若狭・国吉城(わかさ・くによしじょう)
●所在地 福井県三方郡美浜町佐柿
●高さ 標高197.3m
●築城期 弘治2年(1556)
●築城者 粟屋越中守勝久
●城主 木村常陸介定光・多賀越中守・酒井忠勝等
●遺構 郭・虎口・石垣・礎石建物・居館跡等
●備考 若狭国吉城歴史資料館
●探訪日 2011年4月7日
◆解説(参考文献「国吉城址と佐柿の町並み-450年の時を超えて-(美浜町教育委員会編)」等)
前稿「一乗谷朝倉氏遺跡・庭園」を探訪した後、当城麓にたどり着いた。
残念ながら着替えを持っていなかったことや、この日(4月7日)は帰宅する予定もあったため、時間がなく、登城はできなかったが、最近できたという麓にある「若狭国吉城歴史資料館」に充実した展示・史料があったので、これらを中心に紹介したいと思う。
【写真左】国吉城遠望
南西側からみたもの
国吉城は同名のものとしては、以前取り上げた備中国のものがある(「国吉城」2011年6月12日投稿)が、今稿は若狭国のもので、戦国期に築城された新しい山城である。
所在地は旧若狭国と旧越前国の境にあり、いわゆる「境目の城」として戦国期、前稿で取り上げた朝倉氏との戦いで城主・粟屋勝久が勇名をはせた。
国吉城の築城期は、戦国期の弘治2年(1556)、若狭国守護大名武田氏の重臣・粟屋(あわや)越中守勝久が古城跡を改修して築城したといわれている。
【写真左】若狭国吉城歴史資料館
旧佐柿町奉行所跡(御茶屋屋敷)に建っているもので、平成21年(2009)4月に開館している。
当館には、国吉城・佐柿の町などの歴史や、詳細な縄張図、歴代城主などが記した実物の「安堵状」なども展示されている。
ちなみに、粟屋勝久の嫡男・勝家は慶長19年(1614)9月、大坂夏の陣で病死しているが、その子・五右衛門勝長は、後に豊後国(大分)の臼杵粟屋氏の祖となった。
臼杵城(2010年3月7日投稿参照)は、江戸期に入ると稲葉氏が代々城主となるが、勝長は後に臼杵城主稲葉氏に仕え、以後代々家老職を務めて行く。
国吉籠城戦 粟屋勝久
若狭国守護大名武田氏は、粟屋勝久が国吉城を築城した2年後の永禄元年(1558)、同氏一族において内紛がおこり、当主信豊は近江に逃れ、嫡男義統が跡を継いだ。しかし、その義統に対し、粟屋勝久と高浜城主・逸見駿河守が謀叛を起こした。
越前朝倉氏が国吉城を攻めはじめるのは、永禄6年(1563)からである。攻め入った朝倉氏は一乗谷の朝倉氏ではなく、「金ヶ崎城」(7月4日投稿)で少し紹介した「天筒山城」の城主・朝倉太郎左衛門である。
「天筒山城」は金ヶ崎城の尾根筋に築城された山城であるが、国吉城とは直線距離で10キロ余りしか離れていない。そうしたこともあって、その後、永禄7年(1564)から永禄11年(1568)ごろまで毎年のように朝倉氏が攻め入っている。
そのたびに城主粟屋勝久は堅固な籠城戦で凌ぎ、元亀元年(1570)4月、織田信長が朝倉氏を攻め入る際、木下藤吉郎や徳川家康を伴い当城に入城。信長は、勝久が長年にわたって朝倉氏の攻防を防いできた武勲を称賛したという。
【写真上】国吉城散策絵図
この絵で見ると、麓から本丸跡までは約30分と書いていある。次回訪れる機会があったらぜひ登城してみたいものだ。
木村常陸介定光(重玆)
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣であった木村常陸介定光は、天正11年(1583)5月、若狭半国に封され、国吉城主となり、当城南西麓にあった小集落佐柿(さがき)を城下町として整備した。
この年は、秀吉が賤ヶ岳で柴田勝家を破り、4月24日勝家が北庄城で自害、同月加賀国をも含めた北陸を支配下に抑えた年でもある。
その翌年秀吉は、周辺の後瀬山城・高浜城を除いた若狭国内の主だった城砦を破却、明くる天正13年(1585)2月、元城主であった粟屋勝久が亡くなり、一時城主は堀尾吉晴(後の出雲国松江城主)や、江口三郎右衛門が城代となったりするが、再び木村定光が城主となる。
【写真左】城主館跡
資料館の後にあり、ここから登城口となっている。残念ながらこの場所さえ踏査していない。
ところで、この木村常陸介定光は、別名重茲(しげこれ)ともいい、天正18年(1590)ころより豊臣秀次の家老となっていくが、のちに秀次の事件で連座の罪を問われ、文禄4年(1595)7月15日、摂津茨木の大門寺にて自害することになる。
なお、管理人が興味深い武将の一人としている「木村重成」の父が、この木村定光(重茲)ともいわれているがはっきりしない。
その後の国吉城
慶長5年(1600)、若狭国領主となった京極高次は、佐柿の入口に関所を設け、さらに国吉城下を整備していった。
しかし、慶長9年(1604)大火に遭ったものの、再び復興したといわれる。ただ、他国と同じく慶長20年(1615)の一国一城令によって、廃城となる。
寛永11年(1634)、若狭国に入封した酒井忠勝は、佐柿町奉行所を置いた。
【写真左】本丸付近近影
麓から撮ったもので、最高所に本丸跡があり、そこから北西に延びる尾根伝いに2・3・4・5・6郭と続く。なお二の丸は西の尾根に築かれている。
【写真左】准藩士屋敷跡
現地の説明板より
“准藩士屋敷は、小浜藩預かりとなった水戸天狗党の残党を収容するため、慶応2年(1866)にこの地に新築されたもので、周囲の石垣が現存する。
尊王攘夷実現のため、常陸国筑波山で挙兵した水戸天狗党は、京都を目指したが、幕府軍の追撃を受けて越前国敦賀で降伏した。慶応元年(1865)、首領の武田耕雲斎以下353名は死罪となったが、遠島となった武田金次郎以下110名は、小浜藩に預けられて敦賀で謹慎し、翌年赦免された。小浜藩では彼らを准藩士格として扱い、佐柿に移した。慶応4年(1868)、朝廷より水戸帰藩を命ぜられ、佐柿を後にした。”
【写真左】徳賞寺
左が歴史資料館で、中央に見える寺が徳賞寺。なお、当院には粟屋勝久の墓と伝えられる墓石があるという。
●所在地 福井県三方郡美浜町佐柿
●高さ 標高197.3m
●築城期 弘治2年(1556)
●築城者 粟屋越中守勝久
●城主 木村常陸介定光・多賀越中守・酒井忠勝等
●遺構 郭・虎口・石垣・礎石建物・居館跡等
●備考 若狭国吉城歴史資料館
●探訪日 2011年4月7日
◆解説(参考文献「国吉城址と佐柿の町並み-450年の時を超えて-(美浜町教育委員会編)」等)
前稿「一乗谷朝倉氏遺跡・庭園」を探訪した後、当城麓にたどり着いた。
残念ながら着替えを持っていなかったことや、この日(4月7日)は帰宅する予定もあったため、時間がなく、登城はできなかったが、最近できたという麓にある「若狭国吉城歴史資料館」に充実した展示・史料があったので、これらを中心に紹介したいと思う。
【写真左】国吉城遠望
南西側からみたもの
国吉城は同名のものとしては、以前取り上げた備中国のものがある(「国吉城」2011年6月12日投稿)が、今稿は若狭国のもので、戦国期に築城された新しい山城である。
所在地は旧若狭国と旧越前国の境にあり、いわゆる「境目の城」として戦国期、前稿で取り上げた朝倉氏との戦いで城主・粟屋勝久が勇名をはせた。
国吉城の築城期は、戦国期の弘治2年(1556)、若狭国守護大名武田氏の重臣・粟屋(あわや)越中守勝久が古城跡を改修して築城したといわれている。
【写真左】若狭国吉城歴史資料館
旧佐柿町奉行所跡(御茶屋屋敷)に建っているもので、平成21年(2009)4月に開館している。
当館には、国吉城・佐柿の町などの歴史や、詳細な縄張図、歴代城主などが記した実物の「安堵状」なども展示されている。
ちなみに、粟屋勝久の嫡男・勝家は慶長19年(1614)9月、大坂夏の陣で病死しているが、その子・五右衛門勝長は、後に豊後国(大分)の臼杵粟屋氏の祖となった。
臼杵城(2010年3月7日投稿参照)は、江戸期に入ると稲葉氏が代々城主となるが、勝長は後に臼杵城主稲葉氏に仕え、以後代々家老職を務めて行く。
国吉籠城戦 粟屋勝久
若狭国守護大名武田氏は、粟屋勝久が国吉城を築城した2年後の永禄元年(1558)、同氏一族において内紛がおこり、当主信豊は近江に逃れ、嫡男義統が跡を継いだ。しかし、その義統に対し、粟屋勝久と高浜城主・逸見駿河守が謀叛を起こした。
越前朝倉氏が国吉城を攻めはじめるのは、永禄6年(1563)からである。攻め入った朝倉氏は一乗谷の朝倉氏ではなく、「金ヶ崎城」(7月4日投稿)で少し紹介した「天筒山城」の城主・朝倉太郎左衛門である。
「天筒山城」は金ヶ崎城の尾根筋に築城された山城であるが、国吉城とは直線距離で10キロ余りしか離れていない。そうしたこともあって、その後、永禄7年(1564)から永禄11年(1568)ごろまで毎年のように朝倉氏が攻め入っている。
そのたびに城主粟屋勝久は堅固な籠城戦で凌ぎ、元亀元年(1570)4月、織田信長が朝倉氏を攻め入る際、木下藤吉郎や徳川家康を伴い当城に入城。信長は、勝久が長年にわたって朝倉氏の攻防を防いできた武勲を称賛したという。
【写真上】国吉城散策絵図
この絵で見ると、麓から本丸跡までは約30分と書いていある。次回訪れる機会があったらぜひ登城してみたいものだ。
木村常陸介定光(重玆)
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣であった木村常陸介定光は、天正11年(1583)5月、若狭半国に封され、国吉城主となり、当城南西麓にあった小集落佐柿(さがき)を城下町として整備した。
この年は、秀吉が賤ヶ岳で柴田勝家を破り、4月24日勝家が北庄城で自害、同月加賀国をも含めた北陸を支配下に抑えた年でもある。
その翌年秀吉は、周辺の後瀬山城・高浜城を除いた若狭国内の主だった城砦を破却、明くる天正13年(1585)2月、元城主であった粟屋勝久が亡くなり、一時城主は堀尾吉晴(後の出雲国松江城主)や、江口三郎右衛門が城代となったりするが、再び木村定光が城主となる。
【写真左】城主館跡
資料館の後にあり、ここから登城口となっている。残念ながらこの場所さえ踏査していない。
ところで、この木村常陸介定光は、別名重茲(しげこれ)ともいい、天正18年(1590)ころより豊臣秀次の家老となっていくが、のちに秀次の事件で連座の罪を問われ、文禄4年(1595)7月15日、摂津茨木の大門寺にて自害することになる。
なお、管理人が興味深い武将の一人としている「木村重成」の父が、この木村定光(重茲)ともいわれているがはっきりしない。
その後の国吉城
慶長5年(1600)、若狭国領主となった京極高次は、佐柿の入口に関所を設け、さらに国吉城下を整備していった。
しかし、慶長9年(1604)大火に遭ったものの、再び復興したといわれる。ただ、他国と同じく慶長20年(1615)の一国一城令によって、廃城となる。
寛永11年(1634)、若狭国に入封した酒井忠勝は、佐柿町奉行所を置いた。
【写真左】本丸付近近影
麓から撮ったもので、最高所に本丸跡があり、そこから北西に延びる尾根伝いに2・3・4・5・6郭と続く。なお二の丸は西の尾根に築かれている。
【写真左】准藩士屋敷跡
現地の説明板より
“准藩士屋敷は、小浜藩預かりとなった水戸天狗党の残党を収容するため、慶応2年(1866)にこの地に新築されたもので、周囲の石垣が現存する。
尊王攘夷実現のため、常陸国筑波山で挙兵した水戸天狗党は、京都を目指したが、幕府軍の追撃を受けて越前国敦賀で降伏した。慶応元年(1865)、首領の武田耕雲斎以下353名は死罪となったが、遠島となった武田金次郎以下110名は、小浜藩に預けられて敦賀で謹慎し、翌年赦免された。小浜藩では彼らを准藩士格として扱い、佐柿に移した。慶応4年(1868)、朝廷より水戸帰藩を命ぜられ、佐柿を後にした。”
【写真左】徳賞寺
左が歴史資料館で、中央に見える寺が徳賞寺。なお、当院には粟屋勝久の墓と伝えられる墓石があるという。
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