2012年12月17日月曜日

堀の城(広島県安芸郡熊野町城之堀区字城之堀)

堀の城(ほりのじょう)

●所在地 広島県安芸郡熊野町城之堀区城之堀
●別名 城山・嵩山城
●築城期 中世
●築城者 不明
●城主 菅田豊後守
●形態 直線状連郭式山城
●高さ 標高不明(比高30m前後)
●登城日 2012年7月16日

◆解説(参考文献『熊野町史 通史編』等、『日本城郭体系第13巻』等)
 前稿榊森城(広島県安芸郡熊野町新宮区字坂ノ美堂)で紹介した山城で、榊森城から174号線を4キロほど南下したところにある丘城である。
【写真左】堀の城遠望
 北側から見たもので、麓を東西(左右)に道路が走っている。









 現地の説明板より

“堀の城址(嵩山城)
     熊野町城之堀区字城之堀

城郭の形態 直線状連郭式や舞いj路
築城の時代 中世
由来
 「菅田豊後守の居城といわれる」(芸藩通史より)
 天文の兵乱(1550年頃)のとき、菅田豊後守は、毛利元就によって滅ぼされ落城、同時に菩提寺の石水寺(光教坊の前身)も焼失する(光教坊の縁起より)。

   熊野町教育委員会”
【写真左】堀の城址略図
 本丸部分のうち、西側が削り取られ、道路が設置されている。
 本丸を躱して迂回するように道路を造れば残ったと思われるが、残念である。










熊野町の城跡

『熊野町史』によれば、当町に名を残す城砦としては次のものがあるという。
  1. 土岐城(登岐城)
  2. 嵩山城
  3. 堀の城
  4. 魁城(海山城)
  5. 榊森城  榊森城(広島県安芸郡熊野町新宮区字坂ノ美堂)参照
以上のものは凡そ比定地は確定しているものの、いずれも詳細な記録がない。そして、これらとは別に、「閥閲録」や「毛利譜録」に記されている「熊野要害」がある。
  •  大永7年(1527)2月7日、大内義興が安芸新城を攻略し、ついで熊野城を攻略した(「萩閥62」)。
【写真左】削り取られた本丸と、その跡に設置された道路。
 西側から見たもので、右側の竹藪部が城砦として残る。





 この熊野城が熊野要害のことで、熊野町史によれば、土岐城が熊野要害ではないかとしている。なお、安芸新城というのは、現在の東広島市河内町上河内にある城砦(H:380m)と思われる。

 ところで、大永年間初期は、尼子経久が安芸の東西条を支配下に収め、現在の熊野町も含め、安芸の守護武田氏をはじめ、天野・阿曽沼・毛利らも一時同氏に従っていた。上記の2城も当然ながら尼子氏の属城となっていたわけである。
【写真左】北東部から見る。
 写真の奥に井戸跡があったようだ。
【写真左】西側から二の丸・三の丸を見る。
 手前は田圃があり、遺構部分は殆どご覧のような竹林となっている。
【写真左】北側から四の丸を見る。
 略図によれば、本丸・二の丸・三の丸・四の丸のそれぞれの間には堀切が構築されているという。
 各郭段との段差は、手前の棚田のそれとほぼ同じ程度のものであることが想像される。
 



堀の城と菅田氏一族

 さて、堀の城については、前述したように、江戸時代文政年間に編集された「芸藩通誌」以外に詳しいものはなく、「菅田豊後守の居城で、向背に聳える「嵩山城の出丸にてもあらんか」という記録しかない。
【写真左】嵩山(城山)城遠望
 堀の城跡から振り返るとほぼ真上(北西方向)に見える。
 標高593m、郭・堀切などが遺構としてあるといわれている。





 そして、この菅田豊後守は東方の槌山城主であった菅田越中守宣真の一族で、その支配下にあり、嵩山に拠りながらこの堀の城を居館としたのではないか、と推測されている。

 確かに山城としては、写真でも分かるように、昭和55年に農道を設置する際、本丸の2/3を削ってしまい、全体の遺構を確認することは困難となっているが、全体に小規模な城塞である。
【写真左】本丸東端部
 道路から見上げたもので、東端部は切崖となっていることが分かる。




 従って、嵩山はこの堀の城の北方に聳える山で、堀の城は居館もしくは、嵩山の出丸的な位置づけだったものと思われる。

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