余崎城(よざきじょう)
●所在地 広島県尾道市向島町立花(城山)●築城期 弘治2年(1556)ごろ
●築城者 村上吉充
●城主 村上氏・鳥居次郎資長
●形態 水軍城
●高さ 56m
●遺構 石垣・郭・水路
●登城日 2011年2月16日
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」)
余崎城は、旧御調郡(現尾道市)因島の南端部に突き出た観音崎の半島に築かれた海賊城で、村上吉充が居城したといわれている。
【写真左】余崎城遠望
北西側から見たもので、元々は島であった可能性が高い。
写真左側の高い方が本丸で、右側が二の丸といわれている。
村上吉充
『芸藩通志』によれば、弘治元年(1555)の厳島合戦の論功行賞で向島を得た村上吉充が、この余崎城を本城とし、向島を活動拠点として、瀬戸内海・燧灘(ひうちなだ)一帯を制圧するために築いたものとされている。
なお、吉充はこの外にも三原城(広島県三原市館町・城町・本町)でも紹介した「石山本願寺籠城戦」における「第1次木津川河口の戦い」で、救援に駆け付けた毛利水軍(村上水軍)でも活躍し、兵糧米を石山本願寺に運び込んだ。
余崎城に拠った村上氏であったが、当城に在城した期間は短く、永禄10年(1567)には後の本貫地となった因島の青木に城を築き移った。余崎城には、村上氏の部将宮地大炊助明光の次男鳥居次郎資長が在城したといわれる。
【写真左】北麓部に見えた石垣
当時のものかどうか不明だが、大分崩れている。
【写真左】東麓部の道
南側の二の丸から更に先端部にかけては、以前レジャー施設のようなものがあったらしく、この道はそのために造られた道と思われる。
なお、北麓部には駐車場がないため、一軒の民家の方が経営している駐車場があり、そこにとめて歩いて行く。
この写真では右側はすでに本丸の東斜面に当たるが、登坂できる道はない。このため、更に先を歩いていく。
【写真左】二の丸の南麓部
途中で本丸に行けそうな別荘跡があったが、傾斜もきつく、踏み跡もないため、断念し、南端部近くまで足をのばした。
この辺りに朽ち果てたレジャー施設があったが、それを横に見ながら、ここで西麓に向かう道へと進んだ。
写真はその個所で、この右側をよじ登れば二の丸にたどり着くが、全く道がない。
【写真左】二の丸と本丸中間点の西麓
西麓部の道は山道程度の狭いもので、歩きながら常に右に登り道があるか、探していたが見つからなかった。
余崎城の標高は50m余のものだが、こうした天険の要害が随所に見られる。
【写真左】竪堀か
西麓部は特に険しい面が多いため、あえて竪堀のようなものは必要なかったと思われるが、途中でこのような竪堀状の個所が見える。
【写真左】二の丸西端部にある寺院
結局余崎城周りを一周しただけで、本丸にたどり着けなかった。
写真は西側の海岸部に見えた小さい寺院で、第38番蹉跎山金剛福寺。
【写真左】高見山
余崎城西麓から北に見える山で、標高283m。当時見張り台があったところといわれている。
【写真左】前掲の寺院から二の丸を遠望する。
◎関連投稿
因島・青陰山城(広島県尾道市因島中庄町)
●築城者 村上吉充
●城主 村上氏・鳥居次郎資長
●形態 水軍城
●高さ 56m
●遺構 石垣・郭・水路
●登城日 2011年2月16日
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」)
余崎城は、旧御調郡(現尾道市)因島の南端部に突き出た観音崎の半島に築かれた海賊城で、村上吉充が居城したといわれている。
【写真左】余崎城遠望
北西側から見たもので、元々は島であった可能性が高い。
写真左側の高い方が本丸で、右側が二の丸といわれている。
村上吉充
『芸藩通志』によれば、弘治元年(1555)の厳島合戦の論功行賞で向島を得た村上吉充が、この余崎城を本城とし、向島を活動拠点として、瀬戸内海・燧灘(ひうちなだ)一帯を制圧するために築いたものとされている。
なお、吉充はこの外にも三原城(広島県三原市館町・城町・本町)でも紹介した「石山本願寺籠城戦」における「第1次木津川河口の戦い」で、救援に駆け付けた毛利水軍(村上水軍)でも活躍し、兵糧米を石山本願寺に運び込んだ。
余崎城に拠った村上氏であったが、当城に在城した期間は短く、永禄10年(1567)には後の本貫地となった因島の青木に城を築き移った。余崎城には、村上氏の部将宮地大炊助明光の次男鳥居次郎資長が在城したといわれる。
【写真左】北麓部に見えた石垣
当時のものかどうか不明だが、大分崩れている。
【写真左】東麓部の道
南側の二の丸から更に先端部にかけては、以前レジャー施設のようなものがあったらしく、この道はそのために造られた道と思われる。
なお、北麓部には駐車場がないため、一軒の民家の方が経営している駐車場があり、そこにとめて歩いて行く。
この写真では右側はすでに本丸の東斜面に当たるが、登坂できる道はない。このため、更に先を歩いていく。
【写真左】二の丸の南麓部
途中で本丸に行けそうな別荘跡があったが、傾斜もきつく、踏み跡もないため、断念し、南端部近くまで足をのばした。
この辺りに朽ち果てたレジャー施設があったが、それを横に見ながら、ここで西麓に向かう道へと進んだ。
写真はその個所で、この右側をよじ登れば二の丸にたどり着くが、全く道がない。
【写真左】二の丸と本丸中間点の西麓
西麓部の道は山道程度の狭いもので、歩きながら常に右に登り道があるか、探していたが見つからなかった。
余崎城の標高は50m余のものだが、こうした天険の要害が随所に見られる。
【写真左】竪堀か
西麓部は特に険しい面が多いため、あえて竪堀のようなものは必要なかったと思われるが、途中でこのような竪堀状の個所が見える。
【写真左】二の丸西端部にある寺院
結局余崎城周りを一周しただけで、本丸にたどり着けなかった。
写真は西側の海岸部に見えた小さい寺院で、第38番蹉跎山金剛福寺。
【写真左】高見山
余崎城西麓から北に見える山で、標高283m。当時見張り台があったところといわれている。
【写真左】前掲の寺院から二の丸を遠望する。
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