嶽城(たけじょう)
●所在地 島根県益田市匹見町澄川長尾原
●築城期 不明
●築城者 不明
●標高 177m
●遺構 郭、堀切、竪堀、横堀、土杭、柱穴、石列、その他
●備考 叶松城支城
●登城日 2010年4月2日
◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」その他)
嶽城は、前稿「広瀬城」のある位置よりさらに匹見川を5キロほど降った澄川長尾原という位置にある。
当城は、この位置より2キロさらに下り、匹見川の南岸に築城された叶松城の支城として使用されたという。
【写真上】案内図
嶽城近くに同図が設置されている。
この図では、「現在地」と書かれた場所から太い道路(488号線)沿いに向かって左に「嶽城」と書かれているが、当城に行くには、旧道(細い道)から回らないとたどり着けない。
元々この叶松城は、寿永年間(1182~85)ごろ、平教盛(のりもり)の一族盛広の築城とされ、その後、澄川秀行、その子俊長の二代が続いたが、敗れて都茂村金谷の地に堕ちていったという伝承が残る。
戦国期になると、寺戸和泉守資清が益田藤兼に従って数々の戦功を立て、500貫文の知行を与えられて、この叶松城の城主になったという。
寺戸氏
ところで、この寺戸氏については、前稿「広瀬城」で登場してきた寺戸惣右衛門もこの一族にあたると思われるが、同氏の出自については次のような記録が残る。
河野通紀(入道一徹:おそらく伊予の河野氏と思われる)が、安芸国山県郡寺領村・戸田に移住し(時期不明)、その後石見国に来住、三隅兼春に仕えて采地200貫文を受けた。三隅氏に仕えた時、彼は先住先だった寺領村・戸田の頭文字をとって、「寺戸」氏の祖となった。
【写真左】嶽城遠望その1
旧道に少し入った位置からみたもので、右側の道路が国道488号線。手前が旧道になる。右側の道路ができる前は東に稜線が伸びていたと思われ、遺構も残っていたかもしれない。
三隅兼春は、田屋城跡(島根県浜田市弥栄町木都賀)で紹介したように、現在の浜田市弥栄町木都賀にある別名木束城の城主である。また名将・三隅兼連がその父である。
従って、当然河野通紀(寺戸)は、南北朝期に石見宮方の一員として活躍したことになる。
前記した寺戸和泉守資清は、寺戸氏始祖から5代目に当たる。
永禄12年(1569)、資清が亡くなると、三隅氏と益田氏の抗争はさらに激しくなる。資清の嫡男・新右衛門は、益田尹兼の女と結ばれ、益田氏から仙道の三谷・井羅尾その他の土地を安堵されている(美都町史)。
【写真左】遠望その2
旧道を通って反対側の北側見たもの。
おそらく、右に見える道を造成する際も、右の斜面が繋がっていたものと思われる。
さて、嶽城については、写真にもあるように山城としては小規模なもので、これまでの遺構調査などからまとめられたものを見ると、当時の山城としての遺構は半壊状態という。
また、遺構の年代も縄文から近世に至る多くのものが残り、複合的な遺跡と考えられる。
城砦としての遺構は上掲の通りだが、発掘された遺物として、中世のものでいえば、短刀、青磁(15世紀)、白磁(16世紀)、施釉陶器(16世紀)、染付磁器(16世紀)等々、非常に生活感のある遺物が夥しく発掘されている。
【写真左】嶽城の上り道
登城路は南側に設置されている。最初の登り口付近には、小規模な堀切が残る。
【写真左】郭
遺構としてはっきり残るのは、右側に20m四方の削平地があり、左に2m程度高くなった郭(主郭か)があり、その上に祠が鎮座している。
【写真左】主郭
定期的に管理されているようで、歩きやすい。
【写真左】横から見たもの
左側が登城路の一部だが、犬走りの役目だったかもしれない。
高くなった壇が主郭と思われるが、限りなく館跡の痕跡が濃厚だ。
【写真左】主郭から東麓を見る
右に見える道が国道488号線で、澄川トンネルに向かう。下を流れるのが匹見川で、左が上流になる。また、この付近で大きく蛇行し、その先の河原跡に集落ができている。
麓は田圃などがあるが、当時は匹見川の河原だったと思われる。
主郭から川下を眺めると、予想以上に高さを感じる。
●所在地 島根県益田市匹見町澄川長尾原
●築城期 不明
●築城者 不明
●標高 177m
●遺構 郭、堀切、竪堀、横堀、土杭、柱穴、石列、その他
●備考 叶松城支城
●登城日 2010年4月2日
◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」その他)
嶽城は、前稿「広瀬城」のある位置よりさらに匹見川を5キロほど降った澄川長尾原という位置にある。
当城は、この位置より2キロさらに下り、匹見川の南岸に築城された叶松城の支城として使用されたという。
【写真上】案内図
嶽城近くに同図が設置されている。
この図では、「現在地」と書かれた場所から太い道路(488号線)沿いに向かって左に「嶽城」と書かれているが、当城に行くには、旧道(細い道)から回らないとたどり着けない。
元々この叶松城は、寿永年間(1182~85)ごろ、平教盛(のりもり)の一族盛広の築城とされ、その後、澄川秀行、その子俊長の二代が続いたが、敗れて都茂村金谷の地に堕ちていったという伝承が残る。
戦国期になると、寺戸和泉守資清が益田藤兼に従って数々の戦功を立て、500貫文の知行を与えられて、この叶松城の城主になったという。
寺戸氏
ところで、この寺戸氏については、前稿「広瀬城」で登場してきた寺戸惣右衛門もこの一族にあたると思われるが、同氏の出自については次のような記録が残る。
河野通紀(入道一徹:おそらく伊予の河野氏と思われる)が、安芸国山県郡寺領村・戸田に移住し(時期不明)、その後石見国に来住、三隅兼春に仕えて采地200貫文を受けた。三隅氏に仕えた時、彼は先住先だった寺領村・戸田の頭文字をとって、「寺戸」氏の祖となった。
【写真左】嶽城遠望その1
旧道に少し入った位置からみたもので、右側の道路が国道488号線。手前が旧道になる。右側の道路ができる前は東に稜線が伸びていたと思われ、遺構も残っていたかもしれない。
三隅兼春は、田屋城跡(島根県浜田市弥栄町木都賀)で紹介したように、現在の浜田市弥栄町木都賀にある別名木束城の城主である。また名将・三隅兼連がその父である。
従って、当然河野通紀(寺戸)は、南北朝期に石見宮方の一員として活躍したことになる。
前記した寺戸和泉守資清は、寺戸氏始祖から5代目に当たる。
永禄12年(1569)、資清が亡くなると、三隅氏と益田氏の抗争はさらに激しくなる。資清の嫡男・新右衛門は、益田尹兼の女と結ばれ、益田氏から仙道の三谷・井羅尾その他の土地を安堵されている(美都町史)。
【写真左】遠望その2
旧道を通って反対側の北側見たもの。
おそらく、右に見える道を造成する際も、右の斜面が繋がっていたものと思われる。
さて、嶽城については、写真にもあるように山城としては小規模なもので、これまでの遺構調査などからまとめられたものを見ると、当時の山城としての遺構は半壊状態という。
また、遺構の年代も縄文から近世に至る多くのものが残り、複合的な遺跡と考えられる。
城砦としての遺構は上掲の通りだが、発掘された遺物として、中世のものでいえば、短刀、青磁(15世紀)、白磁(16世紀)、施釉陶器(16世紀)、染付磁器(16世紀)等々、非常に生活感のある遺物が夥しく発掘されている。
【写真左】嶽城の上り道
登城路は南側に設置されている。最初の登り口付近には、小規模な堀切が残る。
【写真左】郭
遺構としてはっきり残るのは、右側に20m四方の削平地があり、左に2m程度高くなった郭(主郭か)があり、その上に祠が鎮座している。
【写真左】主郭
定期的に管理されているようで、歩きやすい。
【写真左】横から見たもの
左側が登城路の一部だが、犬走りの役目だったかもしれない。
高くなった壇が主郭と思われるが、限りなく館跡の痕跡が濃厚だ。
【写真左】主郭から東麓を見る
右に見える道が国道488号線で、澄川トンネルに向かう。下を流れるのが匹見川で、左が上流になる。また、この付近で大きく蛇行し、その先の河原跡に集落ができている。
麓は田圃などがあるが、当時は匹見川の河原だったと思われる。
主郭から川下を眺めると、予想以上に高さを感じる。
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