旅伏山城(たぶしやまじょう)
●所在地 島根県出雲市美談町旅伏山
●築城期 南北朝
●築城者 不明
●標高 458m
●遺構 郭
●備考 多夫志熢
●登城日 2010年10月19日
◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」等)
このところ石見国の山城が続いてきたので、久しぶりに出雲国の山城をとりあげたい。
【写真左】旅伏山城遠望
南東部麓からみたもの。
旅伏山は古代の「出雲風土記」にも書かれた多夫志熢(たぶしのとぶひ)という狼煙の台が置かれたという古い歴史を持つ山である。
出雲平野から北に目を移すと、東西に長く伸びた連山が見える。この連山は、通称北山とも呼ばれ、地元市民の手軽な登山コースとしても親しまれている。昭和55年(1980)には、中国自然歩道の一部として登山道も整備された。
主だった山としては、今稿の旅伏山を東端に、西に向かって、鼻高山・万ヶ丸山・弥山と続く。
旅伏山城が記録に出てくるのは、南北朝期である。旅伏山の北麓にある古刹・鰐淵寺の文書によれば、興国2年・暦応4年(1341)4月22日付で、以下のものが記されている。
“朝山景連、鰐淵寺南北衆徒に対し、塩冶高貞誅伐のため、急ぎ旅臥城(旅伏城)に陣を構えるよう命ずる。”
とある。
【写真左】案内図
旅伏山に登るコースはいろいろあるが、今回は当山東麓の康国寺付近のスタート地点から登った。
朝山景連は、元弘3年(1333)3月、後醍醐天皇が隠岐から脱出し、伯耆船上山において倒幕の声を挙げた時、出雲守護の塩冶高貞はじめ、金持一族・大山衆徒・三隅一族らと参画している人物である。
その後、建武元年(1334)5月になると、足利尊氏が景連に対し、備後への出兵を命じ、翌建武2年(1335)に、備後国守護職に任じられ、現在の神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)を築いている。
【写真左】鰐淵寺
旅伏山の北麓に建立されている古刹。
天台宗 浮浪山 一乗院
鰐淵寺
開山 知春上人推古2年(594)
本尊 千手観音菩薩 薬師如来
鰐淵寺は、伯耆国(鳥取県)の大山寺と並んで、山陰有数の天台宗の古刹である。創建時期ははっきりしないが、少なくとも平安後期には修験の道場として中央にも広く知られていた。
【写真左】登城口
写真手前の場所には、駐車場があり、およそ10台程度のスペースが設けられている。
元弘3年の5月の段階で、この鰐淵寺の頼源が六波羅攻めに加わり、初期の段階から他の諸族と同様、後醍醐天皇に加担していることが記録に見える。
このころから、大山寺のように、多数の僧兵がいたわけである。余談ながら、武蔵坊弁慶はこの鰐淵寺の出身だという伝承も残る。
その後、知られているように、後醍醐天皇が、鎌倉北条幕府を倒した後、建武新政を執行するも、破たんによって再び世は乱れていった。
ところで、上掲の塩冶高貞についてはこれまで、塩冶氏と館跡・半分城(島根県出雲市)、加古川城・称名寺(兵庫県加古川市加古川町本町)でも触れてきた。
塩冶高貞が京都から逃走を図り、出雲国宍道の佐々布で自刃したのは、「太平記」によれば、興国2年3月と記されている。しかし、その期日は、上掲の「鰐淵寺文書」にも見られるように、どうも符合しない。
【写真左】鹿除け用ゲート
登城口からしばらく登ると、網状のゲートが設置してある。
以前、宍道氏(毛利氏)・鳶ヶ巣城(島根県出雲市西林木町)の際も経験したが、北山には野生の鹿が住んでおり、最近では麓まで降りてきて被害をもたらすことから、この写真のようなゲートが設置されている。
このゲートをきっと閉めてから、再び進む。
「佐草家・鰐淵寺文書」という史料でも、
“足利直義、佐草五郎左衛門尉と鰐淵寺北谷衆徒に対し、塩冶高貞が陰謀を企て、逃走したとして誅伐を命ずる”
と同あり、この日付も(興国2年・1341)3月24日付となっている。
さらに補完する別の史料として、「小野家文書」の中に、
“大野庄祢宇村地頭・北垣光昌、塩冶高貞誅伐に下向した幕府方に着到状を提出する”
というのがあり、この日付は4月となっている。
最初に紹介した鰐淵寺文書のものはさらに遅く、4月22日付である。このことから、「太平記」に記されている3月には無理があり、早くても4月の後半であることが予想できる。
朝山氏については、姉山城・朝山氏(島根県出雲市朝山)でも述べたように、建久3年(1192)、征夷大将軍となった源頼朝が、出雲八幡宮八社を新造したとき、朝山郷一社の祠官兼帯を命じられている。
また、文永8年(1271)の頃の同氏の所領は、神門郡から楯縫郡の西側、東郷、御津荘まで及び、規模は167町5反を占め、隣接する守護職・佐々木塩冶氏に次ぐ領地を所有していた。
【写真左】中腹にある鳥居
登城口から40分程度登って行くと、鳥居が見える。この鳥居はおそらく頂上付近にある都武自神社のものだろうが、このあたりで南方に眺望が望める。
なお、朝山氏はその後出雲国においては、応永元年(1394)ごろまで、当地を相伝本領としていたが、仔細は不明なものの、召し放たれて幕府御料所になり、同氏はそれ以後、室町幕府将軍直属の奉公衆として京都に拠点を移したとある(朝山肥前守清綱申状)。
【写真左】2番目の鳥居
先ほどの位置からさらに傾斜がきつくなり、500m程度進むと、2番目の鳥居が見える。
この写真の右側の斜面の上は、東端の郭跡になる。
また、南面は切崖状が連続し、要害性は十分に認められる。
【写真左】郭その1
東の尾根に沿って段を構成しているが、帯郭を持たせているのは南面が多い。
【写真左】都武自神社とその下の削平地
先に登城路を進み、写真に見える都武自神社の下にある広い削平地に着く。
この場所から再び東方の尾根伝いに下がって郭段を確認していく。
【写真左】郭その2
神社から東に伸びる郭の最東端までは約200m程度に見え、その間には3,4段の郭が構成されている。
ただ、遺構である郭そのものの管理は、ほとんどなされていない。竹や倒木が全体を占め、歩くのにも苦労する。
【写真左】堀切か
大分埋まっているように見えるが、南北に溝のような痕跡が認められることから、堀切だったと思われる。
【写真左】都武自(つむじ)神社
祭神は、速都武自命で出雲風土記に出てくる社である。
南北朝期は、おそらく当社も戦の施設として兼ねていたかもしれない。
【写真左】境内南端部の切崖
下に見える道が東方から登ってきた道であるが、全体に南側の谷が深くなり、要害性が高い。
【写真左】展望台
都武自神社を過ぎてさらに脇の道を登ると、御覧のような整備された展望台がある。
この位置からは、南麓(右側)及び北方(左)も眺望を楽しめる。
【写真左】南方に出雲・斐川平野を望む
この日は少し靄がかかっており、今一つだったが、条件がよいと、西に三瓶山、東に宍道湖・中海・大山を望むことができる。
【写真左】西下に「鳶ヶ巣城」を遠望する。
鳶ヶ巣城側に向かう道もあるが、この日は断念した。
以前には、旅伏山城も戦国期に使用されたとあったが、現在は南北朝期のみという説が主流だ。
【写真左】斐伊川を見る
川を挟んで右側が出雲市、左が斐川町になる。
【写真左】北方に十六島(うっぷるい)湾・日本海を見る。
最近ではこの山並みに風力発電の風車が10数基設置された。
●所在地 島根県出雲市美談町旅伏山
●築城期 南北朝
●築城者 不明
●標高 458m
●遺構 郭
●備考 多夫志熢
●登城日 2010年10月19日
◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」等)
このところ石見国の山城が続いてきたので、久しぶりに出雲国の山城をとりあげたい。
【写真左】旅伏山城遠望
南東部麓からみたもの。
旅伏山は古代の「出雲風土記」にも書かれた多夫志熢(たぶしのとぶひ)という狼煙の台が置かれたという古い歴史を持つ山である。
出雲平野から北に目を移すと、東西に長く伸びた連山が見える。この連山は、通称北山とも呼ばれ、地元市民の手軽な登山コースとしても親しまれている。昭和55年(1980)には、中国自然歩道の一部として登山道も整備された。
主だった山としては、今稿の旅伏山を東端に、西に向かって、鼻高山・万ヶ丸山・弥山と続く。
旅伏山城が記録に出てくるのは、南北朝期である。旅伏山の北麓にある古刹・鰐淵寺の文書によれば、興国2年・暦応4年(1341)4月22日付で、以下のものが記されている。
“朝山景連、鰐淵寺南北衆徒に対し、塩冶高貞誅伐のため、急ぎ旅臥城(旅伏城)に陣を構えるよう命ずる。”
とある。
【写真左】案内図
旅伏山に登るコースはいろいろあるが、今回は当山東麓の康国寺付近のスタート地点から登った。
朝山景連は、元弘3年(1333)3月、後醍醐天皇が隠岐から脱出し、伯耆船上山において倒幕の声を挙げた時、出雲守護の塩冶高貞はじめ、金持一族・大山衆徒・三隅一族らと参画している人物である。
その後、建武元年(1334)5月になると、足利尊氏が景連に対し、備後への出兵を命じ、翌建武2年(1335)に、備後国守護職に任じられ、現在の神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)を築いている。
【写真左】鰐淵寺
旅伏山の北麓に建立されている古刹。
天台宗 浮浪山 一乗院
鰐淵寺
開山 知春上人推古2年(594)
本尊 千手観音菩薩 薬師如来
鰐淵寺は、伯耆国(鳥取県)の大山寺と並んで、山陰有数の天台宗の古刹である。創建時期ははっきりしないが、少なくとも平安後期には修験の道場として中央にも広く知られていた。
【写真左】登城口
写真手前の場所には、駐車場があり、およそ10台程度のスペースが設けられている。
元弘3年の5月の段階で、この鰐淵寺の頼源が六波羅攻めに加わり、初期の段階から他の諸族と同様、後醍醐天皇に加担していることが記録に見える。
このころから、大山寺のように、多数の僧兵がいたわけである。余談ながら、武蔵坊弁慶はこの鰐淵寺の出身だという伝承も残る。
その後、知られているように、後醍醐天皇が、鎌倉北条幕府を倒した後、建武新政を執行するも、破たんによって再び世は乱れていった。
ところで、上掲の塩冶高貞についてはこれまで、塩冶氏と館跡・半分城(島根県出雲市)、加古川城・称名寺(兵庫県加古川市加古川町本町)でも触れてきた。
塩冶高貞が京都から逃走を図り、出雲国宍道の佐々布で自刃したのは、「太平記」によれば、興国2年3月と記されている。しかし、その期日は、上掲の「鰐淵寺文書」にも見られるように、どうも符合しない。
【写真左】鹿除け用ゲート
登城口からしばらく登ると、網状のゲートが設置してある。
以前、宍道氏(毛利氏)・鳶ヶ巣城(島根県出雲市西林木町)の際も経験したが、北山には野生の鹿が住んでおり、最近では麓まで降りてきて被害をもたらすことから、この写真のようなゲートが設置されている。
このゲートをきっと閉めてから、再び進む。
「佐草家・鰐淵寺文書」という史料でも、
“足利直義、佐草五郎左衛門尉と鰐淵寺北谷衆徒に対し、塩冶高貞が陰謀を企て、逃走したとして誅伐を命ずる”
と同あり、この日付も(興国2年・1341)3月24日付となっている。
さらに補完する別の史料として、「小野家文書」の中に、
“大野庄祢宇村地頭・北垣光昌、塩冶高貞誅伐に下向した幕府方に着到状を提出する”
というのがあり、この日付は4月となっている。
最初に紹介した鰐淵寺文書のものはさらに遅く、4月22日付である。このことから、「太平記」に記されている3月には無理があり、早くても4月の後半であることが予想できる。
朝山氏については、姉山城・朝山氏(島根県出雲市朝山)でも述べたように、建久3年(1192)、征夷大将軍となった源頼朝が、出雲八幡宮八社を新造したとき、朝山郷一社の祠官兼帯を命じられている。
また、文永8年(1271)の頃の同氏の所領は、神門郡から楯縫郡の西側、東郷、御津荘まで及び、規模は167町5反を占め、隣接する守護職・佐々木塩冶氏に次ぐ領地を所有していた。
【写真左】中腹にある鳥居
登城口から40分程度登って行くと、鳥居が見える。この鳥居はおそらく頂上付近にある都武自神社のものだろうが、このあたりで南方に眺望が望める。
なお、朝山氏はその後出雲国においては、応永元年(1394)ごろまで、当地を相伝本領としていたが、仔細は不明なものの、召し放たれて幕府御料所になり、同氏はそれ以後、室町幕府将軍直属の奉公衆として京都に拠点を移したとある(朝山肥前守清綱申状)。
【写真左】2番目の鳥居
先ほどの位置からさらに傾斜がきつくなり、500m程度進むと、2番目の鳥居が見える。
この写真の右側の斜面の上は、東端の郭跡になる。
また、南面は切崖状が連続し、要害性は十分に認められる。
【写真左】郭その1
東の尾根に沿って段を構成しているが、帯郭を持たせているのは南面が多い。
【写真左】都武自神社とその下の削平地
先に登城路を進み、写真に見える都武自神社の下にある広い削平地に着く。
この場所から再び東方の尾根伝いに下がって郭段を確認していく。
【写真左】郭その2
神社から東に伸びる郭の最東端までは約200m程度に見え、その間には3,4段の郭が構成されている。
ただ、遺構である郭そのものの管理は、ほとんどなされていない。竹や倒木が全体を占め、歩くのにも苦労する。
【写真左】堀切か
大分埋まっているように見えるが、南北に溝のような痕跡が認められることから、堀切だったと思われる。
【写真左】都武自(つむじ)神社
祭神は、速都武自命で出雲風土記に出てくる社である。
南北朝期は、おそらく当社も戦の施設として兼ねていたかもしれない。
【写真左】境内南端部の切崖
下に見える道が東方から登ってきた道であるが、全体に南側の谷が深くなり、要害性が高い。
【写真左】展望台
都武自神社を過ぎてさらに脇の道を登ると、御覧のような整備された展望台がある。
この位置からは、南麓(右側)及び北方(左)も眺望を楽しめる。
【写真左】南方に出雲・斐川平野を望む
この日は少し靄がかかっており、今一つだったが、条件がよいと、西に三瓶山、東に宍道湖・中海・大山を望むことができる。
【写真左】西下に「鳶ヶ巣城」を遠望する。
鳶ヶ巣城側に向かう道もあるが、この日は断念した。
以前には、旅伏山城も戦国期に使用されたとあったが、現在は南北朝期のみという説が主流だ。
【写真左】斐伊川を見る
川を挟んで右側が出雲市、左が斐川町になる。
【写真左】北方に十六島(うっぷるい)湾・日本海を見る。
最近ではこの山並みに風力発電の風車が10数基設置された。
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