神辺城(かんなべじょう)
●所在地 広島県福山市神辺町大字川北
●別名 黄葉山城・楓山城・麓城・道上ノ城
●築城期 建武2年(1335)
●築城者 朝山次郎左衛門景連
●城主 山名(犬橋)近江入道丈休(満泰)・杉原理興(山名)・杉原盛重・元盛・景盛・毛利元康・福島丹波守正澄・水野勝成等
●形態 連郭式山城
●遺構 郭・空堀・石垣・礎石・井戸等
●高さ 標高133m・比高115m
●登城日 2007年2月9日、及び2011年6月15日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
神辺城を最初に訪れたのは、2007年2月9日だが、このときは漠然と踏査しただけで、まともな写真も撮っておらず、今回(2011年6月15日)に改めて登城した。
【写真左】神辺城遠望
西麓の国道313線からみたもの。
神辺城は旧深安郡といわれた備後東端の神辺町に所在する。
築城期は建武2年(1335)、朝山景連が築いたとされる。
朝山景連については、以前取り上げた出雲国の旅伏山城(島根県出雲市美談町旅伏山)、姉山城・朝山氏(島根県出雲市朝山)でも少し触れたように、当初後醍醐天皇が隠岐から脱出し、船上山において挙兵した際、他の諸将と同じく馳せ参じた人物である。
しかし、建武新政後の動乱において、後に足利多尊氏に属し、建武元年(1334)5月尊氏によって、備後への出兵を命じられ、翌2年、備後国守護職に任じられ、当地神辺に当城を築くことになる。
【写真左】登城口付近
神辺城を含む黄葉山全体は、現在「吉野山公園」という施設となっており、市民の憩いの場としても親しまれているようだ。
写真は登城口付近で、手前が駐車場(10台程度か)となっている。
なお、この位置は神辺城の北東麓に位置し、この下には鬼門櫓跡などがある。
以下現地の説明板より
“神辺城
神辺城は「道上ノ城」とも呼ばれ、元弘の乱(南北朝争乱)で戦功を挙げた朝山景連が備後国守護職に任じられ、建武2年(1335)築城したと伝えられています。
以来、神辺城は備後国の守護職の居城として使われ、仁木義長・細川頼春・高師泰・上杉顕能・渋川義兼・山名時義らが守護となり、一時期を除いて山名氏の備後支配が続き、それぞれ守護代が居城しています。
戦国時代には、杉原理興・平賀隆宗・杉原盛重・藤井皓玄・毛利元康が、江戸時代には福島正澄(丹波)・水野勝成が入城し、この間幾度も改築が行われ、福島時代に完成を見ています。
元和5年(1619)の水野氏が福山城築城の際には、神辺城の櫓楼や門などが取り壊され移築されたといわれています。実に280数年もの間、神辺城は備後国の中心的役割を果たしてきた城です。
1998(平成10)年3月
神辺町観光協会”
【写真左】神辺城想像図
登城口付近に設置されているもので、おそらくこれは近世の様子を描いたものだろう。
山名氏
神辺城の歴史は説明板にもあるように長く、当然多くの城主が関わった城である。特に山名氏は160年もの間支配を続けて行くが、天文7年(1538)になると、それまで大内氏に近かった山名氏が出雲国の尼子氏とよしみを通じていくと、大内義隆が山手銀山城(広島県福山市山手町:H249/230m)の城主であった杉原理興に命じて、時の城主山名忠勝を降し、ここに山名氏の支配が終わることになる。
【写真左】堀切
登城口のすぐ近くにあるもので、岩の塊が多い個所であったため、施工には相当苦労したと思われる。
通称「毛抜堀」といわれている。
神辺城合戦と杉原(山名)理興
その後、攻略した杉原理興が神辺城主となるが、理興は山名氏の名跡を受け継ぎ、名を山名理興とした。理興がなぜ山名氏の名跡を受け継ぐことにしたのか、理由ははっきりしない。
【写真左】三番櫓付近から東麓を見る
登城コースとして一般的なのは、駐車場から南側を東に進み、先端部の三番櫓から順次西に向かって郭段を上る。
左側に見える道路は313号線。
しかし、のちの天文11年(1542)、大内義隆による尼子氏居城の出雲月山富田城攻めに失敗すると、再び尼子氏に属し、翌年の尼子氏による安芸国攻略にも参陣することになる。
尼子氏に寝返った山名(杉原)理興に対し、大内義隆は弘中隆兼・毛利元就に対し、神辺城を包囲させ、世に言う「神辺城合戦」が始まることになる。
天文16年になると、大内氏の神辺城攻めは本格的となり、翌17年、神辺城の北方3キロ余りのところにあった尼子方の宮次郎左衛門の拠る天神山城を落とし、さらに18年になると、大内方の平賀隆宗が神辺城の北方に秋丸砦を築いて、対峙すると理興は神辺城を捨てて、出雲尼子氏の富田城へ逃れた。
【写真左】二番櫓付近
御覧の通り山城探訪としては、最も悪い時期に訪れたため、雑草の繁茂で遺構がはっきりしない。
【写真左】乾櫓付近
この結果、神辺城は7年ぶりに大内氏の手に戻り、城番として重臣青景隆著に、また家臣吉原弥七を番手として派遣した。
杉原盛重
杉原理興はその後、弘治元年(1555)、大内義隆の死去によって、これを機に毛利元就に詫びを入れ許され、再び神辺城に戻ることになる。
理興はしかし、その2年後の弘治3年に没したため、時の銀山城主であった杉原盛重が継ぐことになる。理興には嗣子がなく、盛重は養子となっている。
杉原盛重についてはこれまで、鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町木梨)、安田要害山城(島根県安来市伯太町安田関要害山)、手間要害山(鳥取県西伯郡南部町寺内)、岸本要害(鳥取県西伯郡伯耆町岸本)、尾高城(鳥取県米子市尾高)、八橋城跡(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)などで度々登場しているので、詳細は省くが、その勇猛ぶりが特に吉川元春に認められ、晩年には伯耆国尾高城(泉山城)を本拠として活躍していく。
このため、神辺城には嫡男である元盛・景盛を置いたが、この兄弟は後に争いを行い、兄元盛を殺害した弟景盛が出雲国平田大林寺付近で自害することになる(大林寺(島根県出雲市平田町496-2)参照)。
江戸期に入ってからの流れは説明板の通り。
【写真左】二の丸付近
【写真左】本丸
牧草地かと思われるほどよく伸びた雑草。
現地に説明板があったので、転載しておく。
“神辺城跡
神辺平野を一望することができる場所に築かれた神辺城は、室町時代初めごろに築かれた山城で、山頂や尾根を削って平坦にした郭が約25カ所確認されています。
郭には建物や土塀が建てられ、城を守るために造られた石垣や空堀・井戸の跡も残っています。
山城は戦の時に立てこもる施設で、城主は日常は麓の平地に館を造って住んでいました。
現在の広島県立神辺高等学校のあたりは古屋と呼ばれ、城主の館を中心に武士の屋敷があったと考えられています。
以後、江戸時代のはじめまで約300年間にわたって、備後地方南部の拠点として威光を誇っていました。
神辺町観光協会”
【写真左】井戸跡
ほとんど埋まっている状態だが、近くに祠が祀られている。
【写真左】鬼門櫓付近から北方を見る
【写真左】北麓の公園から見上げる
下山途中に公園のような広場がある。この写真の上に神辺城の郭群がある。
●所在地 広島県福山市神辺町大字川北
●別名 黄葉山城・楓山城・麓城・道上ノ城
●築城期 建武2年(1335)
●築城者 朝山次郎左衛門景連
●城主 山名(犬橋)近江入道丈休(満泰)・杉原理興(山名)・杉原盛重・元盛・景盛・毛利元康・福島丹波守正澄・水野勝成等
●形態 連郭式山城
●遺構 郭・空堀・石垣・礎石・井戸等
●高さ 標高133m・比高115m
●登城日 2007年2月9日、及び2011年6月15日
◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
神辺城を最初に訪れたのは、2007年2月9日だが、このときは漠然と踏査しただけで、まともな写真も撮っておらず、今回(2011年6月15日)に改めて登城した。
【写真左】神辺城遠望
西麓の国道313線からみたもの。
神辺城は旧深安郡といわれた備後東端の神辺町に所在する。
築城期は建武2年(1335)、朝山景連が築いたとされる。
朝山景連については、以前取り上げた出雲国の旅伏山城(島根県出雲市美談町旅伏山)、姉山城・朝山氏(島根県出雲市朝山)でも少し触れたように、当初後醍醐天皇が隠岐から脱出し、船上山において挙兵した際、他の諸将と同じく馳せ参じた人物である。
しかし、建武新政後の動乱において、後に足利多尊氏に属し、建武元年(1334)5月尊氏によって、備後への出兵を命じられ、翌2年、備後国守護職に任じられ、当地神辺に当城を築くことになる。
【写真左】登城口付近
神辺城を含む黄葉山全体は、現在「吉野山公園」という施設となっており、市民の憩いの場としても親しまれているようだ。
写真は登城口付近で、手前が駐車場(10台程度か)となっている。
なお、この位置は神辺城の北東麓に位置し、この下には鬼門櫓跡などがある。
以下現地の説明板より
“神辺城
神辺城は「道上ノ城」とも呼ばれ、元弘の乱(南北朝争乱)で戦功を挙げた朝山景連が備後国守護職に任じられ、建武2年(1335)築城したと伝えられています。
以来、神辺城は備後国の守護職の居城として使われ、仁木義長・細川頼春・高師泰・上杉顕能・渋川義兼・山名時義らが守護となり、一時期を除いて山名氏の備後支配が続き、それぞれ守護代が居城しています。
戦国時代には、杉原理興・平賀隆宗・杉原盛重・藤井皓玄・毛利元康が、江戸時代には福島正澄(丹波)・水野勝成が入城し、この間幾度も改築が行われ、福島時代に完成を見ています。
元和5年(1619)の水野氏が福山城築城の際には、神辺城の櫓楼や門などが取り壊され移築されたといわれています。実に280数年もの間、神辺城は備後国の中心的役割を果たしてきた城です。
1998(平成10)年3月
神辺町観光協会”
【写真左】神辺城想像図
登城口付近に設置されているもので、おそらくこれは近世の様子を描いたものだろう。
山名氏
神辺城の歴史は説明板にもあるように長く、当然多くの城主が関わった城である。特に山名氏は160年もの間支配を続けて行くが、天文7年(1538)になると、それまで大内氏に近かった山名氏が出雲国の尼子氏とよしみを通じていくと、大内義隆が山手銀山城(広島県福山市山手町:H249/230m)の城主であった杉原理興に命じて、時の城主山名忠勝を降し、ここに山名氏の支配が終わることになる。
【写真左】堀切
登城口のすぐ近くにあるもので、岩の塊が多い個所であったため、施工には相当苦労したと思われる。
通称「毛抜堀」といわれている。
神辺城合戦と杉原(山名)理興
その後、攻略した杉原理興が神辺城主となるが、理興は山名氏の名跡を受け継ぎ、名を山名理興とした。理興がなぜ山名氏の名跡を受け継ぐことにしたのか、理由ははっきりしない。
【写真左】三番櫓付近から東麓を見る
登城コースとして一般的なのは、駐車場から南側を東に進み、先端部の三番櫓から順次西に向かって郭段を上る。
左側に見える道路は313号線。
しかし、のちの天文11年(1542)、大内義隆による尼子氏居城の出雲月山富田城攻めに失敗すると、再び尼子氏に属し、翌年の尼子氏による安芸国攻略にも参陣することになる。
尼子氏に寝返った山名(杉原)理興に対し、大内義隆は弘中隆兼・毛利元就に対し、神辺城を包囲させ、世に言う「神辺城合戦」が始まることになる。
天文16年になると、大内氏の神辺城攻めは本格的となり、翌17年、神辺城の北方3キロ余りのところにあった尼子方の宮次郎左衛門の拠る天神山城を落とし、さらに18年になると、大内方の平賀隆宗が神辺城の北方に秋丸砦を築いて、対峙すると理興は神辺城を捨てて、出雲尼子氏の富田城へ逃れた。
【写真左】二番櫓付近
御覧の通り山城探訪としては、最も悪い時期に訪れたため、雑草の繁茂で遺構がはっきりしない。
【写真左】乾櫓付近
この結果、神辺城は7年ぶりに大内氏の手に戻り、城番として重臣青景隆著に、また家臣吉原弥七を番手として派遣した。
杉原盛重
杉原理興はその後、弘治元年(1555)、大内義隆の死去によって、これを機に毛利元就に詫びを入れ許され、再び神辺城に戻ることになる。
理興はしかし、その2年後の弘治3年に没したため、時の銀山城主であった杉原盛重が継ぐことになる。理興には嗣子がなく、盛重は養子となっている。
杉原盛重についてはこれまで、鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町木梨)、安田要害山城(島根県安来市伯太町安田関要害山)、手間要害山(鳥取県西伯郡南部町寺内)、岸本要害(鳥取県西伯郡伯耆町岸本)、尾高城(鳥取県米子市尾高)、八橋城跡(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)などで度々登場しているので、詳細は省くが、その勇猛ぶりが特に吉川元春に認められ、晩年には伯耆国尾高城(泉山城)を本拠として活躍していく。
このため、神辺城には嫡男である元盛・景盛を置いたが、この兄弟は後に争いを行い、兄元盛を殺害した弟景盛が出雲国平田大林寺付近で自害することになる(大林寺(島根県出雲市平田町496-2)参照)。
江戸期に入ってからの流れは説明板の通り。
【写真左】二の丸付近
【写真左】本丸
牧草地かと思われるほどよく伸びた雑草。
現地に説明板があったので、転載しておく。
“神辺城跡
神辺平野を一望することができる場所に築かれた神辺城は、室町時代初めごろに築かれた山城で、山頂や尾根を削って平坦にした郭が約25カ所確認されています。
郭には建物や土塀が建てられ、城を守るために造られた石垣や空堀・井戸の跡も残っています。
山城は戦の時に立てこもる施設で、城主は日常は麓の平地に館を造って住んでいました。
現在の広島県立神辺高等学校のあたりは古屋と呼ばれ、城主の館を中心に武士の屋敷があったと考えられています。
以後、江戸時代のはじめまで約300年間にわたって、備後地方南部の拠点として威光を誇っていました。
神辺町観光協会”
【写真左】井戸跡
ほとんど埋まっている状態だが、近くに祠が祀られている。
【写真左】鬼門櫓付近から北方を見る
【写真左】北麓の公園から見上げる
下山途中に公園のような広場がある。この写真の上に神辺城の郭群がある。
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