岩熊城(いわくまじょう)跡
◆登城日 2008年3月17日
●所在地 雲南市大東町 養賀 岩熊
●築城期 中世 ●遺跡種別 城館跡
●築城主 室町時代末期、馬田豊前守
●標高 97m
●遺跡の現状 畑地、山林 土塁 郭 堀切 馬場 殿屋敷(室町時代末期)
●備考 別名 馬田城跡
【写真左】岩熊城登城口付近
場所は、JR木次線と並行して走る県道157号線の北の脇にある。写真のように地元の商工会が設置した立派な看板が立っている。なお、県道157線は大変に道が狭いため、この登城口付近には駐車できない。この日はこの場所より東に約100mほど隔てた空き地に車をとめて向かった。
◆解説(参考文献:「尼子・大内・毛利氏60年戦史」(吉村雅雄著)など)
●前稿までは時代的に戦国時代を中心とした雲南地方の山城を取り上げてきたが、今回取り上げる岩熊(山)城は、記録を見る限り、約100年さかのぼった室町時代後期に主に使用されている。
●応仁元年(1467)に勃発したいわゆる応仁の乱は、山陰の地でも東軍と西軍に別れた構図になっていった。同年5月20日、出雲・隠岐国守護・京極持清は、細川勝元率いる東軍へ、石見国守護であった山名政清は、山名宗全率いる西軍方へと向かった。
●このころの出雲・隠岐国守護であった京極持清は、次第に室町幕府同様、その支配力が弱まっていた。このため、地元の国人領主であった三沢氏や、松田氏らにとっては、この機会に守護京極氏を排除しようとしていた。
【写真左】岩熊城遠望
県道157号線の脇にある山城で、小規模である。写真は西側に見える茶畑側から撮ったもの。
●ところで、尼子氏が正式に守護代として認知されたのは、応仁の乱が勃発する前といわれ、史料によっては清定の父・持久の時代で、明徳3年(1392)との説(「陰徳太平記」)もある。
しかし、以前にも示したように、守護代は、地元に在住しないと職務を全うできない監理権限者であるから、応永9年(1402)に初めて野崎武右衛門に従って、尼子持久が月山冨田城に入城した以後と考えられる。
●野崎氏がこのときどういう立場でいたか詳細は不明だが、おそらく京極氏から直接指示を受けていた人物と思われ、尼子氏が守護代として確立するまでの後見人役のようなものだったと考えられる。
●さて、応仁2年6月、富田城に近い安来荘の国人領主・松田備前守が富田荘内へ侵入してくる。松田氏は、承久の乱の戦功により安来荘地頭職としてやってきた名族である。
【写真左】東郭と西郭を分ける位置(堀切りか)
最初に掲載した登城口付近の案内板から想像して、さぞかし遺構部にも説明板などがあるものと期待したところ、現地はほとんど管理されておらず、倒木や伸び放題の竹林などが繁茂し、この写真の位置までしか入ることができなかった。
この写真のくぼみ部分が、遺跡データと照合すると東郭と西郭を区分する位置と思われる。ちなみに東郭のほうが相当大きく、本丸はこの場所にあるものと思われる。
●尼子清定としては、先に松田氏が先攻してきたことにより、兵を動かす名目ができ、この戦いが実質上、尼子氏の出雲部における所領拡大のいわばスタートとなった。このときは松田氏の居城・十神山城までは落とせなかったが、勝ち戦であった。
●その後、7月には月山冨田城の北西部・出雲郷(あだかい)の春日城を攻める。8月、再び十神山城とその支城(安来の八幡・冨尾の両城)を攻める。
【写真左】西郭部分
この郭の大きさは目測だが、長径100m、短径30m程度である。
●9月に入ると、清定は軍を南西の方向に転じ、今回取りあげる岩熊城(別名・馬田城)を攻略する。このときの城主が、馬田豊前守といわれている。馬田豊前守については詳しい史料がないため断定はできないが、この地(大東町養賀地域)は、同町内東部に君臨した牛尾氏の所領地とも近いので、何らかの関係があったものと思われる。
【写真左】東郭方向を見る
西郭から東郭にかけては、堀切形状で、しかもその高低差がかなりあり、急峻になっている。
なお、この東郭の南端部も切崖状態で、登城口はこの日訪れた南側だけでなく、北側にもあるように思われる。(北側に小学校があったので、案外その方向からのアクセスできる道があるかもしれない)
◆感想
当城探訪で少し残念だったのは、南側の窪み(遺構かどうか不明)に、不燃物など大量のゴミが捨ててあったことだ。
昨今は、こうした道端の小山などにゴミが捨てられてているケースが多い。指定史跡ではないかもしれないが、山城という遺構を持つ場所にも、こうしたことが増えていくのはなんとも辛いものがある。
◆登城日 2008年3月17日
●所在地 雲南市大東町 養賀 岩熊
●築城期 中世 ●遺跡種別 城館跡
●築城主 室町時代末期、馬田豊前守
●標高 97m
●遺跡の現状 畑地、山林 土塁 郭 堀切 馬場 殿屋敷(室町時代末期)
●備考 別名 馬田城跡
【写真左】岩熊城登城口付近
場所は、JR木次線と並行して走る県道157号線の北の脇にある。写真のように地元の商工会が設置した立派な看板が立っている。なお、県道157線は大変に道が狭いため、この登城口付近には駐車できない。この日はこの場所より東に約100mほど隔てた空き地に車をとめて向かった。
◆解説(参考文献:「尼子・大内・毛利氏60年戦史」(吉村雅雄著)など)
●前稿までは時代的に戦国時代を中心とした雲南地方の山城を取り上げてきたが、今回取り上げる岩熊(山)城は、記録を見る限り、約100年さかのぼった室町時代後期に主に使用されている。
●応仁元年(1467)に勃発したいわゆる応仁の乱は、山陰の地でも東軍と西軍に別れた構図になっていった。同年5月20日、出雲・隠岐国守護・京極持清は、細川勝元率いる東軍へ、石見国守護であった山名政清は、山名宗全率いる西軍方へと向かった。
●このころの出雲・隠岐国守護であった京極持清は、次第に室町幕府同様、その支配力が弱まっていた。このため、地元の国人領主であった三沢氏や、松田氏らにとっては、この機会に守護京極氏を排除しようとしていた。
【写真左】岩熊城遠望
県道157号線の脇にある山城で、小規模である。写真は西側に見える茶畑側から撮ったもの。
●ところで、尼子氏が正式に守護代として認知されたのは、応仁の乱が勃発する前といわれ、史料によっては清定の父・持久の時代で、明徳3年(1392)との説(「陰徳太平記」)もある。
しかし、以前にも示したように、守護代は、地元に在住しないと職務を全うできない監理権限者であるから、応永9年(1402)に初めて野崎武右衛門に従って、尼子持久が月山冨田城に入城した以後と考えられる。
●野崎氏がこのときどういう立場でいたか詳細は不明だが、おそらく京極氏から直接指示を受けていた人物と思われ、尼子氏が守護代として確立するまでの後見人役のようなものだったと考えられる。
●さて、応仁2年6月、富田城に近い安来荘の国人領主・松田備前守が富田荘内へ侵入してくる。松田氏は、承久の乱の戦功により安来荘地頭職としてやってきた名族である。
【写真左】東郭と西郭を分ける位置(堀切りか)
最初に掲載した登城口付近の案内板から想像して、さぞかし遺構部にも説明板などがあるものと期待したところ、現地はほとんど管理されておらず、倒木や伸び放題の竹林などが繁茂し、この写真の位置までしか入ることができなかった。
この写真のくぼみ部分が、遺跡データと照合すると東郭と西郭を区分する位置と思われる。ちなみに東郭のほうが相当大きく、本丸はこの場所にあるものと思われる。
●尼子清定としては、先に松田氏が先攻してきたことにより、兵を動かす名目ができ、この戦いが実質上、尼子氏の出雲部における所領拡大のいわばスタートとなった。このときは松田氏の居城・十神山城までは落とせなかったが、勝ち戦であった。
●その後、7月には月山冨田城の北西部・出雲郷(あだかい)の春日城を攻める。8月、再び十神山城とその支城(安来の八幡・冨尾の両城)を攻める。
【写真左】西郭部分
この郭の大きさは目測だが、長径100m、短径30m程度である。
●9月に入ると、清定は軍を南西の方向に転じ、今回取りあげる岩熊城(別名・馬田城)を攻略する。このときの城主が、馬田豊前守といわれている。馬田豊前守については詳しい史料がないため断定はできないが、この地(大東町養賀地域)は、同町内東部に君臨した牛尾氏の所領地とも近いので、何らかの関係があったものと思われる。
【写真左】東郭方向を見る
西郭から東郭にかけては、堀切形状で、しかもその高低差がかなりあり、急峻になっている。
なお、この東郭の南端部も切崖状態で、登城口はこの日訪れた南側だけでなく、北側にもあるように思われる。(北側に小学校があったので、案外その方向からのアクセスできる道があるかもしれない)
◆感想
当城探訪で少し残念だったのは、南側の窪み(遺構かどうか不明)に、不燃物など大量のゴミが捨ててあったことだ。
昨今は、こうした道端の小山などにゴミが捨てられてているケースが多い。指定史跡ではないかもしれないが、山城という遺構を持つ場所にも、こうしたことが増えていくのはなんとも辛いものがある。
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