広瀬城(ひろせじょう)
●所在地 島根県益田市匹見町広瀬茶屋)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 大谷若狭守盛英
●標高 320m
●指定 益田市指定史跡
●遺構 郭、横堀、竪堀
●探訪日 2010年4月2日
◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」等)
匹見川が極端に蛇行する広瀬・茶屋というところに突き出した山に築かれている。
訪れたのは、「小松尾城」を見た帰り、たまたま道路わきに当城の看板を目にしたことから立ち寄った。ただ、そのころすでに夕方でもあり、登城までは至っていない。
【写真左】説明板
南麓の国道488線脇に設置されている。
現地の説明板より
“市指定史跡 広瀬城跡
本城跡は、山の尾根が南西部に向かって舌状に突き出し、その山下を匹見川が周流するといった天然の要害に立地している。
標高322mを測る山頂には、楕円をなした主郭の削平地が見られ、その南西部には2段からなる壇床を設けている。また、北東部に続く尾根筋の鞍部側には、3段の堀切で守備するなど、山城としての形態をよく残している。
本城には、大谷若狭守盛英が拠ったと伝えられるが、天正3年(1575)に、七尾城主益田元祥の内命を受けた小原郷(美都)の竹城主寺戸惣右衛門によって滅ぼされたと伝えられている。
益田市教育委員会”
【写真左】縄張図
国道側から直接上るコースは見当たらなかったので、この図でいえば右側の脇道があったので、そのあたりまで上り、尾根伝いに西に向かう道がおそらくあると思われる。
匹見・大谷氏
前々稿「小松尾城」でも記したように、大谷一族が益田氏によって誅殺されたのが、天正3年(1575)である。同稿にもあるように、広瀬城主だった大谷若狭守(頭)盛英は、瀧山城主・大谷主水頭の父である。
瀧山城は別名「上ノ山城」とも呼ばれ、同町匹見半田にある標高398mにある城砦である。
ここで、匹見・大谷氏について簡単に触れておきたい。
同氏は、鎌倉初期、平家の落人として匹見に逃れてきた大谷盛胤の末孫で、室町時代末期になると、盛治を経て、嗣子・若狭守吉継に至った。この吉継が後年隠居し住んだ場所が、本稿「広瀬城」のある広瀬村土居である。
【写真左】道路下から当城を見上げる。
匹見川に突き出した当城は、周囲がほとんど切崖状で、小規模ながら要害堅固な城砦だったと思われる。
吉継には下記の4人の子がおり、それぞれ次のような経歴を持つ。
(1)源吾
吉継の長子で、道谷村の斎藤伯耆守の女婿となり、道谷城(おそらく笹山城)に居城した。
(2)主水頭
同二男で、瀧山城(上ノ山城)主となる。
(3)内蔵丞(蔵之丞)
同三男で、内谷村の花ノ木城(前稿「匹見村地頭籾田氏」参照)主となる。
(4)平内
同四男で、「小松尾城」の稿でも紹介した三葛の殿屋敷に住んだ。
【写真左】瀧山城(上ノ山城)遠望
匹見の街部にある「匹見峡温泉やすらぎの湯」という施設からみたもので、この位置から1キロ程度北に向かったところに聳える。
当城も益田市の指定史跡となっているので、機会があったら登城してみたい山城である。
ところで、お気づきのように、大谷若狭守盛英と、大谷若狭守吉継が混在している。
「益田市誌・上巻」では、その差異について触れていないので、なんとも判断しかねるが、現存する記録から考えて、おそらく同一人物と思われる。
大谷若狭守盛英(吉継)を滅ぼしたのが、竹城主・寺戸惣右衛門とある。竹城は北方の美都町小原にあり、「四ツ山城」の北東2キロの地点にある。
「小松尾城」の稿でも記したが、大谷一族の主要人物を謀殺した後の、残りの一族を誅滅する任を負ったのがこの寺戸惣右衛門である。
彼は手兵数百人を引き連れ、最初に落としたのがこの広瀬城だった。ただ当城にいた大谷若狭守盛英夫妻は、落城寸前にこの城を脱出、すでに謀殺された息子の居城・瀧山城へ、内蔵丞の末弟平内親子の二人を従え、当城へ入った。そこには、主水頭の妻子3人がおり、皆はこの瀧山城で死守する覚悟を決めた。
寺戸勢の勢いに抗すことはできず、ついに瀧山城は堕ち、彼らはそろって討死したという。
●所在地 島根県益田市匹見町広瀬茶屋)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 大谷若狭守盛英
●標高 320m
●指定 益田市指定史跡
●遺構 郭、横堀、竪堀
●探訪日 2010年4月2日
◆解説(参考文献「益田市誌・上巻」等)
匹見川が極端に蛇行する広瀬・茶屋というところに突き出した山に築かれている。
訪れたのは、「小松尾城」を見た帰り、たまたま道路わきに当城の看板を目にしたことから立ち寄った。ただ、そのころすでに夕方でもあり、登城までは至っていない。
【写真左】説明板
南麓の国道488線脇に設置されている。
現地の説明板より
“市指定史跡 広瀬城跡
本城跡は、山の尾根が南西部に向かって舌状に突き出し、その山下を匹見川が周流するといった天然の要害に立地している。
標高322mを測る山頂には、楕円をなした主郭の削平地が見られ、その南西部には2段からなる壇床を設けている。また、北東部に続く尾根筋の鞍部側には、3段の堀切で守備するなど、山城としての形態をよく残している。
本城には、大谷若狭守盛英が拠ったと伝えられるが、天正3年(1575)に、七尾城主益田元祥の内命を受けた小原郷(美都)の竹城主寺戸惣右衛門によって滅ぼされたと伝えられている。
益田市教育委員会”
【写真左】縄張図
国道側から直接上るコースは見当たらなかったので、この図でいえば右側の脇道があったので、そのあたりまで上り、尾根伝いに西に向かう道がおそらくあると思われる。
匹見・大谷氏
前々稿「小松尾城」でも記したように、大谷一族が益田氏によって誅殺されたのが、天正3年(1575)である。同稿にもあるように、広瀬城主だった大谷若狭守(頭)盛英は、瀧山城主・大谷主水頭の父である。
瀧山城は別名「上ノ山城」とも呼ばれ、同町匹見半田にある標高398mにある城砦である。
ここで、匹見・大谷氏について簡単に触れておきたい。
同氏は、鎌倉初期、平家の落人として匹見に逃れてきた大谷盛胤の末孫で、室町時代末期になると、盛治を経て、嗣子・若狭守吉継に至った。この吉継が後年隠居し住んだ場所が、本稿「広瀬城」のある広瀬村土居である。
【写真左】道路下から当城を見上げる。
匹見川に突き出した当城は、周囲がほとんど切崖状で、小規模ながら要害堅固な城砦だったと思われる。
吉継には下記の4人の子がおり、それぞれ次のような経歴を持つ。
(1)源吾
吉継の長子で、道谷村の斎藤伯耆守の女婿となり、道谷城(おそらく笹山城)に居城した。
(2)主水頭
同二男で、瀧山城(上ノ山城)主となる。
(3)内蔵丞(蔵之丞)
同三男で、内谷村の花ノ木城(前稿「匹見村地頭籾田氏」参照)主となる。
(4)平内
同四男で、「小松尾城」の稿でも紹介した三葛の殿屋敷に住んだ。
【写真左】瀧山城(上ノ山城)遠望
匹見の街部にある「匹見峡温泉やすらぎの湯」という施設からみたもので、この位置から1キロ程度北に向かったところに聳える。
当城も益田市の指定史跡となっているので、機会があったら登城してみたい山城である。
ところで、お気づきのように、大谷若狭守盛英と、大谷若狭守吉継が混在している。
「益田市誌・上巻」では、その差異について触れていないので、なんとも判断しかねるが、現存する記録から考えて、おそらく同一人物と思われる。
大谷若狭守盛英(吉継)を滅ぼしたのが、竹城主・寺戸惣右衛門とある。竹城は北方の美都町小原にあり、「四ツ山城」の北東2キロの地点にある。
「小松尾城」の稿でも記したが、大谷一族の主要人物を謀殺した後の、残りの一族を誅滅する任を負ったのがこの寺戸惣右衛門である。
彼は手兵数百人を引き連れ、最初に落としたのがこの広瀬城だった。ただ当城にいた大谷若狭守盛英夫妻は、落城寸前にこの城を脱出、すでに謀殺された息子の居城・瀧山城へ、内蔵丞の末弟平内親子の二人を従え、当城へ入った。そこには、主水頭の妻子3人がおり、皆はこの瀧山城で死守する覚悟を決めた。
寺戸勢の勢いに抗すことはできず、ついに瀧山城は堕ち、彼らはそろって討死したという。
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