2011年1月6日木曜日

小松尾城(島根県益田市匹見町紙祖石組)

小松尾城(こまつおじょう)

●所在地 島根県益田市匹見町紙祖石組
●築城期 室町時代
●築城者 斎藤氏・大谷氏
●指定 市指定
●標高 440m
●比高 120m
●遺構 郭、石垣、堀切、竪堀、馬出、櫓台
●探訪日 2010年4月2日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」「益田市誌・上巻」等)
  石見益田地域で最大の河川である高津川をさかのぼって行くと、横田というところで、匹見川という支流と合流する。この匹見川と平行して走るのが国道488号線であるが、この国道を進んでいくと、益田市匹見支所付近で、南西方向に枝線として、紙祖川と平行して走る42号線(吉賀匹見線)が見えてくる。途中から幅員が車1台分の狭さになるところに見えるのが、小松尾城である。
【写真左】小松尾城遠望その1
 北側(匹見の町部)からみたもので、写真中央のとがった山である。手前の田圃の脇に説明板が設置されている。



 以前にも紹介したように、匹見地域は源平合戦の際、敗れた平家が落ち延びたところともいわれ、当時陸の孤島とも評された場所である。
 南東側の中国山脈を越えると、広島の安芸の国になるが、当時は簡単に峠越えはできないまさに秘境の場所であった。

現地の説明板より

市指定史跡 小松尾城跡
 前方の紙祖川と七村川とが相会し、その間に屹立した比高約120m測る山地が小松尾(要害)城跡である。

 山頂には、約140m×9mを測る細長い削平地があり、そのほか一段高い見張り台や、数段からなる削平などがあって、尾根筋の両端部には数条の堀切がみられ、守備を固めている。一部には竪堀もあり、西側の斜面には厩床という地名の壇床もみられる。
【写真左】遠望その2
 吉賀町に向かう東側の42号線側から見たもの。

 本城は、もと斎藤氏が拠ったともいわれているが、室町中期には益田の大谷郷地頭であった大谷兼秋の三男章実が居城した。
 そして文安3年(1446)には、吉賀郷高尻の河野氏広石の上領氏に攻められたが、時の大谷佐膳は、益田七尾城主の兼堯の援軍でことなきを得、宝徳3年(1451)には、逆に吉賀の両氏を攻めている。

 益田領境地としての重要性を知った益田氏は、その後18代七尾城主の尹兼は、弘治元年(1555)に弟の兼任を小松尾城主に命じた。そして、その子兼治と続いたが、関ヶ原の戦後は益田氏とともに須佐に移って廃城となった。
益田市教育委員会”
【写真左】縄張図
 図でもわかるように、極端に幅は狭く、南北に長く伸びた郭を構成している。















 説明板にある文安3年・宝徳3年の戦いは、いずれも当時の益田氏と吉見氏との領有争いが元となっている。
 益田・吉見両氏の主だった境目は、高津川を中心としたものだが、匹見地区は両者の領有区域の東部に当たり、このことから、匹見川沿いには、当地の覇権をめぐって20カ所前後の山城が残っている。

 小松尾城は、叶松城(H290m 匹見町澄川土井原:寿永年間(1182~85)平盛広築城)と並んでその中の重要な城砦のひとつである。

 説明板にある「高尻の河野氏」は、元々越智氏の後裔で、祖は伊予国(愛媛県)の高直城を構えていた。高直城は、別名高縄山城ともいい、現在の松山市猪木高縄山(986m)にあった城である。
 嘉吉3年(1443)10月、この河野氏の子孫孫十郎入道は、吉見成頼を頼って高尻村に住み、高尻城主となった。そして、その嫡男久米丸に至った。
【写真左】西側から見たもの
 最初に東麓から登城口を探したが、紙祖川に橋がなく、断念し、次に西側に回ったものの、七村川にも橋が見つからず、結局登城はあきらめた。


 なお、この高尻という地区は、小松尾城の脇を通る42号線を南下し、吉賀町に入った高津川の支流・高尻川中流の谷間にある。

 高尻城は、今のところ、島根県遺跡データベースには登録されていないが、石水寺という寺院にに河野氏の墓地があることから、この付近にあるものと思われる。

 もう一人の広石の上領(かみりょう)とは、河野氏の一族と思われるが、「益田市誌・上巻」では、文安3年の段階で、上領玄蕃頭という武将が高尻城主としている。

 ちなみに、広石という場所は、以前取り上げた「五郎丸城」(吉賀町広石立戸:2009年12月21日投稿)とほぼ同じ場所になる。もっともこの「五郎丸城」と同じ稜線上に「広石城(別名:次郎丸城)」というのもあるので、城主がどちらにせよ、河野氏一族が拠ったのは、この「広石城」だったかもしれない。
【写真左】西側から先端部を見る
 縄張図でもわかるように、当城に登城できそうな緩斜面は周囲に全くなく、東西の川が掘の役目を当時のまま残していることから、まさに天険の要害の山城である。

匹見三葛の合戦

 ところで、この戦いは、益田兼堯の援軍でことなきを得、としているが、実際は前半の戦いで小松尾城主・大谷左膳は大きな痛手を受けている。
 後にこの戦いは「匹見三葛(みかずら)の合戦」と呼ばれている。

 津和野三本松城主・吉見成頼に命じられた河野氏一族は、手兵800余騎を率い、高尻川を上り、郡境を越え、匹見三葛へ入った。それに先立ち、小松尾城主・大谷左膳側らは、事前に300余騎を従い、三葛の祇園谷において待ち伏せていた。
 戦いは、数に勝る河野氏側の勝利となり、一気に小松尾城下へ侵入してきた。これに驚いた大谷左膳は、すぐに益田兼堯に援軍を求めたため、その報を知った河野氏らは退却した。

 6年後の宝徳3年(1451)、今度は小松尾城主だった大谷則家は、益田兼堯の援護を受け、吉賀の上領を破る、とある(石見誌・石見六郡年表)。
 
 また、その後の弘治元年(1555)に、益田兼任が小松尾城主となる、と説明板にあるが、吉賀の高尻城については、天文20年(1551)10月5日、吉見正頼・上領頼規が益田藤兼を破っている(萩閥56)ので、高尻城は配下であった河野次四郎が城主として住んだようだ。
【写真左】石ヶ坪遺跡
 小松尾城北端部の田園は、縄文時代の遺跡が大量に出土している。
 説明板より

市指定史跡 石ヶ坪遺跡
 本遺跡は、縄文時代中期中ごろから縄文時代後期前半にかけての遺跡で、1万数点の多量の土器・石器類が出土しています。
 また、遺構においては貯蔵穴などの土杭をはじめとして、8棟の竪穴住居跡や配石も発見され、該当期における山間部の縄文時代の様子を理解する上で、極めて貴重なものであり、ことに阿高・並木式といわれる土器などから、九州との繋がりをもつものとして注目されています。
 益田市教育委員会”



 余談ながら、その後益田氏の支援を受けていた大谷氏は、天正3年を機に、「大谷一族の不遜な態度」を理由として、益田氏によって一族大半が誅殺されていった。その主な面々は以下の通り。
  • 大谷主水頭 瀧山城主
  • 大谷内蔵之丞 内谷村
  • 大谷若狭頭盛英(主水頭の父)夫妻
  • その他
このうち、大谷平内と彼の妻は、益田氏の追手を逃れ、益田氏が関ヶ原の戦いのあと、長州須佐に移ってから、再び当地に戻り、名を五郎兵衛と改めて一生を終えた(後段参照)。

さて、戦いの主戦場となった三葛の祇園谷には、地名として「陣ヶ原」「見張楼」が残り、「三葛土居跡」は、大谷氏一族であった大谷平内の住居跡といわれている。また、匹見・吉賀の郡境峠付近には中小の墓が数十基が見られるという。
 
 管理人は、この三葛という地区は探訪していないが、いずれ機会があったら訪ねてみたい。なお、河野一族が吉賀町(六日市)から高尻川沿いに上って、匹見に進んだルートは、壇ノ浦で敗れた平家が当地(匹見)に入った道とも言われている。

◎関連投稿
三葛の殿屋敷(島根県益田市匹見町紙祖三葛)

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