高櫓城跡(たかやぐらじょうあと)
現在当城を含めた区域は、「目田森林公園」として整備され、地元民の憩いの場としても活用されている。公園として整備されているため、当時の城下の遺構は改変されているようだが、上部の本丸周辺はほとんど改変されていない。
◎亀井永綱
永綱が高櫓城の城主となったのは、当然ながら尼子経久の意向による。経久が出雲国を次第に扶植しつつあった時期と思われるので、その節目は永正5年(1508)、大内義興が足利義稙を援護して入京した際、経久他、石見国の諸将も同行し、内外ともに出雲国の主将であることを誇示した頃であると思われる。
同稿(「伊秩城跡 その1」)でも記したように、落城した伊秩城には、伊秩元苗を置き、東方の高櫓城には、本城常光を置いている。なお、それまでの亀井秀綱がなぜ交代させられたのか、理由はよくわからない。
本城常光誅殺の後、当城に入ったのが毛利氏の寵臣(ちょうしん)であった熊谷少輔九郎右近太夫広実である。その時の申付け状は次のとおりである。
“須佐高矢倉要害城督申付候。よって須佐500貫、乙立(おったち)35貫、古志内(こしのうち)100貫、遣わし置き候、全(まさ)に申付けらるべき状件の如し。
●所在地 島根県出雲市佐田町反辺慶正
●登城日 2008年3月2日
●築城期 不明(文明18年:1486年?)
●築城者 不明
●城主 亀井永綱、本城越中守経(常)光、熊谷右近太夫広実
●標高 320m
●遺構 郭、堀切、帯郭、礎石建物(本丸・二の丸・三の丸)、石碑、井戸、馬場、五輪塔等
●別名 須佐城、高矢倉城
◆解説(参考文献「佐田町史」「島根県遺跡データベース」等)
先月の投稿で取り上げた「伊秩城」の中でも少し触れているが、当城は出雲市佐田町にある山城である。伊秩城からは、佐田町を流れる神戸川を約6キロほど下り、出雲市佐田支所の附近で同川が北に方向を変える位置の南方の高櫓山に築城されている。
出雲市佐田支所手前の東麓からみたもので、中央の山であるが、この角度からみると特に北側は険峻な様相を呈し、要害堅固な山城であることを思わせる。
なお、手前の橋を流れているのが神戸川である。
現在当城を含めた区域は、「目田森林公園」として整備され、地元民の憩いの場としても活用されている。公園として整備されているため、当時の城下の遺構は改変されているようだが、上部の本丸周辺はほとんど改変されていない。
ところで、出雲部の山城として旧市町村の中では、頓原町と並んで佐田町内には多くの山城や砦が残っている。参考までに示すと、佐田町には53カ所、頓原町には54か所(「島根家遺跡データベース」より)と群を抜いて多い。この理由は、佐田町についていえば、当時の出雲国と石見国の境目(特に石見銀山と近接)であり、頓原町については、出雲国と備後・安芸国との境目であったことから、戦略上多く造られたと思われる。
【写真左】目田森林公園と高櫓城本丸遠望
公園内もおそらく元の城砦施設があったものと思われるが、写真にあるように多くの施設が建っているため、当時の遺構を確認することは困難だ。
◎亀井永綱
築城期ははっきりしない。伊秩城の稿でも記したように、当城のある須佐地域は元は国司直轄領であったことから、近隣の郷より遅れて築城されたようだ。記録で初めて見える城主は、亀井永綱である。
彼は尼子氏に属し、その祖は佐世氏と同じく湯氏である。湯氏は現在の玉造温泉のある湯庄を領していた。このため、亀井永綱の元の名は、湯三郎左衛門永綱ともいっていたという。彼は、同じ尼子氏に仕えた石見国余世城主・多胡辰敬(ときたか)の女を娶る。
公園奥にある「殿様墓」とその由来説明板
この説明板では、亀井永綱の在城年数を35年としている。
写真には、宝篋印塔二基があり、熊谷広実夫妻のものという。
二人の間にできた子の一人・新十郎真矩(まさのり)は、後に山中鹿助の女を娶り、外舅(がいきゅう)・亀井秀綱の家名を継ぎ、以後亀井真矩となり、さらに真矩を改め、亀井玆矩と名乗った。その後よく知られているように、彼は後に豊臣秀吉に仕え、功により因幡鹿野城主となり、その子・政矩は石見津和野藩主となっていく。
さて、永綱の話に戻るが、高櫓城の城主となった時期について、佐田町史では、おそらく文明18年(1486)以後から永禄年間(1558~69)以前であろうとしている。その理由として、新井白石が著した藩翰譜の中に「父永綱(玆矩の父)の代に至って、当国須佐の城に住す」と記されているからとしている。
目田公園そのものがかなり高い位置にあるため、この場所から本丸まではあまり時間はかからない。おそらく5分程度で行けたと記憶している。
帰国後、記録によると、永正7年(1510)4月16日には、尼子経久の指示により、大社領と日御碕社領の境界に制札を打たせるべく、亀井秀綱が御碕検校にその旨を伝えている(「日御碕神社文書」)。その後、永正16年(1519)7月13日になると、亀井秀綱は、国造・千家豊俊に杵築大社神官別火某の上官職を安堵させている(「千家文書」)。
【写真左】本丸下の郭
本丸の南方に郭が2段程度造られている。このときは、南北の眺望がよく確認できた。
以上のように、重要な執務・権限を行使していることから、このころには秀綱が高櫓城の城主として、采配をふるっていたと考えられ、当城に入城したのは、永正7年(1510)前後と考えられる。
◎本城常光
さて、そのあとの城主とされているのが、以前にも取り上げた本城常光である。彼については、謎とされている部分が多く、高櫓城に在城した時期なども、周辺の状況から推測していくしかない。
本城常光については、昨年(2009年)3月投稿で紹介しているので、そちらをご覧いただきたいが、高櫓城に入ったのは、結論からいえば、大永3年(1523)と考えられる。
【写真左】井戸跡
この時期については佐田町史も同様の結論を出しているが、その理由は、先月取り上げた「伊秩城」が落城した時期と関係する。伊秩城が最初に落城したのは、同年3月である。
同稿(「伊秩城跡 その1」)でも記したように、落城した伊秩城には、伊秩元苗を置き、東方の高櫓城には、本城常光を置いている。なお、それまでの亀井秀綱がなぜ交代させられたのか、理由はよくわからない。
大正10年8月、村の青年団が中心となって熊谷広実350年の遠忌を営んだという。このとき、桐原家・横山家などゆかりの人々を集め山上祭りも行う。
写真にある祠などはおそらくその時祀られた宇佐八幡の御神霊や、昭和12年本殿、拝殿の新造、昭和46年の改築のものと思われる。
本城常光が高櫓城に拠ってからは、尼子・毛利の抗争はさらに激しくなり、特に石見銀山をめぐる戦いはよく知られている。その間の詳細は省略するが、常光が高櫓城に入城した大永3年(1523)から37年後の永禄3年(1560)6月、銀山をめぐる両者の大戦の一つである「新原崩れ」によって、尼子方の勝利があり、常光は高櫓城と併せ「石見銀山山吹城」の城主も兼ねることになった。
石碑は秋葉大権現のものか、あるいは天王を祀ったといわれている石碑と思われる。
この先は断崖絶壁で、当城の要害さがよくわかる。
その後、毛利元就の懐柔策によって、常光は毛利方に属したものの、彼の所業は元就の檄に触れ、永禄5年11月5日寅の刻、誅殺された。このときの場所として挙げられている一つが、現在の斐川町学頭軍原とされている。佐田町史にはそのくだりを次のように記している。
“…本城の指揮する須佐勢は、出雲郡学頭軍原というところに陣取り、毛利方より月山富田城攻めの指示を待つべく、安堵の陣を敷いていたときである。
元春は軍議の結果、永禄5年11月5日寅の刻(午前5時)、船を集めて学頭軍原の本城の陣所へ湖水(宍道湖)を渡り二千の兵をもって、鯨波(ときのこえ)をあげて取り囲み、本城勢の不意を襲って夜討をかけた。本城勢は防戦したものの、多勢に無勢で遂に一人残らず討死し、吉田勢(元春側)の中にも手負い死人の数は少なからずあった。戦いが終わったのは、同日の未(ひつじ)の下刻(午後3時)で、実に10時間にわたる激闘となった。
【写真左】本丸北端から北方を見る
写真の谷には神戸川が流れ、出雲市・大社方面に下る。なお、途中には奇岩で有名な景勝地・立久恵峡がある。
本城父子(長男・久光は石州都賀にいたが、討手を遣わし、興宅寺において誅殺)並びに、家臣らの首は、獄門に掛置き、元春は、出雲郡上之郷(かんのご)・舟津の出雲大川(斐伊川)を渡り、上の江に陣を進め、須佐高櫓城番へ軍使をたてた。曰く
「このたび、本庄越中守常光、近年罪道邪佞(ざいどうじゃねい)のこと数多きため、討ち果たし、諸々の軍勢共残りなく誅伐せり。城預かりの者は、今後毛利に従い、忠勤を励む心あらば、本領を安堵させ、一同を召抱え申さむ。さもなくば攻め落とし、罪科を行うが如何や」
「このたび、本庄越中守常光、近年罪道邪佞(ざいどうじゃねい)のこと数多きため、討ち果たし、諸々の軍勢共残りなく誅伐せり。城預かりの者は、今後毛利に従い、忠勤を励む心あらば、本領を安堵させ、一同を召抱え申さむ。さもなくば攻め落とし、罪科を行うが如何や」
と申し伝えた。城中一同は驚き入り、「違背致しまず」と誓ったので、召抱えられた。…”
◎熊谷広実
本城常光誅殺の後、当城に入ったのが毛利氏の寵臣(ちょうしん)であった熊谷少輔九郎右近太夫広実である。その時の申付け状は次のとおりである。
“須佐高矢倉要害城督申付候。よって須佐500貫、乙立(おったち)35貫、古志内(こしのうち)100貫、遣わし置き候、全(まさ)に申付けらるべき状件の如し。
永禄5年(1562)霜月(11月)23日
隆元(元就の長男) 判
元就 判
熊谷少輔九郎 殿”
高櫓城から南に下った途中の道端にあるもので、大正15年偶然墓碑が発掘されたという。分骨したのか、または回向塔なのか、判明していない、と記されている。
熊谷広実は、平家物語の「一の谷源平合戦」で名高い関東武者・熊谷直実の後裔・15代目である芸州三入(広島県可部町)の高松城主・熊谷信直の三男である。
永禄12年(1569)6月、山中鹿助は尼子勝久を擁して隠岐国から出雲国に入った。そして勝久は高櫓城にも使者を送り、高櫓城開城を熊谷氏に迫った。
佐田町史では、このとき広実は在城し、父信直が九州へ転戦中とし、尼子の使者を切り捨てたとある。その後尼子方は大いに怒り、高櫓城を攻め、熊谷の手兵はよく防戦し、尼子方を退けたので、翌元亀元年(1570)6月、輝元から感状を賜った、とある。
ただ、「毛利四代」によれば、この時の高櫓城に在任していたのは、広実ではなく、「信正」となっている。信正なる人物がどういう関係のものか不明だが、どちらにしても熊谷姓であるので、一族であることは間違いない。
その後広実は、感状を賜った2ヶ月後の8月25日、病のため亡くなる。享年33歳だった。結局高櫓城には足掛け9年ほどの短い在任となった。広実の跡は、子の与右衛門元実が継いだが、最終的には慶長5年末、高櫓城・熊谷氏一族郎党(三入高松城の熊谷氏も)、毛利氏と共に萩の城下、一部は岩国の城下へ経ち退いた。高櫓城の廃城もその時をもってなされたものと思われる。
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