宇都宮氏館(うつのみやしやかた)
●所在地 福岡県築上郡築上町大字松丸字立屋敷
●別名 城井取手屋敷・城井鎮房の隠居の宅
●形態 居館跡
●規模 150m×120m
●遺構 空堀・土塁・建物跡・柵列
●登城日 2014年10月18日
◆解説(参考資料 HP「ふるさと歴史発見-築上町」等)
前稿大平城のある本庄から城井川をおよそ12キロほど下っていくと、次第に谷間が広がり、松丸という地区に入ると、ほぼ中央にこんもりとした丘が見える。これが後期宇都宮氏の居館跡とされている。
【写真左】宇都宮氏館跡遠望
南側から見たもので、周囲は平坦になっているが、この箇所だけ独立した小丘となり、周囲は植林された樹木で囲われている。
貝原益軒
元禄7年(1694)4月の初め、福岡藩主黒田家より命を受けた儒学者貝原益軒は、豊前・豊後国の史料調査に出かけた。
同月6日、城井谷に入った益軒は、城井氏の菩提寺「天徳寺」方面に向かうが、その手前の谷間に差し掛かり、
「松丸村の上、道東の側に城井鎮房が隠居の宅にせんとて構えたるところあり、方六十間ばかり、まわりに小土手つき、から掘あり。されど爰にはいまだ住せず。一説には此の処も城井が取出の塞なりと云う。」
と『豊国紀行』に記している。これがおそらく今稿の「宇都宮氏館」といわれた箇所であろうといわれている。
【写真左】南側から向かう。
同氏館跡とされる区域はほぼ民有地となっており、「関係者以外立ち入り禁止」の札がたっていたため、とりあえず、その外側の道を進む。
【写真左】土塁か
南側一部は墓地になっており、しかもその周囲は雑草に覆われていて遺構の確認が困難だが、右側は土塁のような高まりが残る。
【写真左】これも土塁のような
館跡の周囲は植林され、しかも私有地であるため、これ以上踏み込めなかったが、中の殆どは畑地となっている。
耕作地となっていることから屋敷跡として残っていたであろう建物の礎石などはおそらくほとんどないと思われる。
【写真左】遠望
東側から見たもので、屋敷跡地のみ小高い丘となっている。
【写真左】宇都宮氏館跡から城井谷上流部を見る。
細長い城井谷だが、館跡から南に遡ると、大平城、城井ノ上城などがこの写真の奥に控える。
【写真左】宇都宮氏館跡位置図
左が北を示す。
宇都宮氏館跡からさらにおよそ4キロほど登った所には宇都宮氏の菩提寺天徳寺がある。当院については次稿で紹介したい。
岩戸見神社と熊谷氏
宇都宮氏館跡の近くには岩戸見神社が祀られている。当社は宇都宮氏が関東より勧請したといわれので、鎌倉初期に創建されたものだろう。
【写真左】岩戸見神社の鳥居
のちに城井谷11カ村の氏神と定め、祭礼に神楽が奉納された。
城井谷には少なくない神楽団が存在しているが、特に当社に残る「伝法寺岩戸神楽」は町の指定無形民俗文化財とされている。
きっかけは明治7年に当社宮司熊谷房重氏が地元氏子に伝授したたといわれている。
ところで、この伝授した宮司熊谷氏の名前から想像するに、同町の宇留津城(福岡県築上郡築上町大字宇留津)に残る須佐神社が、管理人の住む出雲の高櫓城跡(島根県出雲市佐田町反辺慶正)で紹介した熊谷氏と関係があるのではないかと指摘したが、この岩戸見神社の宮司も熊谷氏を名乗っていることを考えると、やはり豊前宇都宮氏が滅んだあと、毛利氏麾下であった熊谷氏の一部が神官として当地に残ったのではないかと思わざるを得ない。
【写真左】正光寺と岩戸見神社の案内・石柱
●所在地 福岡県築上郡築上町大字松丸字立屋敷
●別名 城井取手屋敷・城井鎮房の隠居の宅
●形態 居館跡
●規模 150m×120m
●遺構 空堀・土塁・建物跡・柵列
●登城日 2014年10月18日
◆解説(参考資料 HP「ふるさと歴史発見-築上町」等)
前稿大平城のある本庄から城井川をおよそ12キロほど下っていくと、次第に谷間が広がり、松丸という地区に入ると、ほぼ中央にこんもりとした丘が見える。これが後期宇都宮氏の居館跡とされている。
【写真左】宇都宮氏館跡遠望
南側から見たもので、周囲は平坦になっているが、この箇所だけ独立した小丘となり、周囲は植林された樹木で囲われている。
貝原益軒
元禄7年(1694)4月の初め、福岡藩主黒田家より命を受けた儒学者貝原益軒は、豊前・豊後国の史料調査に出かけた。
同月6日、城井谷に入った益軒は、城井氏の菩提寺「天徳寺」方面に向かうが、その手前の谷間に差し掛かり、
「松丸村の上、道東の側に城井鎮房が隠居の宅にせんとて構えたるところあり、方六十間ばかり、まわりに小土手つき、から掘あり。されど爰にはいまだ住せず。一説には此の処も城井が取出の塞なりと云う。」
と『豊国紀行』に記している。これがおそらく今稿の「宇都宮氏館」といわれた箇所であろうといわれている。
【写真左】南側から向かう。
同氏館跡とされる区域はほぼ民有地となっており、「関係者以外立ち入り禁止」の札がたっていたため、とりあえず、その外側の道を進む。
【写真左】土塁か
南側一部は墓地になっており、しかもその周囲は雑草に覆われていて遺構の確認が困難だが、右側は土塁のような高まりが残る。
【写真左】これも土塁のような
館跡の周囲は植林され、しかも私有地であるため、これ以上踏み込めなかったが、中の殆どは畑地となっている。
耕作地となっていることから屋敷跡として残っていたであろう建物の礎石などはおそらくほとんどないと思われる。
【写真左】遠望
東側から見たもので、屋敷跡地のみ小高い丘となっている。
【写真左】宇都宮氏館跡から城井谷上流部を見る。
細長い城井谷だが、館跡から南に遡ると、大平城、城井ノ上城などがこの写真の奥に控える。
左が北を示す。
宇都宮氏館跡からさらにおよそ4キロほど登った所には宇都宮氏の菩提寺天徳寺がある。当院については次稿で紹介したい。
岩戸見神社と熊谷氏
宇都宮氏館跡の近くには岩戸見神社が祀られている。当社は宇都宮氏が関東より勧請したといわれので、鎌倉初期に創建されたものだろう。
【写真左】岩戸見神社の鳥居
のちに城井谷11カ村の氏神と定め、祭礼に神楽が奉納された。
城井谷には少なくない神楽団が存在しているが、特に当社に残る「伝法寺岩戸神楽」は町の指定無形民俗文化財とされている。
きっかけは明治7年に当社宮司熊谷房重氏が地元氏子に伝授したたといわれている。
ところで、この伝授した宮司熊谷氏の名前から想像するに、同町の宇留津城(福岡県築上郡築上町大字宇留津)に残る須佐神社が、管理人の住む出雲の高櫓城跡(島根県出雲市佐田町反辺慶正)で紹介した熊谷氏と関係があるのではないかと指摘したが、この岩戸見神社の宮司も熊谷氏を名乗っていることを考えると、やはり豊前宇都宮氏が滅んだあと、毛利氏麾下であった熊谷氏の一部が神官として当地に残ったのではないかと思わざるを得ない。
【写真左】正光寺と岩戸見神社の案内・石柱
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