榊森城(さかきもりじょう)
●所在地 広島県安芸郡熊野町新宮区字坂ノ美堂
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 高根氏
●高さ 210m(比高20m)
●遺構 郭・井戸
●備考 榊森神社
●登城日 2012年7月6日
◆解説(参考文献 サイト『城郭放浪記』『榊森神社の歴史・由緒』等)
榊森城は広島県の熊野町(安芸郡)の北東部にあって、海田町を流れる瀬野川の支流熊野川沿いに築かれた山城である。
【写真左】榊森城(榊森神社)
参道横の道付近
この右側に神社がある。
現地の説明板より(その1)
“榊森城跡
熊野町新宮字区坂ノ美堂
築城の時代 中世
由来 不詳
本丸を中心に東西に一つずつの郭が形成されており、その下に一段の帯郭が造られています。北面に堀切を造り防御を固くしています。近くには、井戸跡らしい遺構もあります。
榊森神社との関係は現在よくわかっていません。
熊野町教育委員会”
【写真左】榊森城配置図
本殿前(右側)から下がっていく方に遺構があると勘違いしてしまい、そちらの方のみ探訪してしまった。
本丸や帯郭などは本殿の向背の山側のようだ。
幸い、『城郭放浪記』氏が当該地を踏査されているのでご覧いただきたい。
現地の説明板より(その2)
“榊森神社(新宮大明神)
熊野町新宮区宮ノ首
祭神 速玉男命 菊理姫命 事解男命
由来
古くは、野山大多山麓に鎮座(現在の小田山(魁城山)と思われます)されていました。
当村出身の城主・高根氏が鎮守し村民の氏神を兼ねていましたが、落城の後、宮林という所に小祠を建てたといわれています。境内が狭く不便であったので、嘉元年中(1303~05)私有林と神田とを交換して現在の地に転遷しました。
熊野町教育委員会”
【写真左】本殿・その1
この後方の山に三の丸・本丸などがある。
サイト「榊森神社の歴史・由緒」によれば、古来「新宮明神」として大多山麓に鎮座されていて、その後、登岐山を居城としていた高根氏が氏神として祀ったという。そして、第51代天城天皇(へいぜいてんのう)の大同2年、榊森城が落城した後、氏神社してはじめて宮林に造営。
境内が狭く、参詣往来も不便であったことから、戦国期の元亀年中に、明神山(現在の宮前)に移転(遷宮)したとある。
榊森城そのものについての記述がないため、当城の由来についてもはっきりしない。ただ、「大同2年、落城云々」と書かれていることを考えると、相当古い城砦と考えられる。というのも大同2年は、西暦807年であり、この前年空海が帰朝して真言宗を始めた頃である。
【写真左】本殿・その2
東西に長い境内で、100m前後の幅と30m前後の奥行を持つ。
三の丸の下段位置にあたることから、当時はこの場所も城砦の一部として使用されていたのだろう。
中世山城より古い山城を古代山城と呼んでいるが、これらは「日本書紀」「続日本紀」に出てくるもので、期間は概ね7世紀のものが多い。
榊森城と登岐山(城)などは、それより200年下った9世紀ごろに築かれている。この頃築かれたものとしては、延暦2年(802)1月9日、坂上田村麻呂が築いた胆沢城(岩手県奥州市水沢区佐倉河)などが知られる。
【写真左】参道
現在は横から車で入る道がつけられているが、当時はこの鳥居下の道が参道として使用されていたと思われる。
【写真左】土岐(登岐)城遠望
高根氏が居城としていたといわれる城砦で、北西にある嵩山城(堀の城)の属城ともいわれている。
●所在地 広島県安芸郡熊野町新宮区字坂ノ美堂
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 高根氏
●高さ 210m(比高20m)
●遺構 郭・井戸
●備考 榊森神社
●登城日 2012年7月6日
◆解説(参考文献 サイト『城郭放浪記』『榊森神社の歴史・由緒』等)
榊森城は広島県の熊野町(安芸郡)の北東部にあって、海田町を流れる瀬野川の支流熊野川沿いに築かれた山城である。
【写真左】榊森城(榊森神社)
参道横の道付近
この右側に神社がある。
現地の説明板より(その1)
“榊森城跡
熊野町新宮字区坂ノ美堂
築城の時代 中世
由来 不詳
本丸を中心に東西に一つずつの郭が形成されており、その下に一段の帯郭が造られています。北面に堀切を造り防御を固くしています。近くには、井戸跡らしい遺構もあります。
榊森神社との関係は現在よくわかっていません。
熊野町教育委員会”
【写真左】榊森城配置図
本殿前(右側)から下がっていく方に遺構があると勘違いしてしまい、そちらの方のみ探訪してしまった。
本丸や帯郭などは本殿の向背の山側のようだ。
幸い、『城郭放浪記』氏が当該地を踏査されているのでご覧いただきたい。
現地の説明板より(その2)
“榊森神社(新宮大明神)
熊野町新宮区宮ノ首
祭神 速玉男命 菊理姫命 事解男命
由来
古くは、野山大多山麓に鎮座(現在の小田山(魁城山)と思われます)されていました。
当村出身の城主・高根氏が鎮守し村民の氏神を兼ねていましたが、落城の後、宮林という所に小祠を建てたといわれています。境内が狭く不便であったので、嘉元年中(1303~05)私有林と神田とを交換して現在の地に転遷しました。
熊野町教育委員会”
【写真左】本殿・その1
この後方の山に三の丸・本丸などがある。
サイト「榊森神社の歴史・由緒」によれば、古来「新宮明神」として大多山麓に鎮座されていて、その後、登岐山を居城としていた高根氏が氏神として祀ったという。そして、第51代天城天皇(へいぜいてんのう)の大同2年、榊森城が落城した後、氏神社してはじめて宮林に造営。
境内が狭く、参詣往来も不便であったことから、戦国期の元亀年中に、明神山(現在の宮前)に移転(遷宮)したとある。
榊森城そのものについての記述がないため、当城の由来についてもはっきりしない。ただ、「大同2年、落城云々」と書かれていることを考えると、相当古い城砦と考えられる。というのも大同2年は、西暦807年であり、この前年空海が帰朝して真言宗を始めた頃である。
【写真左】本殿・その2
東西に長い境内で、100m前後の幅と30m前後の奥行を持つ。
三の丸の下段位置にあたることから、当時はこの場所も城砦の一部として使用されていたのだろう。
中世山城より古い山城を古代山城と呼んでいるが、これらは「日本書紀」「続日本紀」に出てくるもので、期間は概ね7世紀のものが多い。
榊森城と登岐山(城)などは、それより200年下った9世紀ごろに築かれている。この頃築かれたものとしては、延暦2年(802)1月9日、坂上田村麻呂が築いた胆沢城(岩手県奥州市水沢区佐倉河)などが知られる。
【写真左】参道
現在は横から車で入る道がつけられているが、当時はこの鳥居下の道が参道として使用されていたと思われる。
【写真左】土岐(登岐)城遠望
高根氏が居城としていたといわれる城砦で、北西にある嵩山城(堀の城)の属城ともいわれている。
0 件のコメント:
コメントを投稿