中津城・城井神社(なかつじょう・きいじんじゃ)
●所在地 大分県中津市二ノ丁
(中津城)
●指定 市指定史跡
●別名 丸山城・扇城・小犬丸城
●形態 平城
●築城期 天正16年(1588)
●築城者 黒田孝高(官兵衛)
●遺構 石垣・堀
(城井神社)
●創建 天正19年(1591)
●城井大明神 開創 黒田長政
●城井大権現(城井神社) 宝永2年(1705) 小笠原長円
●登城・参拝日 2014年10月19日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
中津城については、中津城(大分県中津市二ノ丁)ですでに紹介しているが、当稿でも述べているように、この時は全くの観光気分で訪れたものである。そして、実際に登城したのは2005年10月なので、今回10年ぶりの再訪となった。
【写真左】中津城
北側から見たもので、後段でも紹介するように、模擬天守を支える石垣は築城期の黒田氏時代、およびその後入封した細川氏時代のものとで構成されている。
再訪の動機は、この年(2014年)のNHKの大河ドラマ「軍師 官兵衛」の放映がきっかけであるが、今回は官兵衛はもとより、黒田氏に葬られた宇都宮氏にも興味があったため、築上町の史跡(城井ノ上城・大平城など)を探訪したあと、再び中津城を訪れた。
【写真左】江戸期の中津城配置図
後段でも述べるように、この図は細川氏から小笠原氏へと城主が変わったころ確定した頃のものだろう。
中津城
馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)でも少し述べているが、黒田官兵衛が当城を築城する直前まで居城としていたのが馬ヶ岳城である。秀吉が九州征伐のため、馬ヶ岳城に入ったのが天正15年(1587)3月29日とされている。そして5月8日に島津氏の降伏を受け、翌月の7日、博多筥崎に諸将を集め、九州諸大名の封域を定めている。
【写真左】南側から見た中津城
10年前訪れた時は観光客もまばらだったが、この日は朝早くから観光バスなどで訪れる人が多くいた。
官兵衛関係のコーナやグッズなども販売されていた。大河ドラマによる宣伝効果はやはりすごい。
官兵衛が中津城の築城を開始したのは、翌天正16年の正月からといわれているが、もともとこの場所には応永年間(室町初期)に、中津江太郎の拠った小規模な城砦(大塚山土塁か)があったといわれている。
中津江太郎は応永4年(1397)に大友氏鑑に随い田川郡・規矩郡に攻め入っているが、これはその5年前になされた南北朝合一後、山口の大内氏が豊前守護職を得て、豊後の大友氏と対立したことからしばらく続いた戦いである。
そのあとと思われるが、この辺り(本丸付近)には二重の溝に囲まれた館があったという。それを裏付けるものとしては、最大径1.6m、厚さ70cmの大型礎石やタイル状の瓦が大量に出土し、建物種別としては寺院跡であったといわれている。
中津城の石垣
中津城の石垣については、現地の説明板に特記されているように、黒田氏時代のものと、細川氏時代のものと二つ残っている。
現地の説明板より
“黒田本丸の石垣と細川時代の石垣
右側の石垣は、「折あらば天下人に」という野望を秘めた黒田孝高(如水)時代の本丸跡である。左側の石垣は、細川忠興(三斎)時代のもので、忠興自慢の石垣である。
両時代の石垣とも花崗岩が多く使われている。
【写真左】黒田時代の石垣案内表示板
北側にある薬研堀の中央部から西側の塀一帯が黒田氏時代のものといわれている。
下段写真参照。
中津城が歴史に登場するのは、天正15年(1587)孝高が豊臣秀吉に豊前の六郡を与えられ、山国川の河口デルタである中津の地を選び、翌年築城を始めたことによる。
軍事的にも西に山国川、南と東に大家川(のち忠興の築いた金谷堤によってふさがれた)、北に周防灘を控えた要害の地であった。同時に瀬戸内海に面し、畿内への重要な港でもあった。
孝高は、闇無浜(くらなしはま)から自見(じみ)・大塚一帯を含む大規模な築城に取り掛かったが、度重なる戦のため、なかなか工事もはかどらないまま、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いなどの功によって筑前52万石への加増転封し中津を去った。
【写真上】黒田氏時代と細川氏時代の石垣境界部
三の丸側の方から見たもので、遠くからでも目地が違うので分かる。
黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後国の国東・速見二郡の領主として入部した。忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元を小倉城においた。慶長7年忠興は、居城を小倉城に変更し大規模な小倉城築城を始めた。
元和元年(1615)一国一城令が出され、忠興は慶長年間より行っていた中津城の普請をいったん中止した。小倉城以外に、中津城も残されるよう老中に働きかけた結果、翌2年中津城の残置が決まった。
【写真左】黒田時代の石垣
写真は西側の中津川沿いにあるもので、ほとんど黒田氏時代のもの。
細川氏時代と比べると、石積のすき間が大きい。
元和6年(1620)家督を細川忠利に譲った忠興は、翌7年中津城に移り、中津城や城下町の整備を本格的に行った。元和の一国一城令や忠興の隠居城としての性格のため、同年本丸と二ノ丸の間の堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるよう命じている。
中津市教育委員会
中津の郷土史を語る会”
【写真左】椎木御門付近
東南部隅にある個所で、二ノ丸から本丸に向かう入口に当たる。
細川氏時代以降のものだろう。なお、この手前には「長福寺」という寺院が建っていたとされる。
唐原山城
ところで、黒田氏が築城する際に用いられた石垣は、西側を流れる山国川を遡ったところの唐原山城(とうばるやまじょう)から移設したものといわれている。この唐原山城は現在の上毛町にある古代山城(唐原神籠石:とうばるこうごういし)で、直方体の一辺が断面L字型に削られている石が特徴とされている。
この古代山城が発見されたのは最近のようで、さきごろ開通した東九州自動車道の「唐原山城トンネル」の真上に当たる。機会があれば、いずれ探訪してみたいものだ。
【写真左】西側を流れる中津川
右に見える川が中津川で、旧名高瀬川といわれた。この川は南方から流れてきた本流山国川が途中で中洲(小祝)を挟んで分岐したもので、河口である周防灘までわずか1キロ余りの短い河川である。
歴代城主
中津城の歴代城主は前述した南北朝期の中津氏を別枠とすれば、築城者であった黒田氏(官兵衛)から始まり以下三氏の名が残る。
(1)黒田氏(官兵衛・長政)
天正15年(1587)~慶長5年(1600)
(2)細川氏(忠興・忠利・三斎(忠興))
慶長5年(1600)~寛永9年(1632)
(3)小笠原氏(長次・長勝・長胤・長円・長邑)
寛永9年(1632)~享保元年(1716)
(4)奥平氏(昌成から始まり昌遭まで9代)
享保2年(1717)~慶應4年(1868)
【写真左】武家屋敷跡
二ノ丸の北側に残るもので、中津城の最後の城主奥平氏の家臣・竹下氏のものといわれている。
「江戸家中分限帳」(享和3年(1803))によれば、竹下義兵衛は「一高十人扶持」と記されている。
建物は茅葺箇所が桁行9.756m、梁間4.98mの寄棟造りで、入口には土塀と門があったという。
城井神社
中津城の西側には宇都宮氏一族を祀る城井神社と、扇城神社が建立されている。
【写真左】二社入口付近
なお、この付近にはこのほか、奥平神社、中津神社、金比羅宮なども併設されている。
現地の説明板より
“城井神社
御祭神 宇都宮鎮房
城井谷城主宇都宮家は信房より鎮房に至る16代、およそ400年の間豊前国守(くにのかみ)として徳政を布いた。
天正15年(1587)5月、豊臣秀吉は九州平定にあたり、豊前六郡を黒田孝高に、二郡を毛利勝信に与え、鎮房には四国今治(12万石)移封の御証判を与えた。
鎮房は累代の墳墓の地の安堵を願い、このご朱印状を返上したため、宇都宮一族は黒田孝高、長政と豊前の地で死闘を繰り返すこととなり、黒岩山合戦(峯合戦)では長政を敗退させた。
そこで秀吉は孝高と謀り、所領安堵を条件として長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し和睦した。
【写真左】城井神社本殿
ここにも大河ドラマ「軍師 官兵衛」で宇都宮鎮房役が村田雄浩さんに決定したと記された看板が添えてあった。
天正16年(1588)4月20日、鎮房は中津城に招かれ酒宴の席で謀殺された。
天正19年長政は深く感ずる処があって、城内守護紀府(城井)大明神として鎮房を祀り、福岡移封後はその地に警固大明神として祀った。
宝永2年(1705)小笠原長円(ながのぶ)は、小社を建て城井大権現として崇め、その後幾度からの変遷の後、城井神社として改められた。
中津市
中津の郷土史を語る会”
“扇城神社(せんじょうじんじゃ)
宇都宮鎮房公従臣四十五柱
天正16年(1588)宇都宮鎮房公従臣は、庶子空誉上人(鎮房公と静の間に生まれた)の合元寺に止め置かれ、鎮房公は小姓松田小吉を伴い中津城内の館で謀殺された。
異変を知った家臣群は次々に城中へ駆け入り、龍が荒れるように戦った。小姓松田小吉は19人に手傷を負わせ京町筋で討死、野田新助・吉岡八太夫は手傷を負い、広津広雲寺まで切り抜け追腹、その他二士は合元寺門前に遁れ戦い、遂に庫裡にて討死、その他はことごとく討死した。
【写真左】扇城神社の看板
境内末社のため、本殿は祠程度の小規模なものがこの看板の後ろに建立されている。
家老渡辺右京進は、7,8人を薙ぎ伏せたという。松田小吉は小吉稲荷として京町に、野田新助・吉岡八太夫は広運寺にそれぞれ埋葬され、その他の従臣の遺体は寄せられ、城内乾の上段、この地に埋葬された。
宝永2年(1705)、小笠原長円(ながのぶ)公は、広運寺追腹の二士を小吉稲荷大明神とともに祀った。その後変遷。城井神社再興後、大正9年(1920)4月20日、鎮房公従臣四十五柱を境内末社として祀ったのである。
中津市
中津の郷土史を語る会”
【写真左】中堀の土塁 ~おかこい山~
ところで、中津城の南側には南部小学校があるが、この付近にかつて数か所の土塁があったという。地元ではこれを「おかこい山」と呼んでいる。
写真に見える歩道には、その箇所を薄い緑色で示している。
【写真左】おまけ・中津城のネコ
城井神社から少し南の方を散策していたらご覧のネコちゃんと遭遇。ネコ好きの家内、さっそく近寄ってスキンシップ。
ヒト慣れしているせいか、愛嬌がいい。そういえば、こんな光景、広島の尾道でも見た覚えがある。
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●築城者 黒田孝高(官兵衛)
●遺構 石垣・堀
(城井神社)
●創建 天正19年(1591)
●城井大明神 開創 黒田長政
●城井大権現(城井神社) 宝永2年(1705) 小笠原長円
●登城・参拝日 2014年10月19日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
中津城については、中津城(大分県中津市二ノ丁)ですでに紹介しているが、当稿でも述べているように、この時は全くの観光気分で訪れたものである。そして、実際に登城したのは2005年10月なので、今回10年ぶりの再訪となった。
【写真左】中津城
北側から見たもので、後段でも紹介するように、模擬天守を支える石垣は築城期の黒田氏時代、およびその後入封した細川氏時代のものとで構成されている。
再訪の動機は、この年(2014年)のNHKの大河ドラマ「軍師 官兵衛」の放映がきっかけであるが、今回は官兵衛はもとより、黒田氏に葬られた宇都宮氏にも興味があったため、築上町の史跡(城井ノ上城・大平城など)を探訪したあと、再び中津城を訪れた。
【写真左】江戸期の中津城配置図
後段でも述べるように、この図は細川氏から小笠原氏へと城主が変わったころ確定した頃のものだろう。
中津城
馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)でも少し述べているが、黒田官兵衛が当城を築城する直前まで居城としていたのが馬ヶ岳城である。秀吉が九州征伐のため、馬ヶ岳城に入ったのが天正15年(1587)3月29日とされている。そして5月8日に島津氏の降伏を受け、翌月の7日、博多筥崎に諸将を集め、九州諸大名の封域を定めている。
【写真左】南側から見た中津城
10年前訪れた時は観光客もまばらだったが、この日は朝早くから観光バスなどで訪れる人が多くいた。
官兵衛関係のコーナやグッズなども販売されていた。大河ドラマによる宣伝効果はやはりすごい。
官兵衛が中津城の築城を開始したのは、翌天正16年の正月からといわれているが、もともとこの場所には応永年間(室町初期)に、中津江太郎の拠った小規模な城砦(大塚山土塁か)があったといわれている。
中津江太郎は応永4年(1397)に大友氏鑑に随い田川郡・規矩郡に攻め入っているが、これはその5年前になされた南北朝合一後、山口の大内氏が豊前守護職を得て、豊後の大友氏と対立したことからしばらく続いた戦いである。
そのあとと思われるが、この辺り(本丸付近)には二重の溝に囲まれた館があったという。それを裏付けるものとしては、最大径1.6m、厚さ70cmの大型礎石やタイル状の瓦が大量に出土し、建物種別としては寺院跡であったといわれている。
中津城の石垣
中津城の石垣については、現地の説明板に特記されているように、黒田氏時代のものと、細川氏時代のものと二つ残っている。
現地の説明板より
“黒田本丸の石垣と細川時代の石垣
右側の石垣は、「折あらば天下人に」という野望を秘めた黒田孝高(如水)時代の本丸跡である。左側の石垣は、細川忠興(三斎)時代のもので、忠興自慢の石垣である。
両時代の石垣とも花崗岩が多く使われている。
【写真左】黒田時代の石垣案内表示板
北側にある薬研堀の中央部から西側の塀一帯が黒田氏時代のものといわれている。
下段写真参照。
中津城が歴史に登場するのは、天正15年(1587)孝高が豊臣秀吉に豊前の六郡を与えられ、山国川の河口デルタである中津の地を選び、翌年築城を始めたことによる。
軍事的にも西に山国川、南と東に大家川(のち忠興の築いた金谷堤によってふさがれた)、北に周防灘を控えた要害の地であった。同時に瀬戸内海に面し、畿内への重要な港でもあった。
孝高は、闇無浜(くらなしはま)から自見(じみ)・大塚一帯を含む大規模な築城に取り掛かったが、度重なる戦のため、なかなか工事もはかどらないまま、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いなどの功によって筑前52万石への加増転封し中津を去った。
【写真上】黒田氏時代と細川氏時代の石垣境界部
三の丸側の方から見たもので、遠くからでも目地が違うので分かる。
黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後国の国東・速見二郡の領主として入部した。忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元を小倉城においた。慶長7年忠興は、居城を小倉城に変更し大規模な小倉城築城を始めた。
元和元年(1615)一国一城令が出され、忠興は慶長年間より行っていた中津城の普請をいったん中止した。小倉城以外に、中津城も残されるよう老中に働きかけた結果、翌2年中津城の残置が決まった。
【写真左】黒田時代の石垣
写真は西側の中津川沿いにあるもので、ほとんど黒田氏時代のもの。
細川氏時代と比べると、石積のすき間が大きい。
元和6年(1620)家督を細川忠利に譲った忠興は、翌7年中津城に移り、中津城や城下町の整備を本格的に行った。元和の一国一城令や忠興の隠居城としての性格のため、同年本丸と二ノ丸の間の堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるよう命じている。
中津市教育委員会
中津の郷土史を語る会”
【写真左】椎木御門付近
東南部隅にある個所で、二ノ丸から本丸に向かう入口に当たる。
細川氏時代以降のものだろう。なお、この手前には「長福寺」という寺院が建っていたとされる。
唐原山城
ところで、黒田氏が築城する際に用いられた石垣は、西側を流れる山国川を遡ったところの唐原山城(とうばるやまじょう)から移設したものといわれている。この唐原山城は現在の上毛町にある古代山城(唐原神籠石:とうばるこうごういし)で、直方体の一辺が断面L字型に削られている石が特徴とされている。
この古代山城が発見されたのは最近のようで、さきごろ開通した東九州自動車道の「唐原山城トンネル」の真上に当たる。機会があれば、いずれ探訪してみたいものだ。
【写真左】西側を流れる中津川
右に見える川が中津川で、旧名高瀬川といわれた。この川は南方から流れてきた本流山国川が途中で中洲(小祝)を挟んで分岐したもので、河口である周防灘までわずか1キロ余りの短い河川である。
歴代城主
中津城の歴代城主は前述した南北朝期の中津氏を別枠とすれば、築城者であった黒田氏(官兵衛)から始まり以下三氏の名が残る。
(1)黒田氏(官兵衛・長政)
天正15年(1587)~慶長5年(1600)
(2)細川氏(忠興・忠利・三斎(忠興))
慶長5年(1600)~寛永9年(1632)
(3)小笠原氏(長次・長勝・長胤・長円・長邑)
寛永9年(1632)~享保元年(1716)
(4)奥平氏(昌成から始まり昌遭まで9代)
享保2年(1717)~慶應4年(1868)
【写真左】武家屋敷跡
二ノ丸の北側に残るもので、中津城の最後の城主奥平氏の家臣・竹下氏のものといわれている。
「江戸家中分限帳」(享和3年(1803))によれば、竹下義兵衛は「一高十人扶持」と記されている。
建物は茅葺箇所が桁行9.756m、梁間4.98mの寄棟造りで、入口には土塀と門があったという。
城井神社
中津城の西側には宇都宮氏一族を祀る城井神社と、扇城神社が建立されている。
【写真左】二社入口付近
なお、この付近にはこのほか、奥平神社、中津神社、金比羅宮なども併設されている。
現地の説明板より
“城井神社
御祭神 宇都宮鎮房
城井谷城主宇都宮家は信房より鎮房に至る16代、およそ400年の間豊前国守(くにのかみ)として徳政を布いた。
天正15年(1587)5月、豊臣秀吉は九州平定にあたり、豊前六郡を黒田孝高に、二郡を毛利勝信に与え、鎮房には四国今治(12万石)移封の御証判を与えた。
鎮房は累代の墳墓の地の安堵を願い、このご朱印状を返上したため、宇都宮一族は黒田孝高、長政と豊前の地で死闘を繰り返すこととなり、黒岩山合戦(峯合戦)では長政を敗退させた。
そこで秀吉は孝高と謀り、所領安堵を条件として長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し和睦した。
【写真左】城井神社本殿
ここにも大河ドラマ「軍師 官兵衛」で宇都宮鎮房役が村田雄浩さんに決定したと記された看板が添えてあった。
天正16年(1588)4月20日、鎮房は中津城に招かれ酒宴の席で謀殺された。
天正19年長政は深く感ずる処があって、城内守護紀府(城井)大明神として鎮房を祀り、福岡移封後はその地に警固大明神として祀った。
宝永2年(1705)小笠原長円(ながのぶ)は、小社を建て城井大権現として崇め、その後幾度からの変遷の後、城井神社として改められた。
中津市
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“扇城神社(せんじょうじんじゃ)
宇都宮鎮房公従臣四十五柱
天正16年(1588)宇都宮鎮房公従臣は、庶子空誉上人(鎮房公と静の間に生まれた)の合元寺に止め置かれ、鎮房公は小姓松田小吉を伴い中津城内の館で謀殺された。
異変を知った家臣群は次々に城中へ駆け入り、龍が荒れるように戦った。小姓松田小吉は19人に手傷を負わせ京町筋で討死、野田新助・吉岡八太夫は手傷を負い、広津広雲寺まで切り抜け追腹、その他二士は合元寺門前に遁れ戦い、遂に庫裡にて討死、その他はことごとく討死した。
【写真左】扇城神社の看板
境内末社のため、本殿は祠程度の小規模なものがこの看板の後ろに建立されている。
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中津市
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ところで、中津城の南側には南部小学校があるが、この付近にかつて数か所の土塁があったという。地元ではこれを「おかこい山」と呼んでいる。
写真に見える歩道には、その箇所を薄い緑色で示している。
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