紫城(むらさきじょう)
●所在地 岡山県高梁市備中町平川後北
●築城期 元暦年間(1184)~建武年間(1334~1338)
●築城者 藤原資親、平川掃部介源高親
●城主 平川氏
●高さ 600m(比高100m前後)
●遺構 郭・土塁・虎口・堀切等
●登城日 2012年10月21日及び、2013年7月10日
◆解説(参考文献「史跡 紫城址(平川の歴史をかたる会編)、『日本城郭体系第13巻』等)
紫城は以前紹介した軽尾城(岡山県高梁市備中町西油野)の南方、成羽川のダム湖(備中湖)の対岸に築かれた山城である。
【写真左】紫城遠望・その1
南西麓から見たもの。
紫城のある平川は備中国(岡山県)西端部で、備後国(広島県)との境目に当たる。
登城したこの日、広島県側の神石高原町から向かったが、成羽川上流部から笹尾・豊松・中平・有木など狭い林道のような道を走っていると、中世の面影がそのまま残っている雰囲気が感じられた。
【写真左】紫城遠望・その2
北東麓を流れる成羽川にかかる新成羽川ダム付近から見上げたもので、谷底から見るとさすがに険阻な景観である。
そして備中に入った途端、山間部ではあるが開けた平川の集落が見えた。平川の地区は高低差は神石高原町とさほど変わらないものの、全体に中腹部まで開墾された畑や集落が点在し、日差しが明るい箇所が多い。
このことは、長い歴史を持った平川氏が、代々築き上げてきた景観でもあるだろう。
【写真左】紫城と軽尾城の位置図
紫城と軽尾城との間は、直線距離で約2キロほどだが、中世戦国期は現在のようなダム湖でなかったこともあり、成羽川が形成する険峻な奥深い谷が往来を困難にしていたこともあり、たがいに関わった記録は今のところ見えない。
【写真左】北方の西油野の山並み
紫城の北麓は成羽川の水を蓄えた新成羽川ダムによる貯水池が東西に長く伸びている。
この写真に見える奥の山並みは、それらダム湖の対岸にある西油野方面だが、右側の山の奥には以前紹介した軽尾城(岡山県高梁市備中町西油野)がある。
現地の説明板より
“紫城史
この城は鎌倉時代の建武3年(1336)当時の穴門郷の領家職として、近江国(滋賀県)野洲郡平川荘より、平川掃部介源高親が当地を拝領し、紫城を築き領主として本郷を支配した。高親は出身地の平川荘の地名をもって平川氏と名乗り、当郷に自分の名を与え、平川村と称したのである。
一方本城と平川氏の館をより強固にするため、次々と支城を築き、金護山城・北丸之城・大原田城・山根城等に一族を配置強化し、一大城域を形成し、初代高親から親倫まで10代に亘り、この城を継ぎ当地を治めてきたのである。
【写真左】登城口付近
登城口手前100m付近には道路左側に駐車場が設置されている。
御親切に登城用に杖も備えてあり、地元の方々の熱心さが伝わる。
時は天文9年(1540)9月1日、出雲の尼子晴久は平川氏が毛利となれば、備中の諸士も皆毛利に属するのを恐れ、尼子の軍勢は米倉平内正勝を大将として、1千騎をもって一の木戸、萩垣の根まで押し寄せる。
そこで9代目平川三郎右衛門尉久親は、先頭に立ち300騎を二手に分け、谷間で敵の本陣を迎えた。
軍将米倉は広場で備えを直そうとして、兵士を退かせるのをすかさず攻め込み、尼子の軍将正勝に向け矢を放ち、鎧の千檀の板に射ち込んだ、軍士それをようやく助け、備後国の奴可郡(比婆郡)菅城(すげじょう)まで引き返すが、軍将米倉は深手を負って他界し、軍も出雲まで引き返したという。
【写真左】麓の集落
少し進むとご覧の風景が眼下に見える。起伏に富んだ山並みながら、なだらかな地形が多いせいか、高所まで田畠や家が点在している。
このようにして紫城を中心に、この地域一帯で激しい戦闘があったことであろう。それを物語るのが、この地で見られるおびただしい数の室町期の五輪塔である。
こうして260年の長きに亘る紫城も、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦を機に廃城となり、以後、徳川幕府直轄地となったのである。そして城主平川氏は領主的庄屋として、数代に亘りこの平河村を治めてきたりしと哉。
平成22年8月吉日 平川の歴史をかたる会”
【写真左】鳥居附近の登城口
駐車場から200m程度進むと、ご覧の鳥居が建つ登城口が見える。
登城道は鳥居を潜っていくものと、その右側から進むコースの二通りあるようだ。
この日は右側から進む。
平川村
紫城の城主平川氏については、説明板にもあるように、現在の滋賀県にあった野洲郡平川荘から入部したとされる。この野洲郡平川荘というのは、おそらく野洲市西南部三上地区付近と思われ、野洲川東岸部と思われる。
【写真左】城域入口付近の土橋と堀切
鳥居付近から歩いて10分程度で城域にたどり着く。道も管理されていて歩きやすい。
この場所は南側に当たり、土橋道の右には堀切がある。
先ず堀切側の方へ進む。
【写真左】見張り櫓
現地には「堀切」と命名してあったが、実態は長い空堀といったほうがよさそうな遺構を残し、南東端には「見張り櫓」がある。
空堀との比高は2m弱程度。
さて、平川氏が備中国に入り平川村を扶植したとあるが、当地と関わった別の一族が記録上残っている。
それは、今月投稿した出雲国(島根県)の奥出雲の馬来氏が領地した馬木地区の信原氏(星田)という一族である。馬来氏関係の投稿の際、同氏については言及していなかったが、馬来氏が所領した真木村は、文禄5年(1595)ごろを最後とし、その後以下の者が当地を治めることになった。
雲州仁田郡真木村配当之件
そして信原氏は、戦国期の天文元年(1532)、尼子方として活躍し、治郎右衛門は忠節を賞され備中国井原の土地を安堵され、先祖の土地に近いところに移住している。
【写真左】三の檀
東西29.3m×南北15.5mの規模を持ち、構えの塀として下底幅3.5m、上幅1.0m、高さ1.2mの土塁が西南東を囲繞する。
米倉平内正勝と米原氏
さて、説明板にある天文9年(1540)の紫城攻めの際、尼子の軍将として米倉平内正勝が一千騎を以て攻めたと記されている。
尼子氏がもっとも勢力を拡大していた時期は、概ね天文年間(1532~55)である。紫城を攻めた天文9年(1540)は、尼子氏の最強軍団新宮党(国久)(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)が美作に入り、美作・高田城や笹向城などを攻め落としている。おそらく、紫城攻めもその一環として備中国攻めが行われたのだろう。
ところで、この米倉平内正勝という武将だが、管理人の手持ち資料には尼子家臣団として「米倉」なる姓の武将の名が全く見えない。
【写真左】二の檀・その1
三の檀を過ぎると、約2mほどの高さを持って二の檀が控える。
二の檀は主郭を囲むように、南から西に回り、さらに北側にも連続している。
【写真左】二の檀・その2
右側が二の檀で、左の高くなったところが主郭になる。
どういう経緯で米倉なる武将名が記録されたのか分からないが、この米倉という姓名には疑義が持たれる。
結論から言って、米倉ではなく、「米原」ではなかったかと考えられる。
なぜなら、米倉の後につく「平内」は、米原氏が代々つけていたもので、尼子家臣団の一人であった出雲国高瀬城(島根県斐川町)主・米原綱寛は、米原平内兵衛綱寛といった。
また、以前取り上げた米原氏の出身地・太尾山城(滋賀県米原市米原)その1でも紹介したように、応仁元年(1467)の段階で、既に米原平内四郎の名が見え、さらに、興味深いこととして、尼子経久の父・清貞の代に、米原宗勝入道が出雲に来住したという記録も見える。
こうしたことから、米倉(米原)平内正勝は、この宗勝入道の嫡男ではなかったかと想像される。
出雲米原氏の流れ
以上のことを踏まえると、出雲国に初めて来住したのは、米原宗勝入道で、その嫡男平内正勝は、この天文9年の備中紫城攻めにおいて戦死。おそらく正勝には嫡男がなく、当時近江国にあって六角定頼の元に養子に入っていた治綱の子・綱広を出雲米原氏(平内正勝)の跡継ぎとしたのではないだろうか。
正勝に嫡男がなかったとする理由は、その後「勝」の字を冠した米原氏が跡を継いでいないことや、その後綱広及び綱寛と、「綱」の字を持つ名が続いたことからである。
【写真左】主郭・その1
二の檀から1.5m程度高くなった位置に構成され、東西31m×南北38mの略方形の規模を持つ。
紫城
さて前置きが長くなってしまったが、当城・紫城については、現地を訪れた際、「平川の歴史をかたる会」という団体によって編集された資料がおいてあり、当城が地元の方々によって熱心に維持管理されていることを感じた。
この資料によると、築城期は『日本城郭体系第13巻』に記されている建武3年よりさらに古く、元暦年中(1184)藤原資親の代までさかのぼるという。
【写真左】主郭・その2
ほぼ中央部に当城の説明板が設置されてある。またその傍らには祠跡らしき石積みが残る。
遺構概要は、主郭・二の檀・三の檀からなり、三の檀には土塁があり、中央部には虎口が設けられている。南東端及び北西100mほどの2か所には見張櫓台があり、二の檀の西側に搦手門があった。
紫城を守備する支城としては、
●所在地 岡山県高梁市備中町平川後北
●築城期 元暦年間(1184)~建武年間(1334~1338)
●築城者 藤原資親、平川掃部介源高親
●城主 平川氏
●高さ 600m(比高100m前後)
●遺構 郭・土塁・虎口・堀切等
●登城日 2012年10月21日及び、2013年7月10日
◆解説(参考文献「史跡 紫城址(平川の歴史をかたる会編)、『日本城郭体系第13巻』等)
紫城は以前紹介した軽尾城(岡山県高梁市備中町西油野)の南方、成羽川のダム湖(備中湖)の対岸に築かれた山城である。
南西麓から見たもの。
紫城のある平川は備中国(岡山県)西端部で、備後国(広島県)との境目に当たる。
登城したこの日、広島県側の神石高原町から向かったが、成羽川上流部から笹尾・豊松・中平・有木など狭い林道のような道を走っていると、中世の面影がそのまま残っている雰囲気が感じられた。
【写真左】紫城遠望・その2
北東麓を流れる成羽川にかかる新成羽川ダム付近から見上げたもので、谷底から見るとさすがに険阻な景観である。
そして備中に入った途端、山間部ではあるが開けた平川の集落が見えた。平川の地区は高低差は神石高原町とさほど変わらないものの、全体に中腹部まで開墾された畑や集落が点在し、日差しが明るい箇所が多い。
このことは、長い歴史を持った平川氏が、代々築き上げてきた景観でもあるだろう。
【写真左】紫城と軽尾城の位置図
紫城と軽尾城との間は、直線距離で約2キロほどだが、中世戦国期は現在のようなダム湖でなかったこともあり、成羽川が形成する険峻な奥深い谷が往来を困難にしていたこともあり、たがいに関わった記録は今のところ見えない。
【写真左】北方の西油野の山並み
紫城の北麓は成羽川の水を蓄えた新成羽川ダムによる貯水池が東西に長く伸びている。
この写真に見える奥の山並みは、それらダム湖の対岸にある西油野方面だが、右側の山の奥には以前紹介した軽尾城(岡山県高梁市備中町西油野)がある。
現地の説明板より
“紫城史
この城は鎌倉時代の建武3年(1336)当時の穴門郷の領家職として、近江国(滋賀県)野洲郡平川荘より、平川掃部介源高親が当地を拝領し、紫城を築き領主として本郷を支配した。高親は出身地の平川荘の地名をもって平川氏と名乗り、当郷に自分の名を与え、平川村と称したのである。
一方本城と平川氏の館をより強固にするため、次々と支城を築き、金護山城・北丸之城・大原田城・山根城等に一族を配置強化し、一大城域を形成し、初代高親から親倫まで10代に亘り、この城を継ぎ当地を治めてきたのである。
【写真左】登城口付近
登城口手前100m付近には道路左側に駐車場が設置されている。
御親切に登城用に杖も備えてあり、地元の方々の熱心さが伝わる。
時は天文9年(1540)9月1日、出雲の尼子晴久は平川氏が毛利となれば、備中の諸士も皆毛利に属するのを恐れ、尼子の軍勢は米倉平内正勝を大将として、1千騎をもって一の木戸、萩垣の根まで押し寄せる。
そこで9代目平川三郎右衛門尉久親は、先頭に立ち300騎を二手に分け、谷間で敵の本陣を迎えた。
軍将米倉は広場で備えを直そうとして、兵士を退かせるのをすかさず攻め込み、尼子の軍将正勝に向け矢を放ち、鎧の千檀の板に射ち込んだ、軍士それをようやく助け、備後国の奴可郡(比婆郡)菅城(すげじょう)まで引き返すが、軍将米倉は深手を負って他界し、軍も出雲まで引き返したという。
【写真左】麓の集落
少し進むとご覧の風景が眼下に見える。起伏に富んだ山並みながら、なだらかな地形が多いせいか、高所まで田畠や家が点在している。
このようにして紫城を中心に、この地域一帯で激しい戦闘があったことであろう。それを物語るのが、この地で見られるおびただしい数の室町期の五輪塔である。
こうして260年の長きに亘る紫城も、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦を機に廃城となり、以後、徳川幕府直轄地となったのである。そして城主平川氏は領主的庄屋として、数代に亘りこの平河村を治めてきたりしと哉。
平成22年8月吉日 平川の歴史をかたる会”
【写真左】鳥居附近の登城口
駐車場から200m程度進むと、ご覧の鳥居が建つ登城口が見える。
登城道は鳥居を潜っていくものと、その右側から進むコースの二通りあるようだ。
この日は右側から進む。
平川村
紫城の城主平川氏については、説明板にもあるように、現在の滋賀県にあった野洲郡平川荘から入部したとされる。この野洲郡平川荘というのは、おそらく野洲市西南部三上地区付近と思われ、野洲川東岸部と思われる。
【写真左】城域入口付近の土橋と堀切
鳥居付近から歩いて10分程度で城域にたどり着く。道も管理されていて歩きやすい。
この場所は南側に当たり、土橋道の右には堀切がある。
先ず堀切側の方へ進む。
【写真左】見張り櫓
現地には「堀切」と命名してあったが、実態は長い空堀といったほうがよさそうな遺構を残し、南東端には「見張り櫓」がある。
空堀との比高は2m弱程度。
さて、平川氏が備中国に入り平川村を扶植したとあるが、当地と関わった別の一族が記録上残っている。
それは、今月投稿した出雲国(島根県)の奥出雲の馬来氏が領地した馬木地区の信原氏(星田)という一族である。馬来氏関係の投稿の際、同氏については言及していなかったが、馬来氏が所領した真木村は、文禄5年(1595)ごろを最後とし、その後以下の者が当地を治めることになった。
雲州仁田郡真木村配当之件
- 大馬木 1500石 信原弥五郎
- 小馬木 800石 星田内蔵助
- 同 500石 今井左馬之助
- 同 456石 那須与惣右衛門
- 大馬木 16石 百弘三郎兵衛
文禄5年2月19日 佐石 判
(毛利家奉行 佐世元嘉)
(信原氏蔵文書)
上記の中で、星田内蔵助は元は三村内蔵助親貞といい、三村氏の一族で、文禄5年の所替え前は、「備中国川上郡平川村」を支配していたという。
また信原氏についても三村氏の一族とされ、建武3年8月2日付による将軍直義判物によれば、始祖信原朝貞の嫡男・宗貞が、
- 雲州仁田郡(仁多郡)真木村事早任当知行之旨
そして信原氏は、戦国期の天文元年(1532)、尼子方として活躍し、治郎右衛門は忠節を賞され備中国井原の土地を安堵され、先祖の土地に近いところに移住している。
【写真左】三の檀
東西29.3m×南北15.5mの規模を持ち、構えの塀として下底幅3.5m、上幅1.0m、高さ1.2mの土塁が西南東を囲繞する。
米倉平内正勝と米原氏
さて、説明板にある天文9年(1540)の紫城攻めの際、尼子の軍将として米倉平内正勝が一千騎を以て攻めたと記されている。
尼子氏がもっとも勢力を拡大していた時期は、概ね天文年間(1532~55)である。紫城を攻めた天文9年(1540)は、尼子氏の最強軍団新宮党(国久)(新宮党館(島根県安来市広瀬町広瀬新宮)参照)が美作に入り、美作・高田城や笹向城などを攻め落としている。おそらく、紫城攻めもその一環として備中国攻めが行われたのだろう。
ところで、この米倉平内正勝という武将だが、管理人の手持ち資料には尼子家臣団として「米倉」なる姓の武将の名が全く見えない。
【写真左】二の檀・その1
三の檀を過ぎると、約2mほどの高さを持って二の檀が控える。
二の檀は主郭を囲むように、南から西に回り、さらに北側にも連続している。
【写真左】二の檀・その2
右側が二の檀で、左の高くなったところが主郭になる。
どういう経緯で米倉なる武将名が記録されたのか分からないが、この米倉という姓名には疑義が持たれる。
結論から言って、米倉ではなく、「米原」ではなかったかと考えられる。
なぜなら、米倉の後につく「平内」は、米原氏が代々つけていたもので、尼子家臣団の一人であった出雲国高瀬城(島根県斐川町)主・米原綱寛は、米原平内兵衛綱寛といった。
また、以前取り上げた米原氏の出身地・太尾山城(滋賀県米原市米原)その1でも紹介したように、応仁元年(1467)の段階で、既に米原平内四郎の名が見え、さらに、興味深いこととして、尼子経久の父・清貞の代に、米原宗勝入道が出雲に来住したという記録も見える。
こうしたことから、米倉(米原)平内正勝は、この宗勝入道の嫡男ではなかったかと想像される。
出雲米原氏の流れ
以上のことを踏まえると、出雲国に初めて来住したのは、米原宗勝入道で、その嫡男平内正勝は、この天文9年の備中紫城攻めにおいて戦死。おそらく正勝には嫡男がなく、当時近江国にあって六角定頼の元に養子に入っていた治綱の子・綱広を出雲米原氏(平内正勝)の跡継ぎとしたのではないだろうか。
正勝に嫡男がなかったとする理由は、その後「勝」の字を冠した米原氏が跡を継いでいないことや、その後綱広及び綱寛と、「綱」の字を持つ名が続いたことからである。
【写真左】主郭・その1
二の檀から1.5m程度高くなった位置に構成され、東西31m×南北38mの略方形の規模を持つ。
紫城
さて前置きが長くなってしまったが、当城・紫城については、現地を訪れた際、「平川の歴史をかたる会」という団体によって編集された資料がおいてあり、当城が地元の方々によって熱心に維持管理されていることを感じた。
この資料によると、築城期は『日本城郭体系第13巻』に記されている建武3年よりさらに古く、元暦年中(1184)藤原資親の代までさかのぼるという。
【写真左】主郭・その2
ほぼ中央部に当城の説明板が設置されてある。またその傍らには祠跡らしき石積みが残る。
遺構概要は、主郭・二の檀・三の檀からなり、三の檀には土塁があり、中央部には虎口が設けられている。南東端及び北西100mほどの2か所には見張櫓台があり、二の檀の西側に搦手門があった。
紫城を守備する支城としては、
- 金護山城 城主 平川景親 下郷宮
- 北丸之城 城主 江草右京 前北
- 大原田城 城主 大原田又十郎
- 山根城 城主 物部郷
なお、紫城から2キロほど南下すると、居館跡があったとされているが、どのあたりなのか管理人にはわからない。
また、平川氏菩提寺とされた曹洞宗・観音院という古刹には、同氏累代の墓があるという。残念ながら、このことを知ったのは登城を終えて数日たってからだったため、訪れていない。(下段追記参照)
【写真左】搦手門
二の檀の西方部に残るもので、劣化があるものの虎口の形態を維持している。
【写真左】二の檀の北東端
紫城は南西麓から遠望するとなだらかな山城に見えるが、二の檀の北~東面に立つと険峻な切崖構造となっている。
この方向を下ると成羽川(ダム湖)に繋がる。
歓音院
前回訪れたあと、翌13年に歓音院を訪れたので紹介しておきたい。
【写真左】歓音院 山門
平成19年に落慶されたとある記念碑に縁起等が謹書されていたので、抄出する。
“田口山観音寺本堂 客殿 庫裏改築
落慶記念碑
當山25世 住職 明苑健善 謹書
奈良時代行基菩薩の開創と伝えられている当山は、南北朝時代の文和元年(1352)に改めて平川掃部介高親の開基により喜外大澤和尚臨済宗として開山。
【写真左】遠望
下って室町時代の大永3年(1523)澄山租潭和尚(善福寺4世)曹洞宗に改宗し再興開山。不幸江戸時代2度にわたり焼失し元文4年(1739)再々建。爾来本堂は260有余年庫裡は昭和の初期民家を移築、共に老朽化甚だしく全面改築が懸案となって推移するなか、平成15年(2003)明苑健善和尚・堀井寶総代長遂に協議決断。護持会役員改築方針決定、檀信徒の協賛寄進申し出状況を踏まえ、同16年設計着手、翌17年6月起工、同18年(2006)12月落成。
【写真左】五輪塔群
山門脇に整然と並んでいる。おそらく改築に合わせて移設されたものだろう。
その本堂・客殿・庫裏は合わせて延べ497㎡(151坪)、木造瓦葺・一部2階建て。
ここに、待望の落慶式典を迎えるにあたり、当改築は超過疎地にあって高齢・離村の著しいなか檀信徒等しく三宝帰依のもと可能な限りの力を結集して遂行したものであることを敢えて付言し、幾久しい当山の護持興隆・檀信徒子々孫々の安寧を祈願しながら万感の思いをこめて、この碑を建立する。
平成19年5月20日 観音寺本堂等建設委員会”
【写真左】搦手門
二の檀の西方部に残るもので、劣化があるものの虎口の形態を維持している。
【写真左】二の檀の北東端
紫城は南西麓から遠望するとなだらかな山城に見えるが、二の檀の北~東面に立つと険峻な切崖構造となっている。
この方向を下ると成羽川(ダム湖)に繋がる。
歓音院
前回訪れたあと、翌13年に歓音院を訪れたので紹介しておきたい。
【写真左】歓音院 山門
平成19年に落慶されたとある記念碑に縁起等が謹書されていたので、抄出する。
“田口山観音寺本堂 客殿 庫裏改築
落慶記念碑
當山25世 住職 明苑健善 謹書
奈良時代行基菩薩の開創と伝えられている当山は、南北朝時代の文和元年(1352)に改めて平川掃部介高親の開基により喜外大澤和尚臨済宗として開山。
【写真左】遠望
下って室町時代の大永3年(1523)澄山租潭和尚(善福寺4世)曹洞宗に改宗し再興開山。不幸江戸時代2度にわたり焼失し元文4年(1739)再々建。爾来本堂は260有余年庫裡は昭和の初期民家を移築、共に老朽化甚だしく全面改築が懸案となって推移するなか、平成15年(2003)明苑健善和尚・堀井寶総代長遂に協議決断。護持会役員改築方針決定、檀信徒の協賛寄進申し出状況を踏まえ、同16年設計着手、翌17年6月起工、同18年(2006)12月落成。
【写真左】五輪塔群
山門脇に整然と並んでいる。おそらく改築に合わせて移設されたものだろう。
その本堂・客殿・庫裏は合わせて延べ497㎡(151坪)、木造瓦葺・一部2階建て。
ここに、待望の落慶式典を迎えるにあたり、当改築は超過疎地にあって高齢・離村の著しいなか檀信徒等しく三宝帰依のもと可能な限りの力を結集して遂行したものであることを敢えて付言し、幾久しい当山の護持興隆・檀信徒子々孫々の安寧を祈願しながら万感の思いをこめて、この碑を建立する。
平成19年5月20日 観音寺本堂等建設委員会”
平川のことをたいへんよく調査された。
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