三笠城その2
●前稿で取り上げた海潮(うしお)神社の脇道をさらに谷の奥に向かって約400mほど行くと、写真のような登城口の看板がある。
【写真左】三笠城登城口
写真のような道はここまでで、このあと三笠山の横腹を一気に登る険しい道が控えていた。しかも、ほとんど最近手入れされていない道で、山頂まで「500メートル」とあったが、実際はその倍を歩いたようなきつい山道だった。
【写真左】登城口付近からしばらく続く七曲登城道
当時からこの道が使われたいたか不明だが、斜面の傾斜はかなりきついほうだ。
この山の等高線を見る限り、傾斜が緩そうなルートは南西部の山裾の尾根元からが考えられるが、そのような記録がないため、この道が主要道だったかもしれない。 【写真左】途中にあった鉄塔付近 久しぶりに急峻な坂道を登ったという印象がある。しかも谷の脇や、七曲りが何度も続く。途中は石ころや、狭い道がほとんどで、油断していると下に落ちそうな状態が多い。以前登った鳥取の「羽衣石城」の雰囲気がある。
【写真左及び左下】石塁跡の看板と石積み この付近には石垣上の物が見えたが、どうやら看板にあるように、「戦いの際、攻め登る敵に対し投げ落とした防戦用の石」とのこと。看板そのものも、おそらく海潮神社のものと同じく、昭和55年当時設置されたものと思われる。
【写真左】弓矢に用いられた竹林この場所以外にも竹林はあったが、弓矢用としてはこの付近の太さの竹がおそらく一番いいのだろう。
【写真】きつい坂道が過ぎたころに見えた削平地おそらくこの場所は郭だったと思われる。
「新雲陽軍実記」によると三笠城について、次のようなくだりがある。
“牛尾高平城主・牛尾豊前守は、美作の升形城番として、昨年その地へ赴任していったので、高平城※にはその妻子と、幼少ながら養子の大蔵左衛門とが留守をしていた。そこで、三笠城の城主・牛尾弾正忠は、その留守に乗じ、山中鹿之助の加勢を受けて攻めかかった。
元亀元年(1570)三月上旬である。豊前守の妻女は武田刑部小輔信実の妹で、今巴(いまともえ)と異名をとるほどの女丈夫であった。よく城を守り通したので、弾正忠も攻め落とすことができなかった。そこでまず、三笠城を修理して、そこに立て篭もり、隙を見て高平城を攻め落とさんと考えていた。
元亀元年4月16日、吉川元春の家臣・田中務少輔経忠と香川兵部大夫春綱の二人は、300人余りの手兵を引き連れ、三笠城へ押し寄せた。小阪越中守・黒杭惣左衛門・足立彦左衛門・岡又十郎などの面々は、先頭切って攻め登って行った。城中からは大木、大石を落し、また礫(こいし)を投げつけ防いだので、香川の郎党・鉄櫃(かなびつ)弥三郎は石に当たって死に、香川・小阪・黒杭なども石にあたりあるいは大木に押さえられて気絶するものもあり、九死に一生を得て引き上げるものもあった。元春はこれを聞いて、
「かねがね抜駆けの功名は固く止めておいたにも関わらず、軍令に背いて味方を失うとは、言語道断の不埒者」
と大変な怒りであった。
【写真上】前記郭部分からのぼった途中にある大きな岩 登城道は石の左側を通るが、よく見ると岩の中から木が生えていた。さすがにこの岩を戦の際下に落とすことは不可能だったようだ。
城内では弾正忠の弟に隣西堂という僧がいて、降参のことを願い出てきたので、元春も承知し、城は円満に明け渡すばかりになっていた。ところが、その夜はたまたま城内から出火が起こり、小屋が二、三軒俄かに燃え上がり、陣所毎に類焼していった。これを見た毛利の諸軍勢は、
「さては自ら火を付けて焼き払うつもりらしい。攻め登って分捕りせよ」
とわれさきに攻めかかった。
城内では、思いもかけない火災のこととして、これが防火におわれて防ぎ戦う者もまれだった。何という不運であったか、もうこうなっては仕方がなかった。弾正忠兄弟をはじめ、隣西堂並びに家臣の恩田與市左衛門、飛石惣兵衛、岩田などは、煙の中を今が最後と切り込んでいたが、やがて恩田は内藤河内守に討たれ、長沢石見守は香川春綱に討たれたので、牛尾弾正忠は、その弟・甚次郎、並びにその妻と今年10歳になる女子を連れ、燃え上がる炎の中に飛び込んで死んだ。
その後、牛尾豊前守は、作州から呼び戻され、三笠城へ入れられてその領地を安堵されたのである。“
●この中の※高平城は三笠城のある三笠山の谷をはさんだ北側にある山城で、記録ではこの高平城も「別名牛尾城」となっているため、非常に紛らわしい。元々、三笠城の出城だったようだが、元亀元年の頃は、毛利方の詰城として占拠されているようだ。 登城口を探したが確認できなかった。
【写真左】本丸跡その1
2段の構成で、併せて400㎡前後か。本丸の大きさはその半分程度。館のようなものはなかったかもしれないが、小屋程度のものは数軒建てることができる大きさである。
【写真左】本丸跡その2
【写真左】本丸跡その3
●前稿で取り上げた海潮(うしお)神社の脇道をさらに谷の奥に向かって約400mほど行くと、写真のような登城口の看板がある。
【写真左】三笠城登城口
写真のような道はここまでで、このあと三笠山の横腹を一気に登る険しい道が控えていた。しかも、ほとんど最近手入れされていない道で、山頂まで「500メートル」とあったが、実際はその倍を歩いたようなきつい山道だった。
【写真左】登城口付近からしばらく続く七曲登城道
当時からこの道が使われたいたか不明だが、斜面の傾斜はかなりきついほうだ。
この山の等高線を見る限り、傾斜が緩そうなルートは南西部の山裾の尾根元からが考えられるが、そのような記録がないため、この道が主要道だったかもしれない。 【写真左】途中にあった鉄塔付近 久しぶりに急峻な坂道を登ったという印象がある。しかも谷の脇や、七曲りが何度も続く。途中は石ころや、狭い道がほとんどで、油断していると下に落ちそうな状態が多い。以前登った鳥取の「羽衣石城」の雰囲気がある。
【写真左及び左下】石塁跡の看板と石積み この付近には石垣上の物が見えたが、どうやら看板にあるように、「戦いの際、攻め登る敵に対し投げ落とした防戦用の石」とのこと。看板そのものも、おそらく海潮神社のものと同じく、昭和55年当時設置されたものと思われる。
【写真左】弓矢に用いられた竹林この場所以外にも竹林はあったが、弓矢用としてはこの付近の太さの竹がおそらく一番いいのだろう。
【写真】きつい坂道が過ぎたころに見えた削平地おそらくこの場所は郭だったと思われる。
「新雲陽軍実記」によると三笠城について、次のようなくだりがある。
“牛尾高平城主・牛尾豊前守は、美作の升形城番として、昨年その地へ赴任していったので、高平城※にはその妻子と、幼少ながら養子の大蔵左衛門とが留守をしていた。そこで、三笠城の城主・牛尾弾正忠は、その留守に乗じ、山中鹿之助の加勢を受けて攻めかかった。
元亀元年(1570)三月上旬である。豊前守の妻女は武田刑部小輔信実の妹で、今巴(いまともえ)と異名をとるほどの女丈夫であった。よく城を守り通したので、弾正忠も攻め落とすことができなかった。そこでまず、三笠城を修理して、そこに立て篭もり、隙を見て高平城を攻め落とさんと考えていた。
元亀元年4月16日、吉川元春の家臣・田中務少輔経忠と香川兵部大夫春綱の二人は、300人余りの手兵を引き連れ、三笠城へ押し寄せた。小阪越中守・黒杭惣左衛門・足立彦左衛門・岡又十郎などの面々は、先頭切って攻め登って行った。城中からは大木、大石を落し、また礫(こいし)を投げつけ防いだので、香川の郎党・鉄櫃(かなびつ)弥三郎は石に当たって死に、香川・小阪・黒杭なども石にあたりあるいは大木に押さえられて気絶するものもあり、九死に一生を得て引き上げるものもあった。元春はこれを聞いて、
「かねがね抜駆けの功名は固く止めておいたにも関わらず、軍令に背いて味方を失うとは、言語道断の不埒者」
と大変な怒りであった。
【写真上】前記郭部分からのぼった途中にある大きな岩 登城道は石の左側を通るが、よく見ると岩の中から木が生えていた。さすがにこの岩を戦の際下に落とすことは不可能だったようだ。
城内では弾正忠の弟に隣西堂という僧がいて、降参のことを願い出てきたので、元春も承知し、城は円満に明け渡すばかりになっていた。ところが、その夜はたまたま城内から出火が起こり、小屋が二、三軒俄かに燃え上がり、陣所毎に類焼していった。これを見た毛利の諸軍勢は、
「さては自ら火を付けて焼き払うつもりらしい。攻め登って分捕りせよ」
とわれさきに攻めかかった。
城内では、思いもかけない火災のこととして、これが防火におわれて防ぎ戦う者もまれだった。何という不運であったか、もうこうなっては仕方がなかった。弾正忠兄弟をはじめ、隣西堂並びに家臣の恩田與市左衛門、飛石惣兵衛、岩田などは、煙の中を今が最後と切り込んでいたが、やがて恩田は内藤河内守に討たれ、長沢石見守は香川春綱に討たれたので、牛尾弾正忠は、その弟・甚次郎、並びにその妻と今年10歳になる女子を連れ、燃え上がる炎の中に飛び込んで死んだ。
その後、牛尾豊前守は、作州から呼び戻され、三笠城へ入れられてその領地を安堵されたのである。“
●この中の※高平城は三笠城のある三笠山の谷をはさんだ北側にある山城で、記録ではこの高平城も「別名牛尾城」となっているため、非常に紛らわしい。元々、三笠城の出城だったようだが、元亀元年の頃は、毛利方の詰城として占拠されているようだ。 登城口を探したが確認できなかった。
【写真左】本丸跡その1
2段の構成で、併せて400㎡前後か。本丸の大きさはその半分程度。館のようなものはなかったかもしれないが、小屋程度のものは数軒建てることができる大きさである。
【写真左】本丸跡その2
【写真左】本丸跡その3
0 件のコメント:
コメントを投稿