安芸・祝屋城(あき・いわいやじょう)
●所在地 広島県安芸高田市甲田町深瀬
●別名 岩屋城・巖城・巖屋城
●指定 安芸高田市指定史跡
●高さ 標高257m(比高80m)
●築城期 永正6年(1509)、またはそれ以前
●築城者 宍戸元家
●城主 宍戸氏(深瀬氏)
●遺構 郭、土塁、堀、井戸
●別名 岩屋城・巖城・巖屋城
●指定 安芸高田市指定史跡
●高さ 標高257m(比高80m)
●築城期 永正6年(1509)、またはそれ以前
●築城者 宍戸元家
●城主 宍戸氏(深瀬氏)
●遺構 郭、土塁、堀、井戸
●登城日 2016年1月8日、2017年11月16日
◆解説(参考文献 『安芸高田お城拝見~山城60ベストガイド~』安芸高田市歴史民俗博物館編、『日本城郭体系 第13巻』等)
安芸・祝屋城(以下「祝屋城」とする。)は、これまで五龍城(広島県安芸高田市甲田町上甲立)や、安芸・宍戸氏の墓(広島県安芸高田市甲田町)の稿でも少し触れているが、五龍城から北方約5キロの位置にあり、可愛川が東に大きくカーブする北岸に所在する。
【写真左】祝屋城遠望南東側から見たもので、主郭となるのが東郭群。
東麓を可愛川(江の川)が抉るようにカーブしている。
現地の説明板より
“祝屋(巌屋)城址
第6代五龍城主宍戸元家が1504(永正元)年築城。五龍城を長男元源(もとよし)に譲り、次男隆兼、三男家俊とともに移り住んだ。
隆兼は祝屋城主となり、当地の地名深瀬氏を名乗った。1600(慶長5)年周防三丘(みつお)に移るまで4代96年間在城した。
1540(天文9)年6月、尼子国久、誠久(まさひさ)、久幸の三将は将兵3千余を率いて、備後路から志和地の八幡山城に陣を進めた。そして祝屋城、五龍城を陥れた後、郡山城へ迫る計画であった。
尼子勢に対して、深瀬隆兼、宍戸隆家が祝屋城前の犬飼平、江の川石見堂の渡しの合戦で激しく防戦し、遂に尼子勢を敗退させ、備後路からの吉田郡山城攻めを諦めさせた。
甲田町教育委員会“
【写真左】南東麓付近 登城口付近を示したもので、現在麓は農道や干陸された田圃が広がる。
深瀬
祝屋城の北東端にある塩谷から川が合流し、さらには祝屋城の南麓には、南西側の谷からも川が流れこみ、この大きくカーブする地点でこれら2本の川が合流している。
こうしたこともあって、当時この付近の可愛川(江の川)の川幅は築堤されていないこともあり、おそらく200m前後はあったものと思われる。またその地名である「深瀬」からも想像されるように、祝屋城の東麓は対岸から簡単に渡河できない深い川床を持った地勢であったと考えられる。換言すれば、この江の川が重要な濠の役目をしていたものと思われる。
築城期
祝屋城の築城期は、説明板によると永正元年(1504)となっているが、明応7年(1498)の記録に、大内義興(大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)参照)が、宍戸氏救援に際し「岩屋城の守りを固めるよう指示した」とあり(『安芸高田お城拝見~山城60ベストガイド~』)、これ以前からすでに築城されていた可能性が高い。
因みに、毛利元就はこの前年・明応6年(1497)に郡山城で毛利弘元の次男として生まれている。
【写真左】登城口 岩屋城址と筆耕された石碑と、そのそばに説明板が置いてある。
深瀬(宍戸)隆兼
祝屋城の城主である深瀬隆兼は、説明板にもあるように、甲立の五龍城主であった宍戸元家の次男で、永正6年(1509)、隠居した父元家と三男家俊とともにこの城に移った。
ところで、宍戸氏が毛利氏と和睦したのは天文2年(1533)で、それまでは両者の領地は隣接していたことから度々戦いが行われている。このころは両者はほぼ対等の力を誇示していたこともあり、翌天文3年の正月、元就自ら五龍城を訪れ、元就の長女五龍姫と、宍戸元源の嫡孫隆家との婚儀を決めている。毛利氏にとって後に宍戸氏の存在は大きな力となっていく。
【写真左】深瀬氏の墓 鳥獣対策用の入口を開けてしばらく進むと、御覧の五輪塔群が目に留まった。深瀬氏一族のものといわれている。
祝屋城麓の合戦
尼子氏が毛利元就の居城吉田郡山城攻めを行ったのは、天文9年(1540)9月のことである。その前哨戦といわれるのが、説明板にもあるように、同年6月新宮党(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)を主力とする尼子国久らによる祝屋城麓での合戦である。
【写真左】八幡山城遠望所在地 広島県三次市志和知町
可愛川の支流板木川の東岸にある八幡山城。祝屋城から東に直線距離でおよそ2.4キロほどの位置になる。
尼子国久らが陣城とした八幡山城は、永正13年(1516)頃に三吉致高(むねたか)(比叡尾山城(広島県三次市畠敷町)参照)によって築かれた。この段階では三好致高は、尼子氏に属し、祝屋城攻めの先導役などを務めている。おそらく致高自ら国久らに対し、持城である八幡山城を陣城として提供したのだろう。
【写真左】竪堀 登城途中に見えたもので、上の方まで延びている。
対する隆兼らは、祝屋城及びその東方にあった犬飼平に井楼(せいろう)・塁棚などの要害を築いて対峙、可愛川挟んでの対陣となった。そして隆兼軍には兄である五龍城主・元源及びその息子父などが救援に駆け付け、尼子国久軍らを撃退させた。
この戦いのあと、尼子軍の先導役を務めた三吉致高は尼子氏から離れ、毛利方につくことになる。
【写真左】西側郭群が見えてきた。 手前の郭段が少し高くなっている。
居館的丘城
祝屋城は比高80mほどの丘城である。そして山城としての防御性に関しては少し脆弱性が感じられる。当城の特徴としては、まとまった郭群が東西に分離し、周辺部の遺構にも特筆されるようなものが少ない。
可愛川北岸の麓から登り口があり、東西の郭群の間にある竪堀を越えると、そこから西郭群、東郭群へと分岐する。西郭群は東西におよそ50m程の尾根に郭を2,3段配置し、西端部に堀切を介した単純な構造となっている。
【写真左】西側郭 奥行20m×幅10m前後のもので、奥に行くに従い細くなる。
メインとなるのは東郭群で、虎口直前の斜面に井戸を設け、そこから腰郭が控え、その上に東西に延びた連郭式の遺構が残る。
西端部には土塁があり、中央の郭が主郭と思われるが、かなりフラットに削平されていることからこの個所に何棟かの建物があったものと考えられ、積極的な戦闘形式の城郭ではなく、居館的要素の強い城郭と思われる。
また、東郭群の東端部で角になった箇所には3段の郭があり、祝屋城の東方にある谷との境に物見台的なものがあったものと思われる。
【写真左】堀切 西側郭群の西端部にあるもので、北側に向かうと谷を形成しており、防御性からも効果が高い。
このあと東郭群に向かう。
【写真左】西郭群と東郭群の境付近 左が東郭群側で右側が西郭群となるが、概ね東西郭間の比高差は20m前後となる。
【写真左】井戸跡 西郭群から南側の道を東郭群に向かって進むと、途中で井戸跡がある。この位置にあることから、東西両方の位置からも使いやすかったものと思われる。
この上に東郭群が配置されているが、険峻な切岸である。
【写真左】突然、猪に遭遇 この位置から約5m程先の斜面で「ガサガサ」と音がしたと思ったら、丸々と太った巨大な猪が突然出てきた。どうやら爆睡していたようだ。
管理人と連れ合いは普段から賑やかなクマよけの鈴などを鳴らして登城しているのだが、その音でも目覚めなかったらしく、起きた瞬間びっくりして、バランスを崩し、崖から2,3mほど転がった。
しかし、すぐに体勢を立て直し、奥の方へ逃げて行った。それにしても、あの猪がこっちに向かってきたらひとたまりもなかっただろう。このあと、この先の東郭群の踏査をどうするか迷ったが、リュックについているクマよけの鈴をさらに良く鳴るようにセットし直し、向かった。
奇麗に削平されている。
【写真左】土塁 西側にあるもので、南北に延び、下にある腰郭側にも西側に配置されている(下段の写真参照)。
上の段から見たもので、下の郭にある土塁の幅はやや小ぶりなもの。
【写真左】東郭群中心部西から東にかけて3,4段の郭で構成されているが、全体に段差は低い。
中央の郭は少し高くなっている。
【写真左】フラットな郭 東郭群の北東隅にあるもので、上との比高差は7,8m前後ある。
【写真左】塩谷側 最下段の郭から下の方を見たもので、塩谷側になるが、急峻である。
【写真左】虎口 東郭の入口付近
【写真左】祝屋城登城口から八幡山城を遠望する。 手前の田圃とその奥を走る国道54号線の間には可愛川(江の川)が流れる。当時は手前の田圃も川幅を広げ大きく蛇行した可愛川だったのだろう。
教徳寺
祝屋城の近くには深瀬氏所縁の教徳寺がある。
当院開祖といわれるのが、五龍城主宍戸元家の四男歌之介元隆で、幼少期から出家を希望し、大永3年(1523)本願寺10代証如(三木城(兵庫県三木市上の丸)参照)に帰依し、法名了西を賜る。
浄土真宗本願寺派 正源山教徳寺
所在地 安芸高田市甲田町深瀬1222
帰国後、兄元源、次兄隆兼が弟了西のためにこの地に一宇を建立した。永禄3年(1560)3月、2代了円のとき、本願寺より寺号教徳寺を拝受す。慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後毛利・宍戸ともに防長にいくように命があったものの、門信徒の懇請によりこの地に残り現在に至っている。
0 件のコメント:
コメントを投稿