2009年5月23日土曜日

三沢城(みさわじょう)その1・島根県奥出雲町仁多三沢

三沢城(みさわじょう)

●登城日 1回目 2007年3月2日、2回目 2009年5月19日その他
●所在地 奥出雲町仁多三沢  ●築城期 嘉元2年(1304)
●遺跡種別 城館跡  ●築城主 三沢為長
●標高 418m
●遺跡の現状 郭、帯郭、腰廓、土塁、石垣、堀切、虎口、櫓台
●備考 島根県指定史跡 
●別名  亀嶽城、鴨倉城(参考:島根県遺跡データベースより)

解説(サイトより)

三沢城の概要

 三沢氏居城として、1305年、開祖為仲が築造したもので、爾来十四代280余年に亘る居城の遺構を今に伝える貴重な遺跡である。

 この城跡は仁多郡の西南の隅み、三沢の中心にそびえる標高四百十八・五米の突出した独立の山、要害山であって、北に斐伊川、南は阿井川の清流にはさまれ、東は正面の山の麓を三沢川が帯のように流れ、西の山の裏は阿井川にそった二百数十米のきりたった崖で、まわりにこれより高い山はなく、自然の要害をうまく利用した本城と、布広域を結ぶ複合式遺構は出雲國人の築いたものでは、県内でもっとも大きいものといわれ、中世山城の代表的なものである。

 昭和39年、島根県史跡文化財として第1回の指定をうけ、つづいて昭和49年多くの山や土地の地主の方の賛同のもとに、山全体とそのまわりをふくむ広い範囲の第2回目の指定を受けている。
【写真左】三沢城遠望
 当城西側の下鴨倉側から見たもの。東側からの遠望できる場所もあるかもしれないが、絵柄的にはこの方向がいいようだ。本丸は写真の右側に設置されている。



【写真左】大手門石垣
 この山城の中で一番大きな石垣群で、近在でもこれだけ大きな石が使用されているところは少ない。

 なお、当時はこの石垣を利用して、出入口を四角に囲み、門を形成して中が見えないようにした「枡形」の施設があったらしい。この場所から、すぐに二の丸になる。



【写真左】二の丸付近
 二の丸の規模もかなり広くい。写真にはないが、この場所に炭焼き釜跡のような大きな穴が残っていた。

 当時のものか、近代のものか分からないが、平たん部の多いこの位置は戦国時代も含め人の活動痕跡が見受けられる

 次の写真は、この場所からほぼ同じ高さで北東部にも「十兵衛担(じゅうべいない)」と呼ばれる屋敷跡のような土塁・堀切りを駆使した遺構が残っている。

【写真左】「十兵衛担」入口付近
 「担」と書いて、「ない」と呼ぶのは初めて見た。
「担」は「にない」と呼ぶところから、「に」が省略され、「ない」という呼称が定着したものだろう。

 三沢城関係の他の史料では、郭と同義の「平坦部」の「坦」を用いて、当城には総計「48坦」の郭があるとしている。

 「十兵衛担」もそのうちの一つで、屋敷跡及び「馬出」の構えがあったという。また、別称として「十兵衛成」と記しているものもある。

 十兵衛という人名が残されているところからすると、三沢氏の重鎮であった「十兵衛」という武将の屋敷跡であったと思われる。
【写真左】十兵衛担の一部
 尾根筋のような地形部にはっきりと残る土塁を設け、さらに北東先端部に数段の堀切りなどを配置している。

 屋敷跡らしき平坦部はかなり広く、相当数の家臣が生活していたと思われる。
 なお、この先端部の途中から東部へ下る道が残っていることから、当時はこの道が平常時の生活道路だったかもしれない。全体に変化に富んだ遺構が多く見受けられる。
【写真左】三沢池
前記の「十兵衛坦」に向かう尾根左下の奥に「水の手」と呼ばれる個所がある。「三沢池」は出雲風土記にも出てくる池で、現在でも写真のように清水が湧き出ている。

 このあたりは三沢城周囲の中でもっとも水が多く出るところで、前記した十兵衛坦(屋敷)から近いこともあり、二の丸も含め、多くの将兵らが利用していたと思われる。



【写真左】鳥居丸城濠から本丸方向を見る
 二の丸から直接本丸に上がらず、帯郭を通ってぐるっと半周すると、地元中国電力の鉄塔が設置された築山に出くわす。

 その反対側が「鳥居丸城濠」といわれる「北郭群」の一つで、この位置から見ると、予想以上に本丸周辺の長径が長いことがわかる。






【写真左】鳥居丸城濠の上の段から見た「鳥居丸」側面











【写真左】古井戸跡
鳥居丸に残っているが、本丸とほぼ同じ標高位置なので、当時は相当深い井戸だったと思われる。











【写真左】諏訪社壇と呼ばれる所
元は大きな樹木があり、祠のような施設があったものと思われる。信州から下向した三沢氏(飯島氏)であるから、祭神は当然、諏訪社である。









【写真左】本丸城濠と呼ばれる堀切
鳥居丸・諏訪社壇のある郭と、本丸との間にはこの城濠が設置されている。堀深さは現在5,6m程度だが、当時はもっと深いものだったと想像される。







【写真左】本丸跡に建つ石碑
昭和40年代前半、当時の島根県知事・田部長衛門氏の筆による石碑である。









【写真左】本丸跡から北東部に見える出城「須我非山城」遠望
須我非山城は、三沢氏の出城で、標高は三沢城より高い。








【写真左】本丸下にある大正年間に設置された石碑


















【写真左】三沢氏の墓
 三沢城をいったん降りて、南側にいくとこんもりとした藪状の郭跡がある。

 この西側に一般の墓所と近接したところに宝篋印塔型の墓石4基が建っている。
三沢氏であることは間違いないようだが、何代目のものかは不明。




【写真左】円正堂といわれる社
上記三沢氏の墓がある郭からいったん区切られ、東側郭部分に設置されている。現在では「仁多札三十二番円照堂」という板表札がかかって、この境内にも数基の墓や地蔵が置かれている。







【写真左】成田館址(なりたかんし)と呼ばれた場所
 手前の畑付近が館跡で、その後ろの小山が砦跡になっている。

 円正堂や成田館址は、当時本丸の防衛前線基地で、このほかに現在民家や田畑になっているところも、これに付随した施設があったものと思われる。

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