2011年7月29日金曜日

萩原山城(広島県三次市三良坂町湯谷)

萩原山城(はぎわらやまじょう)

●所在地 広島県三次市三良坂町湯谷
●築城期 戦国時代
●築城者 湯谷又八郎久豊(柚谷新三郎元家)
●遺構(当時) 郭・空堀・竪堀・土塁・井戸等
●高さ 標高380m/比高150m
●登城日 2011年7月27日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
萩原山城は、前稿「三良坂・横山城」でも述べたように、和智誠春の弟・湯谷又八郎久豊が築いた城である。
【写真左】萩原山城遠望
 灰塚ダムによってできたダム湖「ハイヅカ湖」中流部に残っている。
 写真の左にみえる橋の後背の山が萩原山城。

記録によれば、当時萩原山城は、横山城よりも規模が大きく、城域は450m×100mの規模を持ち、本丸は3個所の郭から構成され、その一つは70m×40mで北側に土塁を設けていたという。

また、その外側には井戸のある郭をおき、西に少し下がって40m×40mの郭を付設していた。

二の丸は、本丸との間に空堀を設け、上下2段の小郭からなり、三の丸は40m×25mの規模で、東側に土塁を設けて、二の丸との間には空堀によって隔てていた。また、さらに下方には三の丸が小規模の郭を構成していたという。

以上が当時の萩原山城の状況だったと記されているが、添付写真でも理解できるように、横山城以上にダム建設によって、大幅に遺構が消失している。

以下、写真によって概説しておきたい。
【写真左】萩原山城遠望
 ダムができる前の写真を見ると、橋の下に数軒の集落があり、橋と平行する道路が走っていた。
 写真に見える橋(道路)の位置は、おそらく下段の三の丸があったところと思われ、さらにその上に二の丸があったと思われるが、現状では登城(登山)できそうな緩斜面が見つからない。



【写真左】萩原山城南端部
 橋を渡した位置はおそらく三の丸付近あたりだったと思われるが、その付近は写真のように道路を敷設するため大きく開削され、消失したと思われる。
【写真左】橋の方から見る
 写真左の高くなったところが最高所で、おそらくここに本丸があったものと思われる。
 また、それより右に下がり少し窪んだ辺りが二の丸だったと思われる。
 三の丸は上掲したように、この道路面と思われる。
【写真左】本丸付近を遠望する
 御覧のようにこの西側斜面も険しい部分が大半で、登れそうな場所はない。
【写真左】西麓部
 橋の真下に見える谷で、ダムができる前はおそらく数軒の家があったものと思われる。
 現在湿地帯になっており、植物園のようなものがある。

 右の山が萩原山城。



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