金ヶ崎城(かながさきじょう)
●所在地 福井県敦賀市金ヶ崎町
●築城期 治承年間(1177~80)
●築城者 平通盛
●城主 気比氏治・新田義貞・越前甲斐氏等
●高さ 標高86m
●遺構 郭・堀切等
●指定 国指定史跡(昭和9年)
●登城日 2011年4月7日
◆解説
今稿は前稿「備中・福山城」から一気に越前(福井県)に飛んで、「金ヶ崎城」を取り上げることにする。
【写真左】金ヶ崎城遠望
南側の敦賀港からみたもの。左の海は敦賀湾。
金ヶ崎城の所在地は、福井県であるので、当然「西国」の山城ではないが、前稿「備中・福山城」で述べたように、南北朝期宮方軍であった新田義貞が、福山城の大敗の報を聞き、その後追われるようにして越前に入り、最期は当城で嫡子・義顕や尊良親王などの命が奪われたところである。
現地の説明板より
“金ヶ崎城跡(昭和9年3月13日、国の史跡に指定)
金ヶ崎城は「太平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地であったことがわかる。
南北朝時代の延元元年(1336)10月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が、尊良(たかよし)親王・恒良(つねよし)親王を奉じて、当時気比氏治の居城であったここ金ヶ崎城に入城、約半年間足利勢と戦い、翌2年3月6日遂に落城、尊良親王、新田義顕(義貞嫡子)以下将士300余名が亡くなったと伝えられる。
【写真左】金ヶ崎城の南麓部
当城は「金ヶ崎(天筒山)公園」という施設になっており、毎年春になると、桜が満開となる。
この日訪れたときは、その準備中で、南麓部の駐車場にもこうしたテントなどが設置されていた。
戦国時代の元亀元年(1570)4月には、織田信長が朝倉義景討伐の軍を起こして、徳川家康・木下藤吉郎(豊臣秀吉)等が敦賀に進軍、天筒城、金ヶ崎城を落とし、越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏が朝倉氏に味方するとの報告、信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟まれ窮地に陥り、急遽総退却、この時、金ヶ崎城に残り殿(しんがり)を務めてこの難関を救ったのが秀吉で、その活躍で無事帰京できたと伝えられる。
また、この殿での危機を救ったのは家康で、後の天正14年(1586)、家康上洛にあたり、秀吉は金ヶ崎での戦いの救援に謝意を表したとされている。
【写真左】金ヶ崎(天筒山)公園案内図
後で知ったのだが、金ヶ崎城から峰伝いに東に向かうと天筒山という山があるが、この山も山城である。
すでに15,6年前のことで、天下人に一歩近づいた秀吉からすると、金ヶ崎の戦いは、その後の二人の関係に大きな影響を与えたといえる。
現在は三つの城戸跡などを残し、急峻な斜面は当時の面影をしのばせる。また、最高地(86m)を月見御殿といい、近くには金ヶ崎古城跡の碑があり、この辺り一帯の平地が本丸の跡といわれる。
ここからの眺めは素晴らしく、天候がよければ越前海岸まで望むことができる。
中腹には金崎宮が創建されていて、毎年境内の桜が咲くころ、桜の小枝を交換して幸福を願う全国的にもめずらしい「花換祭」が開催されている。”
【写真左】登城路
この階段を上っていくと、最初に「金崎宮」という社がある。金ヶ崎城の主要な遺構はその宮を過ぎた地点にあるが、おそらく当時はこの階段部分も城域だったのだろう。
新田義貞
新田義貞についてはこれまで、感状山城(兵庫県相生市矢野町)・三石城(岡山県備前市三石)・大別当城(岡山県勝田郡奈義町高円)、そして前稿備中・福山城(岡山県総社市清音三因)で取り上げてきているが、改めて彼の主だった動きについて整理してみたい。
新田義貞は上野国新田荘を本拠とする源氏の一族で、源義家の子・義国から出ている。足利尊氏とよく比較されるが、尊氏も同じ源氏の流れであるものの、鎌倉時代になると、新田氏は足利氏より家格が低くみられ、しかも執権であった北条氏とも相性が悪く、そのため不遇な時期を過ごしていた。当然、足利氏に対するライバル意識は相当なものがあったという。
【写真左】金崎宮
階段を上がると正面に金崎宮があり、境内右には朝倉神社、左には絹掛神社(下段参照)が祀られてい。
金ヶ崎城へは、写真の左方向向かう。
足利尊氏が後に後醍醐天皇から離れ、新田義貞が後醍醐天皇についていった理由の一つと考えられるのは、当初からそうした経緯があったためだろうともいわれている。
さて、新田義貞の戦歴を見ると、余り華々しいものは残しておらず、むしろ「敗将」のイメージが強い。
特に、「感状山城」の稿でも記したように、延元元年・建武3年(1336)、尊氏討伐軍6万を播磨の赤松氏が拠る白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)において、1ヶ月も費やし、このことが後に尊氏軍の勢力回復のきっかけをつくったといわれている。
【写真左】絹掛神社
現地の縁起より
“摂社 絹掛神社の由来
延元2年(1337)3月6日、金ヶ崎城の落城の際、尊良親王に殉じて総大将新田義顕以下321名の武士が自刃した。
祭神はその人たちである。氏名の判明する者僅かに10数名。大半の人は近畿・中国・四国地方の出身であり、敦賀を中心とする北陸各地からの無名戦士も少なくはない。
籠城5カ月糧食全く尽き果てて、なお数十倍の賊軍に立ち向かった壮烈な敢闘精神は、日本武士道の華と謳われた。”
いわゆる状況判断が希薄で、同じ宮方軍であった楠木正成からも信頼を得られず、しかも正成は、新田義貞の救援のために向かった湊川で最期を遂げることになる。北畠親房にいたっては、「させることなくして、空しくなりぬ」と述べ、『太平記』では、義貞の最期を「犬死」とまで評している。
【写真左】金ヶ崎城の石碑
絹掛神社を通り過ぎると、金ヶ崎城の石碑が見え、そのあと「花換の小道」という看板があるが、ここから城域に入っていく。
もっとも当時の宮方軍には有能な武将が少なく、仮にいてももそれをうまく差配する後醍醐天皇の才覚が乏しく、結果、帝(後醍醐)の下に馳せ参じるものが少なくなり、義貞に過剰な負担がのしかかってきたことも事実であった。
金ヶ崎城の戦い
延元元年(1336)5月25日、兵庫湊川で楠木正成が討死したとき、義貞は辛くも逃れ帰洛した。後醍醐天皇は再び比叡山に逃れる。当然、尊氏・直義軍は義貞を討つべく大軍を率いて京都へ入った。
後醍醐と分かれた義貞が向かったのは、越前の金ヶ崎城である。途中で越前守護斯波高経の軍が攻め立て、道を変更して木の芽峠を越えようとしたが、猛烈な吹雪にあい、凍死したものが多数出たという。
【写真左】「尊良親王御墓所見込地」
金ヶ崎城に入ってしばらくすると、尊良親王が亡くなった場所とされる墓所見込地というところがある。
現地にある説明板によると、最初に発見されたのは安政年間(江戸時代末期)で、この付近で石室から銅製の経筒・円鏡・椀などが出土した。
その後、明治になってこの地を当該墓所とし、「墓所見込地」の碑が建てられたという。
尊良親王の自刃場所として写真のように整備されている。
こうしてたどり着いたものの、尊氏軍であった高師泰らの軍勢(※)に攻められ約3ヶ月の攻防の末、説明板にもあるように、尊良親王・新田義顕は自刃、義貞はなんとか脱出し、杣山(そまやま)城(南越前町阿久和)へ逃げ込んだ。恒良親王も杣山城へ向かっていたが、途中で尊氏軍に捕らえられた。
杣山城に逃げ込んだ義貞はその後、延元3年(1338)越前の国府を奪還、北に進んで斯波高経の拠る黒丸城(福井市高屋町)を攻撃した。一時義貞の勢いが高まったが、藤島城(越前・藤島城・超勝寺(福井県福井市藤島町)参照)をわずか50名の手勢で攻め入ったとき、水田の狭いあぜ道で敵の歩者部隊と遭遇し、矢傷を受け自害してしまった。
【写真左】「金ヶ崎古戦場」の碑
城域内に設置されたもので、この先には「月見御殿」(下段の写真参照)がある。
高師泰らの軍勢
ところで、金ヶ崎城の合戦において、出雲国からも武家方として参戦している一族がいる。
その一族とは、佐々布氏・佐々布要害山城(島根県松江市宍道町佐々布)その1、及び三刀屋尾崎城 その1(島根県雲南市三刀屋)でも記したように、三刀屋に本拠を持つ諏訪部信恵(扶重)らである。
このときの軍忠証人は、奉行であった佐々布七郎入道(塩冶高貞の侍大将の一人)となっている。
ちなみに、金ヶ崎城での戦いのあと、足利直義と高師直の不和、及び足利直冬の登場によって、大きく状況が変わり、正平5年・観応元年(1350)6月、高師泰は院宣によって直冬討伐のため石見国へ入った(三隅城・その2(島根県浜田市三隅町三隅)参照)。
【写真左】月見御殿から敦賀湾を望む
金ヶ崎城の北端部に当たり、南北朝期の本丸跡といわれている。
戦国期代にもこの場所で「月見」をしたといわれている。
写真の手すりの真下は断崖絶壁で、海抜86m。ほとんど垂直の切崖となっている。写真右は敦賀火力発電所、左に見える山並みは敦賀半島。
高師泰は結局石見国で大きな戦果を得ず、翌年1月には石見を離れることになるが、その理由の一つが、前年の11月におきた「観応の擾乱」によって、足利直義が高師直・師泰兄弟を討伐するため、翌正平6年(1351)1月14日、金ヶ崎城では師泰の軍に属していた諏訪部扶重にその任を命じたからである。
高師直・師泰は、結局諏訪部扶重には討ち取られなかったが、その年(正平6年)2月26日、摂津国において上杉能憲に討たれることになる。
【写真左】「三の木戸跡」付近
月見御殿から折り返し、東に延びる尾根伝いに歩くと、写真にみえる「三の木戸跡」がある。
説明板によると、地名は「水の手」といい、当時の用水場で付近から清水が湧き出ていたという。
【写真左】焼米石出土跡
この付近は戦国時代兵糧庫があったところで、織田信長と朝倉氏の合戦の際、落城したとき倉庫が焼け落ち、その焼米が後に出土したとある。
【写真左】堀切
「二の木戸跡」付近に残るもので、南北朝期の戦いではもっとも激戦のあったところという。
この堀切は南麓に向かって下がっているので、堀切というより巨大な竪堀といった方がいいかもしれない。
【写真左】「一の木戸跡」
一の木戸はさらに下がった位置にあるが、木戸とは「関門」のことで、写真に見えるように、掘割が付帯している。
敵が最初に攻めてくる場所であったことから、防御にはもっとも力を入れていた場所である。
なお、このままこの尾根を進むと、「天筒山城」に繋がるが、残念ながら当日は登城していない。
●所在地 福井県敦賀市金ヶ崎町
●築城期 治承年間(1177~80)
●築城者 平通盛
●城主 気比氏治・新田義貞・越前甲斐氏等
●高さ 標高86m
●遺構 郭・堀切等
●指定 国指定史跡(昭和9年)
●登城日 2011年4月7日
◆解説
今稿は前稿「備中・福山城」から一気に越前(福井県)に飛んで、「金ヶ崎城」を取り上げることにする。
【写真左】金ヶ崎城遠望
南側の敦賀港からみたもの。左の海は敦賀湾。
金ヶ崎城の所在地は、福井県であるので、当然「西国」の山城ではないが、前稿「備中・福山城」で述べたように、南北朝期宮方軍であった新田義貞が、福山城の大敗の報を聞き、その後追われるようにして越前に入り、最期は当城で嫡子・義顕や尊良親王などの命が奪われたところである。
現地の説明板より
“金ヶ崎城跡(昭和9年3月13日、国の史跡に指定)
金ヶ崎城は「太平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地であったことがわかる。
南北朝時代の延元元年(1336)10月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が、尊良(たかよし)親王・恒良(つねよし)親王を奉じて、当時気比氏治の居城であったここ金ヶ崎城に入城、約半年間足利勢と戦い、翌2年3月6日遂に落城、尊良親王、新田義顕(義貞嫡子)以下将士300余名が亡くなったと伝えられる。
【写真左】金ヶ崎城の南麓部
当城は「金ヶ崎(天筒山)公園」という施設になっており、毎年春になると、桜が満開となる。
この日訪れたときは、その準備中で、南麓部の駐車場にもこうしたテントなどが設置されていた。
戦国時代の元亀元年(1570)4月には、織田信長が朝倉義景討伐の軍を起こして、徳川家康・木下藤吉郎(豊臣秀吉)等が敦賀に進軍、天筒城、金ヶ崎城を落とし、越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏が朝倉氏に味方するとの報告、信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟まれ窮地に陥り、急遽総退却、この時、金ヶ崎城に残り殿(しんがり)を務めてこの難関を救ったのが秀吉で、その活躍で無事帰京できたと伝えられる。
また、この殿での危機を救ったのは家康で、後の天正14年(1586)、家康上洛にあたり、秀吉は金ヶ崎での戦いの救援に謝意を表したとされている。
【写真左】金ヶ崎(天筒山)公園案内図
後で知ったのだが、金ヶ崎城から峰伝いに東に向かうと天筒山という山があるが、この山も山城である。
すでに15,6年前のことで、天下人に一歩近づいた秀吉からすると、金ヶ崎の戦いは、その後の二人の関係に大きな影響を与えたといえる。
現在は三つの城戸跡などを残し、急峻な斜面は当時の面影をしのばせる。また、最高地(86m)を月見御殿といい、近くには金ヶ崎古城跡の碑があり、この辺り一帯の平地が本丸の跡といわれる。
ここからの眺めは素晴らしく、天候がよければ越前海岸まで望むことができる。
中腹には金崎宮が創建されていて、毎年境内の桜が咲くころ、桜の小枝を交換して幸福を願う全国的にもめずらしい「花換祭」が開催されている。”
【写真左】登城路
この階段を上っていくと、最初に「金崎宮」という社がある。金ヶ崎城の主要な遺構はその宮を過ぎた地点にあるが、おそらく当時はこの階段部分も城域だったのだろう。
新田義貞
新田義貞についてはこれまで、感状山城(兵庫県相生市矢野町)・三石城(岡山県備前市三石)・大別当城(岡山県勝田郡奈義町高円)、そして前稿備中・福山城(岡山県総社市清音三因)で取り上げてきているが、改めて彼の主だった動きについて整理してみたい。
新田義貞は上野国新田荘を本拠とする源氏の一族で、源義家の子・義国から出ている。足利尊氏とよく比較されるが、尊氏も同じ源氏の流れであるものの、鎌倉時代になると、新田氏は足利氏より家格が低くみられ、しかも執権であった北条氏とも相性が悪く、そのため不遇な時期を過ごしていた。当然、足利氏に対するライバル意識は相当なものがあったという。
【写真左】金崎宮
階段を上がると正面に金崎宮があり、境内右には朝倉神社、左には絹掛神社(下段参照)が祀られてい。
金ヶ崎城へは、写真の左方向向かう。
足利尊氏が後に後醍醐天皇から離れ、新田義貞が後醍醐天皇についていった理由の一つと考えられるのは、当初からそうした経緯があったためだろうともいわれている。
さて、新田義貞の戦歴を見ると、余り華々しいものは残しておらず、むしろ「敗将」のイメージが強い。
特に、「感状山城」の稿でも記したように、延元元年・建武3年(1336)、尊氏討伐軍6万を播磨の赤松氏が拠る白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)において、1ヶ月も費やし、このことが後に尊氏軍の勢力回復のきっかけをつくったといわれている。
【写真左】絹掛神社
現地の縁起より
“摂社 絹掛神社の由来
延元2年(1337)3月6日、金ヶ崎城の落城の際、尊良親王に殉じて総大将新田義顕以下321名の武士が自刃した。
祭神はその人たちである。氏名の判明する者僅かに10数名。大半の人は近畿・中国・四国地方の出身であり、敦賀を中心とする北陸各地からの無名戦士も少なくはない。
籠城5カ月糧食全く尽き果てて、なお数十倍の賊軍に立ち向かった壮烈な敢闘精神は、日本武士道の華と謳われた。”
いわゆる状況判断が希薄で、同じ宮方軍であった楠木正成からも信頼を得られず、しかも正成は、新田義貞の救援のために向かった湊川で最期を遂げることになる。北畠親房にいたっては、「させることなくして、空しくなりぬ」と述べ、『太平記』では、義貞の最期を「犬死」とまで評している。
【写真左】金ヶ崎城の石碑
絹掛神社を通り過ぎると、金ヶ崎城の石碑が見え、そのあと「花換の小道」という看板があるが、ここから城域に入っていく。
もっとも当時の宮方軍には有能な武将が少なく、仮にいてももそれをうまく差配する後醍醐天皇の才覚が乏しく、結果、帝(後醍醐)の下に馳せ参じるものが少なくなり、義貞に過剰な負担がのしかかってきたことも事実であった。
金ヶ崎城の戦い
延元元年(1336)5月25日、兵庫湊川で楠木正成が討死したとき、義貞は辛くも逃れ帰洛した。後醍醐天皇は再び比叡山に逃れる。当然、尊氏・直義軍は義貞を討つべく大軍を率いて京都へ入った。
後醍醐と分かれた義貞が向かったのは、越前の金ヶ崎城である。途中で越前守護斯波高経の軍が攻め立て、道を変更して木の芽峠を越えようとしたが、猛烈な吹雪にあい、凍死したものが多数出たという。
【写真左】「尊良親王御墓所見込地」
金ヶ崎城に入ってしばらくすると、尊良親王が亡くなった場所とされる墓所見込地というところがある。
現地にある説明板によると、最初に発見されたのは安政年間(江戸時代末期)で、この付近で石室から銅製の経筒・円鏡・椀などが出土した。
その後、明治になってこの地を当該墓所とし、「墓所見込地」の碑が建てられたという。
尊良親王の自刃場所として写真のように整備されている。
こうしてたどり着いたものの、尊氏軍であった高師泰らの軍勢(※)に攻められ約3ヶ月の攻防の末、説明板にもあるように、尊良親王・新田義顕は自刃、義貞はなんとか脱出し、杣山(そまやま)城(南越前町阿久和)へ逃げ込んだ。恒良親王も杣山城へ向かっていたが、途中で尊氏軍に捕らえられた。
杣山城に逃げ込んだ義貞はその後、延元3年(1338)越前の国府を奪還、北に進んで斯波高経の拠る黒丸城(福井市高屋町)を攻撃した。一時義貞の勢いが高まったが、藤島城(越前・藤島城・超勝寺(福井県福井市藤島町)参照)をわずか50名の手勢で攻め入ったとき、水田の狭いあぜ道で敵の歩者部隊と遭遇し、矢傷を受け自害してしまった。
【写真左】「金ヶ崎古戦場」の碑
城域内に設置されたもので、この先には「月見御殿」(下段の写真参照)がある。
高師泰らの軍勢
ところで、金ヶ崎城の合戦において、出雲国からも武家方として参戦している一族がいる。
その一族とは、佐々布氏・佐々布要害山城(島根県松江市宍道町佐々布)その1、及び三刀屋尾崎城 その1(島根県雲南市三刀屋)でも記したように、三刀屋に本拠を持つ諏訪部信恵(扶重)らである。
このときの軍忠証人は、奉行であった佐々布七郎入道(塩冶高貞の侍大将の一人)となっている。
ちなみに、金ヶ崎城での戦いのあと、足利直義と高師直の不和、及び足利直冬の登場によって、大きく状況が変わり、正平5年・観応元年(1350)6月、高師泰は院宣によって直冬討伐のため石見国へ入った(三隅城・その2(島根県浜田市三隅町三隅)参照)。
【写真左】月見御殿から敦賀湾を望む
金ヶ崎城の北端部に当たり、南北朝期の本丸跡といわれている。
戦国期代にもこの場所で「月見」をしたといわれている。
写真の手すりの真下は断崖絶壁で、海抜86m。ほとんど垂直の切崖となっている。写真右は敦賀火力発電所、左に見える山並みは敦賀半島。
高師泰は結局石見国で大きな戦果を得ず、翌年1月には石見を離れることになるが、その理由の一つが、前年の11月におきた「観応の擾乱」によって、足利直義が高師直・師泰兄弟を討伐するため、翌正平6年(1351)1月14日、金ヶ崎城では師泰の軍に属していた諏訪部扶重にその任を命じたからである。
高師直・師泰は、結局諏訪部扶重には討ち取られなかったが、その年(正平6年)2月26日、摂津国において上杉能憲に討たれることになる。
【写真左】「三の木戸跡」付近
月見御殿から折り返し、東に延びる尾根伝いに歩くと、写真にみえる「三の木戸跡」がある。
説明板によると、地名は「水の手」といい、当時の用水場で付近から清水が湧き出ていたという。
【写真左】焼米石出土跡
この付近は戦国時代兵糧庫があったところで、織田信長と朝倉氏の合戦の際、落城したとき倉庫が焼け落ち、その焼米が後に出土したとある。
【写真左】堀切
「二の木戸跡」付近に残るもので、南北朝期の戦いではもっとも激戦のあったところという。
この堀切は南麓に向かって下がっているので、堀切というより巨大な竪堀といった方がいいかもしれない。
【写真左】「一の木戸跡」
一の木戸はさらに下がった位置にあるが、木戸とは「関門」のことで、写真に見えるように、掘割が付帯している。
敵が最初に攻めてくる場所であったことから、防御にはもっとも力を入れていた場所である。
なお、このままこの尾根を進むと、「天筒山城」に繋がるが、残念ながら当日は登城していない。
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