丸山城(まるやまじょう)
●所在地 広島県尾道市御調町丸門田
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 上里丹後・上里周防・上里善九郎通職・民部助実・四郎三郎元実
●形態 丘城
●高さ 標高142m/比高40m
●遺構 郭・石垣
●登城日 2010年1月9日
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
尾道市の西部を流れる御調川の北岸に築かれた山城(丘城)で、近くには荻(東中倉)八幡神社がある。
【写真左】丸山城遠望
南西麓からみたもの
築城期・築城者は不明であるが、代々上里氏が当城の城主となっているようだ。最後の城主・上里四郎三郎元実は、天正18年(1590)に落城したとある(『御調郡誌』)。
ただ、この記録である天正18年は、ほぼ秀吉が天下を手中に治めている時期で、同年7月に小田原北条氏が滅び、中国地方でこうした戦が行われていたとは考えにくい。
【写真左】案内図
この案内図は「萩八幡神社」をメインにしたものだが、当社の下に丸山城の位置が図示されている。
下を流れるのは御調川。
【写真左】登城道
夕方の登城のため、少し薄暗く写真もピンボケ気味。
北側から東にかけて登る道が整備されている。
【写真左】腰郭
急坂な登城路を登っていくと、南端部あたりに写真にみえる腰郭らしき平坦地が現れる。
近世に造られたとおもわれる登城路が遺構をどの程度改変したのか不明だが、戦略的にはこの南端に突き出した位置にあるのは当然だろう。
【写真左】本丸下の郭
丸山城の本丸付近には、3段の郭が構築され、そのほか先ほどみた小規模な郭が配置されている。
【写真左】本丸下の郭から本丸を見る
全体に南北に長く郭群が構築され、幅は10m前後、全長は100m程度と思われる。
この写真の本丸との高低差は2,3m程度と高くはない。
【写真左】本丸に立つ祠
はっきりとは分からないが、地蔵菩薩のようなものが二体祀られている。
また付近には石碑が建立され、「金波羅華 釈迦の説法 霊鷲山 宇宙の真理 今此処に有り」と刻銘されたものがある。
【写真左】本丸から北方を見る
眺望はあまりよくないが、北麓には萩八幡神社がある。
【写真左】本丸から南の郭群を見る
◎関連投稿
尾関山城(広島県三次市三吉町)
雲雀城(広島県尾道市御調町市)
牛の皮城(広島県尾道市御調町大町)
●所在地 広島県尾道市御調町丸門田
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 上里丹後・上里周防・上里善九郎通職・民部助実・四郎三郎元実
●形態 丘城
●高さ 標高142m/比高40m
●遺構 郭・石垣
●登城日 2010年1月9日
◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
尾道市の西部を流れる御調川の北岸に築かれた山城(丘城)で、近くには荻(東中倉)八幡神社がある。
【写真左】丸山城遠望
南西麓からみたもの
築城期・築城者は不明であるが、代々上里氏が当城の城主となっているようだ。最後の城主・上里四郎三郎元実は、天正18年(1590)に落城したとある(『御調郡誌』)。
ただ、この記録である天正18年は、ほぼ秀吉が天下を手中に治めている時期で、同年7月に小田原北条氏が滅び、中国地方でこうした戦が行われていたとは考えにくい。
【写真左】案内図
この案内図は「萩八幡神社」をメインにしたものだが、当社の下に丸山城の位置が図示されている。
下を流れるのは御調川。
【写真左】登城道
夕方の登城のため、少し薄暗く写真もピンボケ気味。
北側から東にかけて登る道が整備されている。
【写真左】腰郭
急坂な登城路を登っていくと、南端部あたりに写真にみえる腰郭らしき平坦地が現れる。
近世に造られたとおもわれる登城路が遺構をどの程度改変したのか不明だが、戦略的にはこの南端に突き出した位置にあるのは当然だろう。
【写真左】本丸下の郭
丸山城の本丸付近には、3段の郭が構築され、そのほか先ほどみた小規模な郭が配置されている。
【写真左】本丸下の郭から本丸を見る
全体に南北に長く郭群が構築され、幅は10m前後、全長は100m程度と思われる。
この写真の本丸との高低差は2,3m程度と高くはない。
【写真左】本丸に立つ祠
はっきりとは分からないが、地蔵菩薩のようなものが二体祀られている。
また付近には石碑が建立され、「金波羅華 釈迦の説法 霊鷲山 宇宙の真理 今此処に有り」と刻銘されたものがある。
【写真左】本丸から北方を見る
眺望はあまりよくないが、北麓には萩八幡神社がある。
【写真左】本丸から南の郭群を見る
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