田丸城(たまるじょう)
●所在地 三重県度会郡玉城町田丸
●築城期 延元元年(1336)
●築城者 北畠親房
●城主 田丸直昌・愛州忠行・久野氏など
●形態 平山城
●別名 玉丸城
●指定 三重県指定史跡
●登城日 2012年4月17日
◆解説
今稿でとりあげる城砦は、西国(地方)の山城ではなく、畿内・伊勢(三重県)に所在する城砦・田丸城を取り上げる。
【写真左】田丸城
西側から見たもの。
戦国時代、織田信長の次男信雄のときに行われた大改造が、現在残っている田丸城の姿で、当時は、北の丸・二の丸・三の丸をおき、本丸には天守閣が建っていたというから、父が築いた安土城と同じく近世城郭としての様式が備わっていたものと考えられる。
現地の説明板より
“三重県指定 史跡 田丸城跡
指定年月日 昭和28年5月7日
史跡の総面積 166,000㎡
沿革
田丸城は、南北朝動乱期の延元元年(1336)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が、愛洲氏や度会氏などの援助を得て、この玉丸山に城を築いて南朝方の拠点としたことが始まりとされる。
南朝方の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊に通じる道は、軍事・経済の面からも吉野朝廷にとっては、最重要路線であり、玉丸城は北朝・南朝の攻防の舞台となった。
【写真左】城内案内図
現地の説明板に添付されたもので、少し文字が薄いため分かりずらいが、北側から「北の丸」「本丸(天守台)」「二の丸」が南北に配列されている。下方が北を示す。
西側は幅の狭い郭段が続き、切崖状の側面が多く、東側は現在中学校などの施設が建ち、当時の遺構は大分消滅している。
室町時代には、伊勢国司となり一志郡美杉村の多気に館を構えた北畠氏の支城として、伊勢志摩支配の拠点となっていた。天正3年(1575)、織田信長の次男で北畠氏を継いだ織田信雄が、田丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け、本丸には三層の天守閣を建て田丸城の誕生となった。天正8年には、この天守閣は炎上した。
江戸時代には紀州藩主徳川頼宣の家老久野宗成が田丸城主となり、久野家は代々城代を勤めた。城は明治2年(1869)に廃城となり、同4年には城内の建物は取り払われた。昭和3年(1928)、国有林となっていたこの城地の払い下げに際し、村山龍平の寄付により町有となり、その後残りの城地も町有化し、町民に開放された。
平成7年3月 玉城町”
【写真左】富士見門(長屋門)
城内には8か所の門があったという。
現地説明板より
“(中略)…三の丸(現在の玉城中学校校庭付近)には冠門(御成門)と富士見門があった。御成門は三の丸御殿へ、富士見門は、三の丸から二の丸富士見台に向かう門であった。この富士見門(長屋門)は明治初年、宮古の乙部氏邸に移されたものを昭和59年3月、町がこれを譲り受け現在地に移築復元したものである。(後略)”
【写真左】三の丸跡
東側の箇所で、現在玉城中学校の校舎が建っている。
北畠親房(ちかふさ)
築城者は北畠親房といわれている。親房についてはこれまで断片的にとりあげているが、南北朝期後醍醐天皇の重臣として活躍した「三房」の一人である。ちなみに残りの二人は、吉田定房及び萬里小路(までのこうじ)宣房である。
【写真左】本丸虎口付近
この右側を上ると天守台がある。
北畠氏は村上源氏の流れを組む。後醍醐天皇は鎌倉幕府討幕を相当前から計画していたようで、正中2年(1325)他の諸族と同じく、帝は大胆な人事を行った。本来なら親房などは権大納言どまりであるが、大納言まで上りつめている。
しかし、元徳2年(1330)、世良親王が病によって19歳で夭逝、養君として仕えていた親房は髪をおろし出家した。この後しばらく親房の活動は目立ったものはない。しかし、建武の政権が成立すると親房は長子・顕家とともに奥州に下り、奥羽経営に当たった。親房は後醍醐天皇を支えた一人ではあったが、基本的に帝に対しては批判的な面も持っていた。このことは、子である顕家も同じであった。
【写真左】本丸と天守台
手前の本丸の北側には天守台の石垣が見える。
延元元年(建武3年:1336)5月25日、兵庫湊川にて新田義貞救援のため下向した楠木正成は、足利尊氏と激闘の末敗れ自刃した。後醍醐天皇はこのため、再び叡山に逃れた。石清水八幡宮に陣した尊氏の下には、持明院統の花園・光厳上皇及び、豊仁(ゆたひと)親王が赴いた。ここに天皇家は分裂、事実上の南北朝時代が始まることになる。
10月、尊氏は叡山の後醍醐天皇に使者を送り、両統迭立を条件に京への帰還を申入れした。尊氏は、このとき「新田義貞の讒言によって勅勘(ちょくかん:天皇の咎め)を蒙ったまでで、義貞を滅ぼし讒言を晴らそうとしたまでである」
とその正当性を主張したという。後醍醐天皇が尊氏のこうした考えを聞き入れたかどうかはっきりしないものの、叡山から下山し帰京するという情報をきいた新田義貞は、当然ながら激怒した。
【写真左】天守台
奥行15m×幅10m前後の規模で、周囲には高さ1.5m前後の石積みが囲む。
尊氏からの帰京依頼を受け入れた後醍醐天皇ではあったが、その先に展望が開けないことを予想し、皇太子の恒良親王に譲位し、この新帝を義貞に預け越前に下向させ、宗良親王と北畠親房を伊勢に、中院定平を河内に派遣させ、さらには九州へ懐良親王を下して(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山)参照)、事前の態勢を整えた。田丸城はこのとき築城されている。
果たせるかな、帝の帰京後まっていたのは、花山院での幽閉であった。さらには直義の指示によって神器を取り上げられ、11月2日新帝への神器授受の儀式が行われた。
【写真左】二の丸
本丸の南側には二の丸が控える。
規模はかなり広い。
【写真左】吉野金峯山寺蔵王堂
所在地 奈良県吉野郡吉野町吉野山
吉野には後醍醐天皇陵や、吉野朝宮跡がある。
同年12月21日、後醍醐は京を脱出、吉野に逃れた。その計画は当時伊勢にあった親房が立てたものといわれている。南朝の本拠は吉野であるが、この吉野を中心に北西には楠木勢が河内・和泉・堺へと支配を伸ばし、瀬戸内にも続く。また東へは伊賀・伊勢へと繋がる。親房が吉野という天然の要害を持つ場所を選んだのも、その後の南北朝争乱をある程度予想していたのかもしれない。
【写真左】二の丸虎口付近
田丸城の南端部に当たる位置で、この坂を下ると、三の丸(中学校)へ繋がる。
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●所在地 三重県度会郡玉城町田丸
●築城期 延元元年(1336)
●築城者 北畠親房
●城主 田丸直昌・愛州忠行・久野氏など
●形態 平山城
●別名 玉丸城
●指定 三重県指定史跡
●登城日 2012年4月17日
◆解説
今稿でとりあげる城砦は、西国(地方)の山城ではなく、畿内・伊勢(三重県)に所在する城砦・田丸城を取り上げる。
【写真左】田丸城
西側から見たもの。
戦国時代、織田信長の次男信雄のときに行われた大改造が、現在残っている田丸城の姿で、当時は、北の丸・二の丸・三の丸をおき、本丸には天守閣が建っていたというから、父が築いた安土城と同じく近世城郭としての様式が備わっていたものと考えられる。
現地の説明板より
“三重県指定 史跡 田丸城跡
指定年月日 昭和28年5月7日
史跡の総面積 166,000㎡
沿革
田丸城は、南北朝動乱期の延元元年(1336)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が、愛洲氏や度会氏などの援助を得て、この玉丸山に城を築いて南朝方の拠点としたことが始まりとされる。
南朝方の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊に通じる道は、軍事・経済の面からも吉野朝廷にとっては、最重要路線であり、玉丸城は北朝・南朝の攻防の舞台となった。
現地の説明板に添付されたもので、少し文字が薄いため分かりずらいが、北側から「北の丸」「本丸(天守台)」「二の丸」が南北に配列されている。下方が北を示す。
西側は幅の狭い郭段が続き、切崖状の側面が多く、東側は現在中学校などの施設が建ち、当時の遺構は大分消滅している。
室町時代には、伊勢国司となり一志郡美杉村の多気に館を構えた北畠氏の支城として、伊勢志摩支配の拠点となっていた。天正3年(1575)、織田信長の次男で北畠氏を継いだ織田信雄が、田丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け、本丸には三層の天守閣を建て田丸城の誕生となった。天正8年には、この天守閣は炎上した。
江戸時代には紀州藩主徳川頼宣の家老久野宗成が田丸城主となり、久野家は代々城代を勤めた。城は明治2年(1869)に廃城となり、同4年には城内の建物は取り払われた。昭和3年(1928)、国有林となっていたこの城地の払い下げに際し、村山龍平の寄付により町有となり、その後残りの城地も町有化し、町民に開放された。
平成7年3月 玉城町”
【写真左】富士見門(長屋門)
城内には8か所の門があったという。
現地説明板より
“(中略)…三の丸(現在の玉城中学校校庭付近)には冠門(御成門)と富士見門があった。御成門は三の丸御殿へ、富士見門は、三の丸から二の丸富士見台に向かう門であった。この富士見門(長屋門)は明治初年、宮古の乙部氏邸に移されたものを昭和59年3月、町がこれを譲り受け現在地に移築復元したものである。(後略)”
【写真左】三の丸跡
東側の箇所で、現在玉城中学校の校舎が建っている。
北畠親房(ちかふさ)
築城者は北畠親房といわれている。親房についてはこれまで断片的にとりあげているが、南北朝期後醍醐天皇の重臣として活躍した「三房」の一人である。ちなみに残りの二人は、吉田定房及び萬里小路(までのこうじ)宣房である。
【写真左】本丸虎口付近
この右側を上ると天守台がある。
北畠氏は村上源氏の流れを組む。後醍醐天皇は鎌倉幕府討幕を相当前から計画していたようで、正中2年(1325)他の諸族と同じく、帝は大胆な人事を行った。本来なら親房などは権大納言どまりであるが、大納言まで上りつめている。
しかし、元徳2年(1330)、世良親王が病によって19歳で夭逝、養君として仕えていた親房は髪をおろし出家した。この後しばらく親房の活動は目立ったものはない。しかし、建武の政権が成立すると親房は長子・顕家とともに奥州に下り、奥羽経営に当たった。親房は後醍醐天皇を支えた一人ではあったが、基本的に帝に対しては批判的な面も持っていた。このことは、子である顕家も同じであった。
【写真左】本丸と天守台
手前の本丸の北側には天守台の石垣が見える。
延元元年(建武3年:1336)5月25日、兵庫湊川にて新田義貞救援のため下向した楠木正成は、足利尊氏と激闘の末敗れ自刃した。後醍醐天皇はこのため、再び叡山に逃れた。石清水八幡宮に陣した尊氏の下には、持明院統の花園・光厳上皇及び、豊仁(ゆたひと)親王が赴いた。ここに天皇家は分裂、事実上の南北朝時代が始まることになる。
10月、尊氏は叡山の後醍醐天皇に使者を送り、両統迭立を条件に京への帰還を申入れした。尊氏は、このとき「新田義貞の讒言によって勅勘(ちょくかん:天皇の咎め)を蒙ったまでで、義貞を滅ぼし讒言を晴らそうとしたまでである」
とその正当性を主張したという。後醍醐天皇が尊氏のこうした考えを聞き入れたかどうかはっきりしないものの、叡山から下山し帰京するという情報をきいた新田義貞は、当然ながら激怒した。
【写真左】天守台
奥行15m×幅10m前後の規模で、周囲には高さ1.5m前後の石積みが囲む。
尊氏からの帰京依頼を受け入れた後醍醐天皇ではあったが、その先に展望が開けないことを予想し、皇太子の恒良親王に譲位し、この新帝を義貞に預け越前に下向させ、宗良親王と北畠親房を伊勢に、中院定平を河内に派遣させ、さらには九州へ懐良親王を下して(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山)参照)、事前の態勢を整えた。田丸城はこのとき築城されている。
果たせるかな、帝の帰京後まっていたのは、花山院での幽閉であった。さらには直義の指示によって神器を取り上げられ、11月2日新帝への神器授受の儀式が行われた。
【写真左】二の丸
本丸の南側には二の丸が控える。
規模はかなり広い。
【写真左】吉野金峯山寺蔵王堂
所在地 奈良県吉野郡吉野町吉野山
吉野には後醍醐天皇陵や、吉野朝宮跡がある。
同年12月21日、後醍醐は京を脱出、吉野に逃れた。その計画は当時伊勢にあった親房が立てたものといわれている。南朝の本拠は吉野であるが、この吉野を中心に北西には楠木勢が河内・和泉・堺へと支配を伸ばし、瀬戸内にも続く。また東へは伊賀・伊勢へと繋がる。親房が吉野という天然の要害を持つ場所を選んだのも、その後の南北朝争乱をある程度予想していたのかもしれない。
【写真左】二の丸虎口付近
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