2013年7月11日木曜日

西長尾城(香川県丸亀市綾歌町岡田上・仲多度郡まんのう町長尾)

西長尾城(にしながおじょう)

●所在地 香川県丸亀市綾歌町岡田上・仲多度郡まんのう町・長尾
●別名 国吉城
●築城期 応安元年(1368)
●築城者 長尾大隅守元高
●城主 長尾氏、国吉甚左衛門
●高さ 標高375.2m
●指定 丸亀市指定文化財
●遺構 郭・土塁・井戸・櫓・堀切・竪堀等
●登城日 2013年4月10日

◆解説
 西長尾城は、古来より讃岐国と阿波国を結ぶ主要な道の一つである現在の国道438号線の東側にあって、丸亀市と仲多度郡まんのう町の境をなす城山(H:375m)に築かれた城砦である。
【写真左】西長尾城遠望・その1
 北側から見たもの。
2015年3月14日撮影。
【写真左】西長尾城遠望・その2
 東側中腹部より見る。




【写真左】登城口付近
 登城口は何か所かあるようだが、この日は北麓部のレオマールドに向かう道の位置から向かった。

 ここから簡易舗装の道が整備されて、途中にある「語らいの広場」などへ車で向かうようになっているが、この日は入口付近で鎖による施錠がされていたため、道路脇の駐車場に車を置き、かなり長い距離を歩いて登った。


 現地の説明板より

“長尾城跡(国吉城跡)
     丸亀市指定文化財(平成16年9月27日)
歴史
 西長尾城は、丸亀平野南端、讃岐山脈の最前線ともいえる三山(大高見峰(おおたかみほう)・猫山・城山)の西端に位置する城山山頂(標高375.2m)付近に築かれている。初代城主は、細川頼之に協力して白峰合戦で活躍した長尾大隅守元高が応安元年(1368)にその座に就く。以降、代々の長尾大隅守によって200年近く守られてきた。
【写真左】遠望
 最初に「語らいの広場」という施設があり、この位置で北側から当城のなだらかな山容が見えるが、頂部手前から傾斜がきつくなっている。



 長尾一族は、この間に鵜足(うた)郡南部や那珂郡で勢力を増して岡田、栗隈(くりくま)、炭所(すみしょ)に支城を構える。丸亀平野南部地域を支配することにより、西長尾城は中讃地域の拠点としての地位を確立する。

 戦国時代が終わる頃、土佐の長宗我部元親が讃岐へ侵攻を始める。これに羽床(はゆか)氏(羽床城主)が奮戦するが、長宗我部氏との和平に同意した香川氏(天霧城主)が土佐方につき、仲介に入ったことから降伏した。
【写真左】レオマールド
 登り始めてしばらくすると、東側に見える。
 遊園地・おもちゃのテーマパークらしい。


 これによって長尾大隅守も長宗我部氏と和議を結ぶ。すぐさま、長宗我部氏の重臣だった国吉甚左衛門が入城したので長尾氏はこれに城主の座を譲る。このことから西長尾城は国吉城とも称される。

 天正13年(1585)、豊臣秀吉の全国統一に伴う四国征伐に屈し、長宗我部勢は土佐へ退却する。これにより西長尾城(国吉城)の歴史は幕を下ろす。
【写真左】西長尾城絵図
 現地に設置してあるもので、北側から見たものだが、右側(西側)の主郭を中心とした縄張りと、左側(南東側)のヤグラを両端部に配置した遺構との対比が面白い。



遺構

 山の至る所を人工的に切り盛りしており、曲輪(削平等により平らにした空間)や竪堀、堀切などの空堀(山の表面を溝状に掘り込んだもの)、土塁(曲輪の縁辺などに塀状に土を盛り上げたもの)などを装備する。
【写真左】櫓跡
 北側から登る登山道は殆ど簡易舗装された道となっているが、途中でそのコースから外れた「しろ(城)の道」という当時の遺構をそのまま残した箇所がある。

 ジグザグに登っていくと、長さ30m×幅20m程度の頂部があり、この箇所が櫓跡と思われる。
 この場所を過ぎると再び簡易舗装の道に出てそのまま広場(駐車場か)まで向かうことができる。しかし、管理人はその後再び当時の登城道(「北口」と表示された箇所から)があったのでこのコースを進んだ。


 山頂の主郭から北東に延びる2筋の尾根上には、それぞれ連郭式郭列と呼ばれる連続する大小様々な曲輪がつくられる。その両端部には、土塁が廻らされる。更にその側面部や外側には多くの空堀が配置される。これらの装備によって外部からの侵攻にたいする守りを強固にする。連郭式郭列に挟まれた谷筋には水の手曲輪と呼ばれる水源が設けられている。
【写真左】登城途中から讃岐富士などを俯瞰する。
 ほぼ真北には飯野山(通称讃岐富士)や、瀬戸内が見える。



 頂上から南東に下ると、ヤグラと呼ばれる小高い所があり、その外側は堀切で尾根が断ち切られている。この堀切より東は、長宗我部勢により拡充されたものと考えられる。広大な削平地が続き、先端にもヤグラが設けられる。ヤグラの外側には堀切が二重に配置されており守備力が増している。

 他にも尾根上や谷筋に様々な遺構が配置されているようであるが、未だ全容は解明されていない。
   丸亀市教育委員会”
【写真左】土塁と郭群
 北側には連続する郭群が東西に2か所認められるが、これはそのうちの西側のもので、3段からなる郭をこの土塁が縦につないでいる。

 また、このさらに西には竪堀が2本あるようだが、整備されていないため確認はしていない。


西長尾城の支城
 
 説明板にもあるように本城を西長尾城とし、これを支えていた支城は次のものである。
  1.  炭所城(まんのう町炭所東種子)   城主  長尾大隅守次男伊勢守及び、八男惣左衛門                             
  2.  岡田城(綾歌町岡田下)         城主  長尾大隅守三男左衛門乃督                                     
  3.  栗隅城(別名湯船城)(綾歌町栗熊) 城主 長尾元高四男田村上野親光    

1.の炭所城は、西長尾城から東に約3キロ向かった位置にあり、2.の岡田城は西長尾城のほぼ真北約3キロの場所で、3.の栗隅城は、最も東の位置にあって西長尾城から7キロ程隔てている。

 このうち、栗隅城は、城域が3キロにもおよび、当城も含め、近接して星濡城・田村城・城之岡城・大流城などといった城砦が複合的に配置されているという。機会があれば登城してみたいものだ。
【写真左】郭群
 先ほどの位置からさらに上に向かったところで、このあたりから九十九折となっていく。右側には数段の郭が連続している。
【写真左】本丸直近から南東を見る
 中央に見える林道のような道がおそらくもう一つの登山道と思われ、この先で二つに分岐し、東に向かうと猫山、もう一つは西長尾城に登る道となるが、ここからは急坂が多いようだ。
【写真左】本丸・その1
 登城途中の郭段の規模から想像していたものより大きい。
 東西に長く楕円形のもので、長径20m×短径15m前後か。
【写真左】本丸・その2
 三角点付近には、地元の方がのぼった記録板が掲げられている。
【写真左】本丸西の郭
 本丸西を降りていくと、小規模な郭が残る。この先からは急勾配の斜面が続いており、このコースを上りとすると相当の体力を必要とするだろう。
【写真左】本丸跡から金比羅宮を見る
 西北西には琴平山中腹に祀られた金刀比羅宮(こんぴらさん)がかすかに見える。
【写真左】井戸跡
 この辺りは殆ど保水力のない山が多いが、当城にはいまでもこのような水をたたえた箇所が残る。
【写真左】東側に伸びる削平地・ヤグラ跡
 本丸から東側を降りると、猫山方面にむかって両端部に設置されたヤグラ跡がある。
 現在はその北側の脇に登城道が別に造られ、猫山方面に向かう道が並行して走る

 ヤグラ跡はさほど高くはないが、削平地と併せて東西に長い規模を持つ。
 写真の左にみえる三角の山は猫山。

3 件のコメント:

  1. 長尾大隅守の先祖は詫間浪打八幡宮創祀者の高村親王(武村親王)である。高村親王は敏達天皇と推古天皇との間に生まれた親王である。都の騒乱により587年に荘内半島に逃れ後南海の大乱の鎮圧に功績があり母推古天皇よりその地を与える綸旨を賜った。南海道橘家
    の長者であり橘家学館院別当でもあった。浪打八幡宮は604年に創建された。菩提寺は綾歌町の福成寺である。長尾大隅守元高九男の高乗の子孫が代々寺を継承している。参考まで

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    1. 拝復 貴重な情報ありがとうございます。浪打八幡宮は以前近くを通ったことがあります。都の騒乱とは、蘇我馬子が、穴穂部皇子・宅部皇子を殺害したり、物部守屋を滅ぼした事件ですね。また浪打八幡宮の創建期は奈良法隆寺と同じで、聖徳太子摂政期に当たり、大和時代の讃岐国の動きもこれらと連動していたのかもしれませんね。
       トミー 拝

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  2. 長尾城の守りは学館院大番組が長尾西近陣と称して以下のように配置されていた。榎井が石川兵庫介、櫛梨が臼杵遠江、
    大麻が大川出羽、松尾が三井大炊、石井弾正、岸上が神余(かなまる)衛門、生間が奈良兵部、新目弾正、本目左衛門
    山脇左馬介。地名-家臣名 桓武平氏大川家系図より
    また、最後の城主長尾大隅守高勝については天正七年二月廿五日申ノ刻(1579年3月22日午後4時頃)旧暦を新暦に換算
    落城、家臣67人を召し連れて炭所奥に引きこもる。同年八月一日に病死す。戒名は得證院殿教誉信隆大居士。
    戒名の教誉は学館院別当を表す。長尾家は盛時には城付十万七千石、学館院領六万石都合十六万七千石あったと記録されている。これは讃岐だけではなく伊予学館院領、瀬戸内の島も含まれるため海運交易の利益も換算されたものではないかと思われる。現在の長尾家を継承している家には「長尾三家由緒」「長尾家系図」高勝の遺言書である「口述」家臣67人の血判書が残されている。資料は他にも数多あるがこれまで。遅れましたが返信ありがとうございました。
    都の騒乱は、ご指摘の通り物部守屋の事件です。資料では連座の疑いをかけられたようですが高村親王の年齢を推古天皇の生年より割り出すと、十代であり身の安全のため匿われた
    というのが真実だと思います。

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