麻口城(あさぐちじょう)
●所在地 香川県三豊市高瀬町下麻
●別名 朝日山城
●高さ 標高238m
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 近藤出羽守長頼
●登城日 2012年3月20日
◆解説
香川県の西方三豊市(みとよし)高瀬町にある朝日山に築かれた山城で、現在「朝日山森林公園」という施設となっており、残念ながら明確な遺構はほとんど残っていない。
当城に関する記録はあまり残っていないが、現地の模擬天守風の資料館には、城主であった近藤出羽守のことが記されている。
【写真左】麻口城遠望・その1
撮影日 2017年12月24日
西南麓を走る県道23号線から見たもの。
【写真左】麻口城遠望・その2
朝日山はお椀をかぶせたような独立峰で、讃岐地方にはこうした山系が多い。
資料館の展示より
“武田五兵衛と岩瀬池
乙女の人柱という大きな犠牲での所産、勝間池は天文元年の大洪水による決壊以後は築かれず、百姓は苦しんだ。
それに代わる岩瀬池を築造したのは、上高瀬の郷士武田五兵衛である。
五兵衛は今の岩瀬池の地・阿魔谷をその最適地と考え、麻口城主近藤出羽守長頼に願い出た。その地は長頼の兄大西覚養ゆかりのものであったが、元亀3年(1572)、その許しを得た。
しかし、時は戦国の世、土佐長宗我部軍が讃岐に侵攻し、五兵衛も長頼に従い戦ったが敗れ、一族ことごとく討死した。
【写真左】朝日山森林公園案内図
公園が出来たのは昭和63年5月14日とのこと。園内には1,000本の桜が植えられ、キャンプ場・芝スキー・ウォーキングコースなどが設置されている。
頂部には模擬天守風の資料館と、伊勢朝日山本宮・大師堂なども建立されている。
五兵衛は岩瀬池築造の悲願を思い生き永らえ、戦乱治まるとその工事に着手した。
大変な難工事ではあったが、ひたすら神仏の加護を祈りつつ文禄元年(1592)、ついに完成した。
その後、寛永年間(1630年ごろ)西島八兵衛の改築、昭和初期の堤防かさ上げなどの大修築で堤長118m、水深18m、周囲6.3km、水掛上下勝間、上・下高瀬、新名の5ヶ村を潤す県有数の大池となり、さらに近年香川用水も導入によりその効用を増している。”
【写真左】公園内散歩道
麓から公園駐車場まで専用道路がつながり、そこからは歩いて登っていく。
近藤氏と大西氏
上記の史料は戦国末期の出来事のようだが、文中にある城主・近藤出羽守長頼は、阿波の白地城主・大西覚養(用)の弟となっている。
ところで、白地城の大西氏の祖は、実は近藤氏といわれている。
前稿の崇徳天皇 白峯陵(香川県坂出市青海町)で紹介した保元の乱(1156)の6年前、すなわち久安6年(1150)、阿波の白地城は近藤京帝が築城している。そしてこのとき築城者であった京帝は、名を近藤から「大西」と改姓している。(田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)参照)
【写真左】伊勢朝日山本宮
朝日山の頂部は規模が大きく、なだらかになっているため、前述したようにさまざまな建物が建っている。
このころの近藤氏や大西氏が時の中央政権とどのようにかかわっていたのか分からないが、讃岐国が瀬戸内海に面していることや、久安2年(1146)には平清盛がすでに安芸守に任命され、着々と西国を支配下に置き始めていることを考えると、このころ近藤氏なども平家の支配下に入っていた可能性が高い。
そして、戦国期に麻口城主として大西氏の祖である近藤氏の名が残っていることを考えると、当地(三豊)には同氏が相当前から在住していたことがうかがわれる。
【写真左】模擬天守風の資料館
無人だが自由に入ることができる。館内には地元の歴史を記録した手作り風の史料などが展示されている。
また、3階からは眼下に眺望が開ける。
また、麻口城から南南東へ2キロほど登ったところにある岩瀬池の地・阿魔谷が、大西覚養ゆかりの地とされていることを踏まえると、大西氏(近藤氏)は阿波の池田の白地という吉野川中流域から、西讃岐までを支配していたのではないかと考えられる。
【写真左】大麻山遠望
北東方向に見える山で、この山を右に進むと琴平山に繋がる。
近辺の城砦
この資料館にはこのほか当地周辺にあったという城砦についても、下段のように記されている。
“今から450年の昔、時は戦国の世、各地の豪族は自分の領地を守るため、きそって城を築いた。
これらは山城と呼ばれ、規模も小さいものが多く、高瀬町でも麻城・勝間城・爺神城・土井城など、三豊観音寺地区に40近くが伝えられている。
どれも守りやすい山の上にあり、数段の平坦地・石塁・土塁・空堀・のろし台跡、泉や水ため、城跡にかかわる地名や伝説などを持っている。
【写真左】麻城遠望
撮影日 2017年12月24日
麻口城の東方2,6キロの位置にある城砦で、戦国時代近藤出羽守国久の居城。
天正年間、土佐の長宗我部元親による讃岐侵攻において落城、国久も討死した。
いずれ当城についても改めて紹介したい。
朝日山の周辺にも、小城谷・ゴーロ(写真③)などの地名のほか、水ため状の石積み(水の手曲輪写真①竪堀状の地裂(写真②)などがあることから、麻口城跡と伝えられた。
【写真左】右側写真①「水の手曲輪」、左側上写真②「竪堀」、左側下写真③「ゴーロ」
資料館建設の事前に調査も行ったが残念ながら学術的にそれを明確化することはできなかった。
それにしても、山上からの眺望のすばらしいこと、南は麻・二の宮・勝間が眼下に、高瀬三豊・観音寺の村々は一望のうち、東には象頭・大麻の山からはるか阿讃の山々が、北の方にはかすかに瀬戸内大橋、岡山側の四ツ目トンネルも見える。
【写真左】天夢殿
この場所からは北方を中心として眺望が開ける。
戦国の武将でなくても、ここに城を築きたい情念がわく。この思いが今この資料館を一見名城丸亀城にもまがう城とした。いうならば夢の城・昭和の城である。
この館がいこい・ふれあい・祈りの場となり、のぞみ溢れる歓声が山いっぱいにこだますることを願わずにはいられない。”
●所在地 香川県三豊市高瀬町下麻
●別名 朝日山城
●高さ 標高238m
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 近藤出羽守長頼
●登城日 2012年3月20日
◆解説
香川県の西方三豊市(みとよし)高瀬町にある朝日山に築かれた山城で、現在「朝日山森林公園」という施設となっており、残念ながら明確な遺構はほとんど残っていない。
当城に関する記録はあまり残っていないが、現地の模擬天守風の資料館には、城主であった近藤出羽守のことが記されている。
【写真左】麻口城遠望・その1
撮影日 2017年12月24日
西南麓を走る県道23号線から見たもの。
【写真左】麻口城遠望・その2
朝日山はお椀をかぶせたような独立峰で、讃岐地方にはこうした山系が多い。
資料館の展示より
“武田五兵衛と岩瀬池
乙女の人柱という大きな犠牲での所産、勝間池は天文元年の大洪水による決壊以後は築かれず、百姓は苦しんだ。
それに代わる岩瀬池を築造したのは、上高瀬の郷士武田五兵衛である。
五兵衛は今の岩瀬池の地・阿魔谷をその最適地と考え、麻口城主近藤出羽守長頼に願い出た。その地は長頼の兄大西覚養ゆかりのものであったが、元亀3年(1572)、その許しを得た。
しかし、時は戦国の世、土佐長宗我部軍が讃岐に侵攻し、五兵衛も長頼に従い戦ったが敗れ、一族ことごとく討死した。
【写真左】朝日山森林公園案内図
公園が出来たのは昭和63年5月14日とのこと。園内には1,000本の桜が植えられ、キャンプ場・芝スキー・ウォーキングコースなどが設置されている。
頂部には模擬天守風の資料館と、伊勢朝日山本宮・大師堂なども建立されている。
五兵衛は岩瀬池築造の悲願を思い生き永らえ、戦乱治まるとその工事に着手した。
大変な難工事ではあったが、ひたすら神仏の加護を祈りつつ文禄元年(1592)、ついに完成した。
その後、寛永年間(1630年ごろ)西島八兵衛の改築、昭和初期の堤防かさ上げなどの大修築で堤長118m、水深18m、周囲6.3km、水掛上下勝間、上・下高瀬、新名の5ヶ村を潤す県有数の大池となり、さらに近年香川用水も導入によりその効用を増している。”
【写真左】公園内散歩道
麓から公園駐車場まで専用道路がつながり、そこからは歩いて登っていく。
近藤氏と大西氏
上記の史料は戦国末期の出来事のようだが、文中にある城主・近藤出羽守長頼は、阿波の白地城主・大西覚養(用)の弟となっている。
ところで、白地城の大西氏の祖は、実は近藤氏といわれている。
前稿の崇徳天皇 白峯陵(香川県坂出市青海町)で紹介した保元の乱(1156)の6年前、すなわち久安6年(1150)、阿波の白地城は近藤京帝が築城している。そしてこのとき築城者であった京帝は、名を近藤から「大西」と改姓している。(田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)参照)
【写真左】伊勢朝日山本宮
朝日山の頂部は規模が大きく、なだらかになっているため、前述したようにさまざまな建物が建っている。
このころの近藤氏や大西氏が時の中央政権とどのようにかかわっていたのか分からないが、讃岐国が瀬戸内海に面していることや、久安2年(1146)には平清盛がすでに安芸守に任命され、着々と西国を支配下に置き始めていることを考えると、このころ近藤氏なども平家の支配下に入っていた可能性が高い。
そして、戦国期に麻口城主として大西氏の祖である近藤氏の名が残っていることを考えると、当地(三豊)には同氏が相当前から在住していたことがうかがわれる。
【写真左】模擬天守風の資料館
無人だが自由に入ることができる。館内には地元の歴史を記録した手作り風の史料などが展示されている。
また、3階からは眼下に眺望が開ける。
また、麻口城から南南東へ2キロほど登ったところにある岩瀬池の地・阿魔谷が、大西覚養ゆかりの地とされていることを踏まえると、大西氏(近藤氏)は阿波の池田の白地という吉野川中流域から、西讃岐までを支配していたのではないかと考えられる。
【写真左】大麻山遠望
北東方向に見える山で、この山を右に進むと琴平山に繋がる。
近辺の城砦
この資料館にはこのほか当地周辺にあったという城砦についても、下段のように記されている。
“今から450年の昔、時は戦国の世、各地の豪族は自分の領地を守るため、きそって城を築いた。
これらは山城と呼ばれ、規模も小さいものが多く、高瀬町でも麻城・勝間城・爺神城・土井城など、三豊観音寺地区に40近くが伝えられている。
どれも守りやすい山の上にあり、数段の平坦地・石塁・土塁・空堀・のろし台跡、泉や水ため、城跡にかかわる地名や伝説などを持っている。
【写真左】麻城遠望
撮影日 2017年12月24日
麻口城の東方2,6キロの位置にある城砦で、戦国時代近藤出羽守国久の居城。
天正年間、土佐の長宗我部元親による讃岐侵攻において落城、国久も討死した。
いずれ当城についても改めて紹介したい。
朝日山の周辺にも、小城谷・ゴーロ(写真③)などの地名のほか、水ため状の石積み(水の手曲輪写真①竪堀状の地裂(写真②)などがあることから、麻口城跡と伝えられた。
【写真左】右側写真①「水の手曲輪」、左側上写真②「竪堀」、左側下写真③「ゴーロ」
資料館建設の事前に調査も行ったが残念ながら学術的にそれを明確化することはできなかった。
それにしても、山上からの眺望のすばらしいこと、南は麻・二の宮・勝間が眼下に、高瀬三豊・観音寺の村々は一望のうち、東には象頭・大麻の山からはるか阿讃の山々が、北の方にはかすかに瀬戸内大橋、岡山側の四ツ目トンネルも見える。
【写真左】天夢殿
この場所からは北方を中心として眺望が開ける。
戦国の武将でなくても、ここに城を築きたい情念がわく。この思いが今この資料館を一見名城丸亀城にもまがう城とした。いうならば夢の城・昭和の城である。
この館がいこい・ふれあい・祈りの場となり、のぞみ溢れる歓声が山いっぱいにこだますることを願わずにはいられない。”
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