勝山城(かつやまじょう)
●所在地 鳥取県鳥取市気高町勝見
●登城日 2008年2月29日
●築城期 興国年間(1340~46)
●築城者 首藤氏
●形式 山城
●城主 首藤豊後守、(尼子豊後守正久)
●標高 80m(比高60m)
◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」等)
「鹿野城」から北へ3,4キロむかったJR山陰線浜村駅の南にみえる安寧山という小山に築城されている。
【写真左】勝山城配置図
「西国三十三所観音霊場めぐり」という図が掲示され、本丸、二の丸、三の丸の配置は書かれているものの、勝山城そのものの遺構については、ほとんど触れていない。
西方を大手とし、東麓にある長泉寺側が搦手となっていた。現在は写真にもあるように、城址公園として整備されたため、遺構はかなり改変されたようで、山城ファンにとっては、あまり見るべきものがない。
記録によれば、本丸は東西55m、南西14mのいびつな形状で、北にある二の丸は、方15間(約27m)、二の丸の南にある三の丸は、北西・南東約18mなどであったという。
【写真左】入口付近
山城として確認できる唯一の看板
築城者とされている首藤氏は、興国年間に山名氏に随従して因幡国に入り、当地を領し築城されたといわれている。
この後の内容について、「日本城郭大系14巻」(以下「14巻」とする)によれば、
「永禄年間(1558~70)、出雲尼子氏の、部将尼子豊後守正久が、伯耆を経て因幡に侵入し、勝山城を落城させて、首藤氏に代わって城主となった。」
とある。この記事の元となった出典が、「因幡志」、「因伯古城跡図志」「勝見名跡志」「気高町誌」とあるので、この中のいずれかの史料からの孫引きと思われるが、文中の尼子豊後守正久という人物については、他の尼子氏関係史料にほとんど見えない。
【写真左】本丸跡の公園
平坦な公園となって、遺構跡を表示するものなどは全くない。
永禄年間という時期を考えると、尼子晴久の晩年(永禄3年没)で、その後は、嗣子・義久の代頃になる。
しかもこの時期に尼子氏が因幡に侵入するような勢いはなく、むしろ守勢に立たされていた時期である。
さらに、「14巻」では、
「ついで、天正(1573~92)のはじめ、羽柴(豊臣)秀吉の命を受け鹿野城の亀井新十郎が、近隣の諸城を攻めたが、勝山城は堅固で容易に落とすことができなかった。ある時、亀井新十郎は謀をめぐらし、気高町宝木の奥の坂本集落の「化(けば)の河原」に人数を伏せておいた。村人がこのことを勝山城に知らせたので、尼子正久は兵を率いてそれを攻めた。その隙に亀井新十郎は一隊を率いて勝山城を攻め、これを落としたといわれている」
とある。
【写真左】西端部より日本海を見る。
本丸跡の西端部だが、この角度の眺望はまずまずである。
亀井新十郎(玆矩)が、そもそも尼子方(正久)の立てこもる城に攻め入るということ自体が、矛盾した話である。 以上のことから、「14巻」の勝山城に関するこうした逸話は、後世になって創作された話としておきたい。
●所在地 鳥取県鳥取市気高町勝見
●登城日 2008年2月29日
●築城期 興国年間(1340~46)
●築城者 首藤氏
●形式 山城
●城主 首藤豊後守、(尼子豊後守正久)
●標高 80m(比高60m)
◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」等)
「鹿野城」から北へ3,4キロむかったJR山陰線浜村駅の南にみえる安寧山という小山に築城されている。
【写真左】勝山城配置図
「西国三十三所観音霊場めぐり」という図が掲示され、本丸、二の丸、三の丸の配置は書かれているものの、勝山城そのものの遺構については、ほとんど触れていない。
西方を大手とし、東麓にある長泉寺側が搦手となっていた。現在は写真にもあるように、城址公園として整備されたため、遺構はかなり改変されたようで、山城ファンにとっては、あまり見るべきものがない。
記録によれば、本丸は東西55m、南西14mのいびつな形状で、北にある二の丸は、方15間(約27m)、二の丸の南にある三の丸は、北西・南東約18mなどであったという。
【写真左】入口付近
山城として確認できる唯一の看板
築城者とされている首藤氏は、興国年間に山名氏に随従して因幡国に入り、当地を領し築城されたといわれている。
この後の内容について、「日本城郭大系14巻」(以下「14巻」とする)によれば、
「永禄年間(1558~70)、出雲尼子氏の、部将尼子豊後守正久が、伯耆を経て因幡に侵入し、勝山城を落城させて、首藤氏に代わって城主となった。」
とある。この記事の元となった出典が、「因幡志」、「因伯古城跡図志」「勝見名跡志」「気高町誌」とあるので、この中のいずれかの史料からの孫引きと思われるが、文中の尼子豊後守正久という人物については、他の尼子氏関係史料にほとんど見えない。
【写真左】本丸跡の公園
平坦な公園となって、遺構跡を表示するものなどは全くない。
永禄年間という時期を考えると、尼子晴久の晩年(永禄3年没)で、その後は、嗣子・義久の代頃になる。
しかもこの時期に尼子氏が因幡に侵入するような勢いはなく、むしろ守勢に立たされていた時期である。
さらに、「14巻」では、
「ついで、天正(1573~92)のはじめ、羽柴(豊臣)秀吉の命を受け鹿野城の亀井新十郎が、近隣の諸城を攻めたが、勝山城は堅固で容易に落とすことができなかった。ある時、亀井新十郎は謀をめぐらし、気高町宝木の奥の坂本集落の「化(けば)の河原」に人数を伏せておいた。村人がこのことを勝山城に知らせたので、尼子正久は兵を率いてそれを攻めた。その隙に亀井新十郎は一隊を率いて勝山城を攻め、これを落としたといわれている」
とある。
【写真左】西端部より日本海を見る。
本丸跡の西端部だが、この角度の眺望はまずまずである。
亀井新十郎(玆矩)が、そもそも尼子方(正久)の立てこもる城に攻め入るということ自体が、矛盾した話である。 以上のことから、「14巻」の勝山城に関するこうした逸話は、後世になって創作された話としておきたい。