一乗谷・朝倉氏遺跡・庭園
(いちじょうだに・あさくらしいせき・ていえん)
●所在地 福井県福井市城戸ノ内町
●築城期 南北朝期
●築城者 朝倉氏
●指定 特別史跡
●形態 平城
●遺構 館跡・庭園その他多数
●登城日 2011年4月7日
◆解説
以前取り上げた小谷城(滋賀県長浜市湖北町伊部)や前稿「金ヶ崎城」でも少し触れているが、越前国一乗谷に残る一乗谷朝倉氏館及び庭園を取り上げる。
【写真左】朝倉義景館・その1
この写真は、朝倉義景館で外堀を巡らし、内側には三方に土塁を構築したもの。
朝倉氏
築城者である朝倉氏の出自は、現在の兵庫県養父郡で勢を張った豪族・朝倉氏(但馬・朝倉城(兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山)参照)で、南北朝時代朝倉広景が、主家であった斯波高経に従い越前に入国したことから始まる。
斯波高経は前稿「金ヶ崎城」でも紹介したように、当時越前守護職で、新田義貞と数度にわたる激戦を展開している。おそらく、このころ朝倉広景も金ヶ崎城における戦いなどにも参加していると思われる。
室町期に入って、朝倉孝景の代になると、応仁の乱が勃発、文明3年(1471)5月21日、孝景は東軍に降り、越前守護職を補任される。それまでに、元主家であった斯波氏や甲斐氏などを追放し、いわゆる下剋上によって越前の覇者となり、このころ本拠を一乗谷に構えたとされる。
【写真左】朝倉義景館・その2
唐門様式の西門
その後、孝景から氏景・貞景・孝景・義景と5代100年余り朝倉氏が続き、この間一乗谷には京都や奈良などから、貴族・僧侶など多数の文化人が来訪し、越前一乗谷は「北陸の小京都」と呼ばれる繁栄を誇った。
しかし、天正元年(1573)織田信長に攻められ、義景は越前国賢松寺で自害、朝倉氏はここに滅亡した。
【写真上】館周辺案内図
朝倉氏遺跡は大変に規模が大きい。この図はその中の一部で、一乗谷川を挟んで東西に長く遺構が残る。
現在地とあるのは義景館跡。
【写真左】 朝倉義景館・その3 土塁
中世館(やかた)で残る土塁としては、おそらく日本で最も大きなものだろう。
【写真左】 朝倉義景館・その4
館内から見た土塁
【写真左】 朝倉義景館・その5
館内部跡
内部には10数棟の建物群があり、一つは主殿を中心に南側半分の位置に、もうひとつは常御殿を中心として北側に配置されていた。
建物はすべて礎石の上に角柱を建て、引戸を多用し畳を敷きつめていた部屋が多かったという。
【写真左】 朝倉義景館・その6
上からみたもの
【写真左】湯殿跡庭園
説明板より
“本庭園は、一乗谷で最も古い4代孝景の頃の回遊式林泉庭園である。
庭池は南北に細長く、汀線は複雑に入り組んだ形で、周囲には山石の巨石(凝灰角礫岩)による護岸石組や滝石組、三尊石組などの豪快な石組がなされている。
…(中略)…観音山を背景に、林立する苔むした庭石群は、一幅の水墨画を連想させる。”
【写真左】中の御殿
中の御殿跡は、朝倉義景の実母光徳院の屋敷跡とされている。
【写真左】諏訪館跡・その1
現地の説明板より
“特別名勝 諏訪館跡庭園
諏訪館は、義景の夫人小少将の屋敷跡と伝えられる。庭園は一乗谷で最も規模の大きい回遊式林泉庭園である。
上下2段の構成で、上段には滝石組と湧泉石組がある。導水路は、東側の土塁部では暗渠となっている。
【写真左】諏訪館跡・その2
大きな礎石は、輪蔵のものとみられる。
下段の滝副石は、高さ413mで日本最大である。弘化4年(1847)、朝倉教景、貞景、孝景の法名を刻んで供養している。
落差が大きく、水落石は4段に組む。水分石や礼拝石、橋挟石なども型通り据えられ、当時の庭園様式をよく伝える。
構成は大変形式的で、専門の庭師の作庭によると推察される。
天端の平らな石が多く、安定感にとみ、実生のヤマモミジの巨木が庭石によく調和し、豪壮華麗な庭園美をつくる。”
【写真左】初代孝景公墓所
諏訪館のあと上に向うと、当該墓所がある。
この墓所は初代孝景のもので、中には宝篋印塔が祀られている。
【写真左】南陽寺跡
3代貞景が再興したといわれる尼寺。
永禄11年(1568)春、5代義景が足利義昭を招いて歌会を開催し、糸桜を題材として和歌を詠んだという。
この庭園も国指定の特別名勝となっている。
規模は5,000㎡、遺構は南側に仏殿とされる建物などがあったという。
【写真左】南陽寺から下方に朝倉義景館を見る
義景館から反時計方向に回った踏査になるが、一乗谷朝倉氏遺跡は規模が大きく、今回の探訪は全体の半分にも満たないだろう。
その他の遺跡については、他の史料やサイトなどをご覧いただきたい。
(いちじょうだに・あさくらしいせき・ていえん)
●所在地 福井県福井市城戸ノ内町
●築城期 南北朝期
●築城者 朝倉氏
●指定 特別史跡
●形態 平城
●遺構 館跡・庭園その他多数
●登城日 2011年4月7日
◆解説
以前取り上げた小谷城(滋賀県長浜市湖北町伊部)や前稿「金ヶ崎城」でも少し触れているが、越前国一乗谷に残る一乗谷朝倉氏館及び庭園を取り上げる。
【写真左】朝倉義景館・その1
この写真は、朝倉義景館で外堀を巡らし、内側には三方に土塁を構築したもの。
朝倉氏
築城者である朝倉氏の出自は、現在の兵庫県養父郡で勢を張った豪族・朝倉氏(但馬・朝倉城(兵庫県養父市八鹿町朝倉字向山)参照)で、南北朝時代朝倉広景が、主家であった斯波高経に従い越前に入国したことから始まる。
斯波高経は前稿「金ヶ崎城」でも紹介したように、当時越前守護職で、新田義貞と数度にわたる激戦を展開している。おそらく、このころ朝倉広景も金ヶ崎城における戦いなどにも参加していると思われる。
室町期に入って、朝倉孝景の代になると、応仁の乱が勃発、文明3年(1471)5月21日、孝景は東軍に降り、越前守護職を補任される。それまでに、元主家であった斯波氏や甲斐氏などを追放し、いわゆる下剋上によって越前の覇者となり、このころ本拠を一乗谷に構えたとされる。
【写真左】朝倉義景館・その2
唐門様式の西門
その後、孝景から氏景・貞景・孝景・義景と5代100年余り朝倉氏が続き、この間一乗谷には京都や奈良などから、貴族・僧侶など多数の文化人が来訪し、越前一乗谷は「北陸の小京都」と呼ばれる繁栄を誇った。
しかし、天正元年(1573)織田信長に攻められ、義景は越前国賢松寺で自害、朝倉氏はここに滅亡した。
【写真上】館周辺案内図
朝倉氏遺跡は大変に規模が大きい。この図はその中の一部で、一乗谷川を挟んで東西に長く遺構が残る。
現在地とあるのは義景館跡。
【写真左】 朝倉義景館・その3 土塁
中世館(やかた)で残る土塁としては、おそらく日本で最も大きなものだろう。
【写真左】 朝倉義景館・その4
館内から見た土塁
【写真左】 朝倉義景館・その5
館内部跡
内部には10数棟の建物群があり、一つは主殿を中心に南側半分の位置に、もうひとつは常御殿を中心として北側に配置されていた。
建物はすべて礎石の上に角柱を建て、引戸を多用し畳を敷きつめていた部屋が多かったという。
【写真左】 朝倉義景館・その6
上からみたもの
【写真左】湯殿跡庭園
説明板より
“本庭園は、一乗谷で最も古い4代孝景の頃の回遊式林泉庭園である。
庭池は南北に細長く、汀線は複雑に入り組んだ形で、周囲には山石の巨石(凝灰角礫岩)による護岸石組や滝石組、三尊石組などの豪快な石組がなされている。
…(中略)…観音山を背景に、林立する苔むした庭石群は、一幅の水墨画を連想させる。”
【写真左】中の御殿
中の御殿跡は、朝倉義景の実母光徳院の屋敷跡とされている。
【写真左】諏訪館跡・その1
現地の説明板より
“特別名勝 諏訪館跡庭園
諏訪館は、義景の夫人小少将の屋敷跡と伝えられる。庭園は一乗谷で最も規模の大きい回遊式林泉庭園である。
上下2段の構成で、上段には滝石組と湧泉石組がある。導水路は、東側の土塁部では暗渠となっている。
【写真左】諏訪館跡・その2
大きな礎石は、輪蔵のものとみられる。
下段の滝副石は、高さ413mで日本最大である。弘化4年(1847)、朝倉教景、貞景、孝景の法名を刻んで供養している。
落差が大きく、水落石は4段に組む。水分石や礼拝石、橋挟石なども型通り据えられ、当時の庭園様式をよく伝える。
構成は大変形式的で、専門の庭師の作庭によると推察される。
天端の平らな石が多く、安定感にとみ、実生のヤマモミジの巨木が庭石によく調和し、豪壮華麗な庭園美をつくる。”
【写真左】初代孝景公墓所
諏訪館のあと上に向うと、当該墓所がある。
この墓所は初代孝景のもので、中には宝篋印塔が祀られている。
【写真左】南陽寺跡
3代貞景が再興したといわれる尼寺。
永禄11年(1568)春、5代義景が足利義昭を招いて歌会を開催し、糸桜を題材として和歌を詠んだという。
この庭園も国指定の特別名勝となっている。
規模は5,000㎡、遺構は南側に仏殿とされる建物などがあったという。
【写真左】南陽寺から下方に朝倉義景館を見る
義景館から反時計方向に回った踏査になるが、一乗谷朝倉氏遺跡は規模が大きく、今回の探訪は全体の半分にも満たないだろう。
その他の遺跡については、他の史料やサイトなどをご覧いただきたい。
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