの墓は、宇都宮鎮房が誘殺された時、鎮房に一の太刀をあびせた野村太郎兵衛祐勝の墓だとされています。野村太郎兵衛は黒田二十四騎の一人です。
中津市教育委員会”
圓龍寺(えんりゅうじ) 浄土宗 岡谷山
【写真左】浄土宗 圓龍寺
現地説明板より
“閻魔(えんま)さんのお寺
岡谷山(おかやさん) 圓龍寺
當山は寛永年間に、小笠原長次公が播州龍野(7万石)から中津藩主として入国したとき、専譽(せんよ)上人を開山として開いた。阿弥陀如来を本尊にまつる。
山門を入って左手に観音堂、閻魔堂があり、子安観世音菩薩、右手奥に閻魔さまと葬頭河婆(そうず かのうば)(奪衣婆(だつえば))が安置され、老若男女から恐れられ、親しまれ大衆を仏心へ導いてくださるという民俗信仰が伝承されている。
また、境内の墓地には小笠原、奥平家の家臣や水島銕也(てつや)、南画の片山九畹(きゅうえん)の墓がある。
中津市
中津の郷土史を語る会”
西蓮寺 浄土真宗本願寺派
【写真左】浄土真宗本願寺派 西蓮寺
当寺は黒田官兵衛の末弟・市右衛門がのちに出家し、官兵衛を慕って中津に入国し建立したものとされている。
説明板より
“黒田官兵衛孝高(黒田如水)公 ゆかりの寺
浄土真宗本願寺派
寶池山(ほうちざん) 西蓮寺(さいれんじ)
西蓮寺は、天正16年(1588)に光心師によって開創された。光心師の俗名は「黒田市右衛門」であり、黒田孝高公の末弟で父・黒田美濃守職隆公の逝去時に出家した。
黒田孝高公が播州より豊前中津に入国の際に兄・孝高公の御徳を慕い共に中津に入り、寺町に西蓮寺を建立し、初代住職となったのである。
以来420年以上の長きに亘り、現20代住職までこの地で法灯を伝えている。
【写真左】西蓮寺 本堂
現在の本堂は、天保14年(1844)に再建されたもので、金剛棟札を見ると、発起人は8才の童子「播磨屋助次郎」とある。
この童子が山国川から小石を運び、立派な本堂を建てる用意をしていることを聞き、総代・小畑親民(ちかたみ)は深く感激し再建に尽力した。
この本堂は、再建当時藩主であった第8代奥平昌服(まさもと)公が、度々お茶会を催した場所でもある。”
●所在地 大分県中津市寺町973
●別名 赤壁寺
●創建年 天正15年(1587)
●開創 黒田孝高(官兵衛)
●開山 空誉上人
●宗派 浄土宗西山派
●参拝 2014年10月19日
◆解説
本稿では宇都宮鎮房及び、黒田氏(官兵衛)などが関わった中津市街地に点在する幾つかの寺院を取り上げたい。
寺町
下段の寺町周辺マップでも示されているように、当時の中津城の城域ともいえる総曲輪の中で、特に東側に寺町としての町割りができている。
主だった寺院を時系列的に整理すると以下のようになる。
1、黒田氏入封以前のもの
地蔵院・安随寺
2、黒田氏入封時のもの
合元寺・大法寺・円応寺・西蓮寺
3、細川藩時代のもの
普門院・宝蓮坊・本伝寺
4、小笠原藩時代のもの
圓龍寺・浄安寺
5、奥平藩時代のもの
松厳寺
※赤字は本稿で紹介しているもの。
合元寺
城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)で、天正16年4月、宇都宮鎮房が中津城において黒田長政によって謀殺されたことを紹介したが、そのとき鎮房と共に中津に出向いていた家臣たちも誅滅された。その殺害された場所が号元寺といわれており、通称「赤壁寺」とも呼ばれている。
【写真左】合元寺山門
ご覧の通り通りに面した塀や山門付近も朱色で染まっている。
現地説明板より
“赤壁 合元寺(ごうがんじ)
通称「赤壁」といわれるこの寺は、浄土宗西山派開山空上人が天正15年(1587年)黒田孝高(如水)に従って姫路から中津に移り来た。
その後天正17年4月、孝高が前領主宇都宮鎮房を謀略結婚により中津城内に誘致したとき、その従臣らが中津城を脱出し、この寺を拠点として奮戦し最期をとげた。
【写真左】寺町周辺マップ
合元寺を含めたこの辺りは寺町と呼ばれ、数多くの寺院が建ち並んでいる。
(後段参照)
合元寺は右下に記されているが、なお、黒田氏居城の中津城は西側の中津川河畔に築城されている。
以来門前の白壁は、幾度塗り替えても血痕が絶えないので、ついに赤色に塗り替えられるようになった。
当時の激戦の様子は現在も庫裡の大黒柱に刀痕が点々と残されている。また戦死した宇都宮家の家臣は合葬し寺内の延命地蔵菩薩堂に祀り菩提を弔った。
その空誉上人は、宇都宮鎮房の庶子であったといわれ、文武の道に秀で世人の崇敬が篤かったため、後事をおそれ、慶長16年黒田長政に福岡城で誘殺されたという哀史を秘めた寺である。
寺内には、三浦梅園・倉成龍渚の師・儒学者藤田敬所(藤貞一)の墓がある。後のお堂は経蔵である。
中津市教育委員会
中津の郷土史を語る会”
【写真左】号元寺に面した通り
円応寺 浄土宗 鏡智山
【写真左】浄土宗 鏡智山 円応寺
当院縁起より
“円応寺
天正15年(1587)に黒田官兵衛の開基によって建立された浄土宗の寺院です。
開山は真誉(しんよ)上人見道大和尚。
慶長5年(1600)、見道和尚は黒田氏に従って福岡に移り、同名の円応寺を開きました。
円応寺の境内に河童の墓と呼ばれる五輪塔があります。『下毛郡誌』によるとこの墓は、宇都宮鎮房が誘殺された時、鎮房に一の太刀をあびせた野村太郎兵衛祐勝の墓だとされています。野村太郎兵衛は黒田二十四騎の一人です。
中津市教育委員会”
圓龍寺(えんりゅうじ) 浄土宗 岡谷山
【写真左】浄土宗 圓龍寺
現地説明板より
“閻魔(えんま)さんのお寺
岡谷山(おかやさん) 圓龍寺
當山は寛永年間に、小笠原長次公が播州龍野(7万石)から中津藩主として入国したとき、専譽(せんよ)上人を開山として開いた。阿弥陀如来を本尊にまつる。
山門を入って左手に観音堂、閻魔堂があり、子安観世音菩薩、右手奥に閻魔さまと葬頭河婆(そうず かのうば)(奪衣婆(だつえば))が安置され、老若男女から恐れられ、親しまれ大衆を仏心へ導いてくださるという民俗信仰が伝承されている。
また、境内の墓地には小笠原、奥平家の家臣や水島銕也(てつや)、南画の片山九畹(きゅうえん)の墓がある。
中津市
中津の郷土史を語る会”
西蓮寺 浄土真宗本願寺派
【写真左】浄土真宗本願寺派 西蓮寺
当寺は黒田官兵衛の末弟・市右衛門がのちに出家し、官兵衛を慕って中津に入国し建立したものとされている。
説明板より
“黒田官兵衛孝高(黒田如水)公 ゆかりの寺
浄土真宗本願寺派
寶池山(ほうちざん) 西蓮寺(さいれんじ)
西蓮寺は、天正16年(1588)に光心師によって開創された。光心師の俗名は「黒田市右衛門」であり、黒田孝高公の末弟で父・黒田美濃守職隆公の逝去時に出家した。
黒田孝高公が播州より豊前中津に入国の際に兄・孝高公の御徳を慕い共に中津に入り、寺町に西蓮寺を建立し、初代住職となったのである。
以来420年以上の長きに亘り、現20代住職までこの地で法灯を伝えている。
【写真左】西蓮寺 本堂
現在の本堂は、天保14年(1844)に再建されたもので、金剛棟札を見ると、発起人は8才の童子「播磨屋助次郎」とある。
この童子が山国川から小石を運び、立派な本堂を建てる用意をしていることを聞き、総代・小畑親民(ちかたみ)は深く感激し再建に尽力した。
この本堂は、再建当時藩主であった第8代奥平昌服(まさもと)公が、度々お茶会を催した場所でもある。”
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