2011年1月4日火曜日

小石見城・その2(島根県浜田市原井町)

小石見城(こいわみじょう)・その2

◆解説(参考文献「石見町誌・上巻」「益田市誌・上巻」等)
 南北朝期における小石見城の主だった戦いは前稿の通りであるが、今稿ではその後の動きを取り上げたい。
【写真左】小石見城遠望その1
 登城口付近まで道路が繋がっているので、比高は5,60m程度と思われる。

 写真は南麓側から見たもので、右側が本丸付近になる。

明応年間の戦い

 最初に取り上げるのは、明応年間(1492~1500)ごろの動きである。以前にも取り上げた、益田氏と三隅氏との抗争に絡んだもので、小石見城を含む現在の浜田市を中心として戦端が開いた。

 当時この地域を治めていたのは、三隅氏で、その被官だった岡本宗左衛門尉が、明応4年(1495)3月16日、石見国小石見郷の池田名を安堵されている(岡本文書)。
【写真左】遠望その2
 西麓側から見たもので、本丸は右端になる。

 現在、当城を含んだ山の北側には、浜田道関係の新設道路の工事が行われており、今後もこの周辺の景観は大幅に変わるだろう。


 また、明応8年(1499)3月には、その南方に当たる永安別府半分・弥積分については、三隅興信吉川国経に譲り(吉川家文書)、同年9月には、同じく興信が、石見国二宮神主・岡本次郎左衛門尉の軍功を賞し、小石見郷政所名などを領有させている(岡本文書)。

 この年(明応8年)9月~10月、三隅興信は、明応の政変に絡んで安芸国廿日市に出陣していたが、その隙を突いて、益田氏が小石見の三子山城(H140m:小石見城の東方3キロ)を攻めた。
 当城に拠ったのは、岡本旅人(次郎左衛門尉と思われる)で、その家臣・肥塚三郎右衛門が活躍し後に、帰国した興信から感状を得ている(肥塚文書)。
 この合戦の際、周辺では小石見城・長浜中原ヶ城・瀬戸ヶ島でも戦が行われた。

戦国期

毛利氏がほぼ出雲国・石見国を手中にしかけた元亀元年(1570)頃、出雲国では山中鹿助による尼子再興の動きがあったが、石見国では、以前「三隅城その3」(2010年8月30日投稿)でも紹介したように、三隅隆繁・国定兄弟(周布氏・福屋氏の一部含む)による反毛利軍が執拗に活動していた。

 当時、毛利元就は安芸吉田郡山城で病に伏せっており、9月、輝元は隆景・元資を伴い一旦帰国することになった。吉川元春は出雲・神西城に、宍戸隆家・口羽通良・杉原重盛らと留まり、勝久・鹿助と対峙していた。
【写真左】井戸跡か
 西側の長い郭の中央部に大きなくぼみが残っており、おそらく井戸跡と思われる。







 このため、石見国が手薄状態になり、毛利方となった地元の二宮・岡本氏らでは、三隅氏の動きを押さえることができなかった。

 同年5月、元春は二男・元氏に命じて石見討伐に向かわせた。このとき合戦場となったのが、江津島の星、浜田の鷹巣城(周布城か)と小石見城である。

 勝敗は吉川元氏軍の勝利に終わり、周布春氏は自害、三隅城に逃れて再び戦った三隅国定は9月26日に討死、隆繁は自害した。
 この戦のあと、元氏軍は急ぎ、出雲国へ帰還し、尼子勝久・山中鹿助らの再興軍との戦いに参戦していくことになる。

 ところで、このときの小石見城は、名称を変えて「大陣平(おおじんひら)」と呼ばれている。
【写真左】西の郭西端部
 当該郭が西に伸びきったところで、一旦切崖があり、さらにそのまま西から北(道路工事付近)まで、郭らしき遺構が確認できたが、戦国期の名称である「大陣平」という個所は、その辺も含めた場所だったかもしれない。

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