月光山 天徳寺(げっこうさん てんとくじ)
●所在地 福岡県築上町本庄361
●創建 正慶元年(1332)
●開山 蔵山融澤大和尚(泉福寺二世)
●開基 宇都宮頼房(五代当主)
●宗派 曹洞宗
●山号 月光山
●参拝日 2014年10月18日
◆解説(参考資料 HP『月光山 天徳寺』等)
前稿宇都宮氏館(福岡県築上郡築上町大字松丸字立屋敷)でも述べたように、同氏館跡から4キロほど城井谷を登っていくと、宇都宮氏菩提寺とされた天徳寺が建立されている。
【写真左】城井宇都宮公霊廟
天徳寺境内に建立されているもので、併せて地蔵菩薩も祀られているようだ。
現地説明板より
“月光山 天徳寺 縁起
正慶元年(1332年)に5代当主宇都宮頼房公が建立した寺です。
豊前国衙在庁職の頼房公は、築城郡木庄に若山城を築き、豊後国東の泉福寺二世蔵山融澤和尚を迎えて「香火院月光山天徳寺」を開山し持仏寺とした。
のちに天徳寺は宇都宮氏の菩提寺となった。
【写真左】天徳寺と本庄城の位置図
天徳寺の位置は左図のとおりだが、当院の南側に聳える標高315mの山には、明応10年(1501)豊後大友氏と周防の大内氏の戦いにおいて、当時大友氏に属していた城井直重が大内に攻められ落城した本庄城(別名若山城)がある。
時代は遡り鎌倉時代の初期、源頼朝の御家人職であった宇都宮信房公(初代豊前宇都宮氏)が、頼朝の命で九州に入国した広大な所領を得て、豊前最大の豪族として土着し栄えた一族で、その活動範囲は九州全域に及ぶ、それゆえ鎮西宇都宮氏とも云う。
【写真左】宇都宮鎮房公墓所の案内標識
宇都宮氏の墓所は当院の麓にある。
時は流れて、18代鎮房公の代、豊臣秀吉の天下統一に際しては、所領を失い新参大名黒田氏と敵対し、ついには謀計の涯て天正16年(1588)4月、長甫・鎮房・朝房・つる姫・家臣共々無念の生涯を綴じた。
しかれども、お家断絶の機に遭うも宇都宮氏の血は絶える事なく徳川時代(慶長~元和)細川・小笠原両家の御加護にて当寺も復興し、宇都宮氏菩提寺として現在に至る。
一、天徳寺本尊 釈迦如来座像
一、宇都宮氏霊廟仏 聖観世音菩薩像
平成21年吉辰 天徳寺31世 秀光清徹 記
仝 32聖 大徹浩久 記”
【写真左】墓所入口付近
この墓所は現在の檀家墓も混在しているようだが、城井氏関係は写真の左側に配置されている。
豊前宇都宮氏(城井氏)系譜
さて、これまで同氏の主だった事績を述べてきたが、あらためてその系譜を見てみたい。以前にも紹介したように、豊前宇都宮氏の租は藤原宗円の次子・中原宗房が豊前国仲津郡城井郷に地頭職として下向したことに始まるが、その嫡男・信房が実質上の開祖となる。
信房以降については次のように記録されている。なお、説明板では鎮房を18代としているが、本稿では便宜上、初代信房を初代としているため、鎮房は16代と数える。
【写真左】城井氏(宇都宮氏)一族の墓石群
18代 朝末(1588~?)
釈迦如来像と三足蟇香炉
冒頭でも紹介したように、当院には本尊である釈迦如来像と三足蟇香炉が秘蔵されている。実物は拝見できなかったが、説明板に添付されているものを紹介しておきたい。
【写真左】釈迦如来像
説明板より(抜粋)
“…本尊は釈迦如来で鎌倉時代の作。また寺宝に、宇都宮氏の祖となった宗円が前九年の役(1053)の功績により、後冷泉天皇より下賜されたと伝えられる金銅「三足蟇香炉(さんぞくがまこうろ)」がある。
境内には宇都宮氏末期の当主である長甫、鎮房、朝房の墓や、室町時代に活躍した城井俊房の宝篋印塔などがある。
春から夏にかけて、境内はツツジやアジサイで彩られる。”
【写真左】三足蟇香炉
◎関連投稿
豊前・龍王城(大分県宇佐市安心院町龍王字古城)
●所在地 福岡県築上町本庄361
●創建 正慶元年(1332)
●開山 蔵山融澤大和尚(泉福寺二世)
●開基 宇都宮頼房(五代当主)
●宗派 曹洞宗
●山号 月光山
●参拝日 2014年10月18日
◆解説(参考資料 HP『月光山 天徳寺』等)
前稿宇都宮氏館(福岡県築上郡築上町大字松丸字立屋敷)でも述べたように、同氏館跡から4キロほど城井谷を登っていくと、宇都宮氏菩提寺とされた天徳寺が建立されている。
【写真左】城井宇都宮公霊廟
天徳寺境内に建立されているもので、併せて地蔵菩薩も祀られているようだ。
現地説明板より
“月光山 天徳寺 縁起
正慶元年(1332年)に5代当主宇都宮頼房公が建立した寺です。
豊前国衙在庁職の頼房公は、築城郡木庄に若山城を築き、豊後国東の泉福寺二世蔵山融澤和尚を迎えて「香火院月光山天徳寺」を開山し持仏寺とした。
のちに天徳寺は宇都宮氏の菩提寺となった。
【写真左】天徳寺と本庄城の位置図
天徳寺の位置は左図のとおりだが、当院の南側に聳える標高315mの山には、明応10年(1501)豊後大友氏と周防の大内氏の戦いにおいて、当時大友氏に属していた城井直重が大内に攻められ落城した本庄城(別名若山城)がある。
時代は遡り鎌倉時代の初期、源頼朝の御家人職であった宇都宮信房公(初代豊前宇都宮氏)が、頼朝の命で九州に入国した広大な所領を得て、豊前最大の豪族として土着し栄えた一族で、その活動範囲は九州全域に及ぶ、それゆえ鎮西宇都宮氏とも云う。
【写真左】宇都宮鎮房公墓所の案内標識
宇都宮氏の墓所は当院の麓にある。
時は流れて、18代鎮房公の代、豊臣秀吉の天下統一に際しては、所領を失い新参大名黒田氏と敵対し、ついには謀計の涯て天正16年(1588)4月、長甫・鎮房・朝房・つる姫・家臣共々無念の生涯を綴じた。
しかれども、お家断絶の機に遭うも宇都宮氏の血は絶える事なく徳川時代(慶長~元和)細川・小笠原両家の御加護にて当寺も復興し、宇都宮氏菩提寺として現在に至る。
一、天徳寺本尊 釈迦如来座像
一、宇都宮氏霊廟仏 聖観世音菩薩像
平成21年吉辰 天徳寺31世 秀光清徹 記
仝 32聖 大徹浩久 記”
【写真左】墓所入口付近
この墓所は現在の檀家墓も混在しているようだが、城井氏関係は写真の左側に配置されている。
豊前宇都宮氏(城井氏)系譜
さて、これまで同氏の主だった事績を述べてきたが、あらためてその系譜を見てみたい。以前にも紹介したように、豊前宇都宮氏の租は藤原宗円の次子・中原宗房が豊前国仲津郡城井郷に地頭職として下向したことに始まるが、その嫡男・信房が実質上の開祖となる。
信房以降については次のように記録されている。なお、説明板では鎮房を18代としているが、本稿では便宜上、初代信房を初代としているため、鎮房は16代と数える。
【写真左】城井氏(宇都宮氏)一族の墓石群
豊前宇都宮氏系図
初代 信房(1156~1234)
信房弟・重房は野仲重房と名乗り、下毛郡野仲郷を分与され豊前・長岩城(大分県中津市耶馬渓町大字河原口)を築城
2代 景房
3代 信景
4代 道房
3代 信景
4代 道房
5代 頼房(?~? 鎌倉・南北朝時代)
月光山 天徳寺建立(正慶元年・元弘2年:1332)
6代 冬綱(?~? 南北朝時代)
下野国(栃木県)宇都宮氏の貞綱(1266~1316)の子
主君足利尊氏・義詮
7代 家綱(?~? 南北朝時代)
下野国宇都宮氏の公綱(1302~56)の子(冬綱の甥)
8代 直綱
9代 盛綱
10代 家尚
11代 盛直
12代 秀房
13代 興房
9代 盛綱
10代 家尚
11代 盛直
12代 秀房
13代 興房
14代 正房(1478~1561)
主君大内義興・義隆
【写真左】宇都宮長甫(長房)公墓
法謚(ほうし) 霊岸院殿徳全長甫大居士
15代 長房(1506~88)
別名・長甫 妻:大内義興娘
天正16年(1588)4月、鎮房謀殺後、豊後に落ち延びる途中追討され殺害(異説あり)。
天正16年(1588)4月、鎮房謀殺後、豊後に落ち延びる途中追討され殺害(異説あり)。
【写真左】宇都宮長甫(長房)公墓
法謚(ほうし) 霊岸院殿徳全長甫大居士
16代 鎮房(1536~88)
天正16年4月、中津城にて黒田氏により謀殺さる(中津城・城井神社(大分県中津市二ノ丁)参照)。
18代 朝末(1588~?)
釈迦如来像と三足蟇香炉
冒頭でも紹介したように、当院には本尊である釈迦如来像と三足蟇香炉が秘蔵されている。実物は拝見できなかったが、説明板に添付されているものを紹介しておきたい。
【写真左】釈迦如来像
説明板より(抜粋)
“…本尊は釈迦如来で鎌倉時代の作。また寺宝に、宇都宮氏の祖となった宗円が前九年の役(1053)の功績により、後冷泉天皇より下賜されたと伝えられる金銅「三足蟇香炉(さんぞくがまこうろ)」がある。
境内には宇都宮氏末期の当主である長甫、鎮房、朝房の墓や、室町時代に活躍した城井俊房の宝篋印塔などがある。
春から夏にかけて、境内はツツジやアジサイで彩られる。”
【写真左】三足蟇香炉
◎関連投稿
豊前・龍王城(大分県宇佐市安心院町龍王字古城)
0 件のコメント:
コメントを投稿