2014年9月29日月曜日

尼子城の堀跡・殿城池、尼子館跡土塁(滋賀県犬上郡甲良町尼子田居中)

尼子城堀跡・殿城池
         (あまごじょうのほりあと・とのじょういけ)
尼子館跡土塁(あまごやかたあとどるい)

●所在地 滋賀県犬上郡甲良町尼子田居中
●築城期 正平2年(1347)頃又は、応永5年(1398)以降
●築城者 留阿又は、佐々木(京極)高久(尼子左衛門尉高久)
●遺構 土塁・濠など
●規模 堀跡・殿城池:79㎡(約24坪)、尼子館跡土塁(公園):1,300㎡
●落城 永享元年(1428)ころ
●備考 藤堂高虎一族館跡(堀跡・殿城池)、玄翁堂襄(尼子館跡土塁)
●登城日 2014年9月11日

◆解説(参考文献 パンフ「尼子のご案内」尼子公民館編、『佐々木道誉』森茂暁著・吉川弘文館等)

 前稿勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)の流れで、京極氏史跡を紹介する予定にしていたが、その前に道誉が晩年を過ごし、骨を埋めた同町の尼子郷に築かれた尼子城・館関係の史跡を先に紹介しておきたい。
【写真左】尼子氏の城(館)跡の土塁公園
 堀・土塁などが残されている。









 今稿の史跡名は二つ取り上げているが、下段の説明板にもあるように、もともと近江尼子氏の居城(居館)として単一のものであったが、その後尼子氏の没落や、後段で紹介するように戦国末期に至ると藤堂一族(高虎)の住むところとなり、近代にいたると宅地開発などによって部分的に残ったため、二か所の史跡名として挙げている。本稿では便宜上、これら二つの史跡をまとめて、「尼子氏城館」とする。
【写真左】配置図
 文字が小さくて分かりずらいが、黄色で囲んだ範囲が、当時(南北朝・室町期)の尼子城(館)の範囲とされている。

 このうち「現在地」としめされた位置が、上掲の土塁公園で、左側の赤丸で示された箇所が、下段の堀跡・殿城池(お園堀)とされている。


現地の説明板より・その1

“尼子城の堀跡、殿城池(別名 お園堀)

   場所 滋賀県犬上郡甲良町尼子田居中1436番地
   面積 79㎡(約24坪)
 御祭神 八千姫      祭日 1月15日

 尼子城は、京極家第5代で室町幕府の重臣で「バサラ大名」として其の名を天下に轟かせた京極高氏(道誉)の嫡孫備前守高久が、甲良荘尼子村を領有し、尼子氏と称した。其の頃本家京極家の居城勝楽寺の前衛城として築かれたのが尼子城です。
【写真左】尼子城の堀跡、殿城池(別名 お園堀)・その1
 今回探訪した尼子氏城館は、尼子地区内にあるが、いずれも狭い路地を通っていかなければならないので、車で直接向かうことはお勧めできない。

 近くに尼子公民館があり、駐車スペースは用意されていないが、たまたまこの日館内に係の方がおられたので、事情を説明したところ、道路脇に確保できた。そして、公民館で「歴史と自然とふれあいのあるまち あまご」というパンフを頂き、この中に配置図が描かれていたので、これをたよりに歩いて向かった。
 


 嫡男出羽上詮久以後、近江尼子氏の居城として南北朝の動乱期京極家の有力連技旗頭として重きをなしていたが、打ち続く戦乱で城は落ち、一族家臣達は四散したと考えられるが、山陰山陽に覇を握る分系の雲州尼子氏を頼り、彼の地で活躍した一族家臣も多く、近江尼子氏は史上から姿を消しています。

 殿城池は、ありしの尼子城の堀跡です。昭和初期まで池の西、深さ4,5mで北側に湾曲した竹藪となった堀跡が続いていましたが、戦後宅地に変貌しました。村の東、玄翁堂裏の竹藪から尼子城の土塁と堀跡が県教育委員会により発見され、室町時代では広大な平城であったことが判明しました。
【写真左】尼子城の堀跡、殿城池(別名 お園堀)・その2
 周囲には民家が立ち並び、予想以上に小規模なものである。
 池の中央に小さな祠が祀ってある。これが八千姫を祀るものだろう。


 お堀の水神様は、落城のとき入水された城主の姫君(八千姫)が祭られています。またこのとき、若く美しい侍女お園も姫のあとを追って入水殉死したことを領民が憐み、いつしかこの堀のことを「お園堀」と呼び、敬い親しみ護り続けて今日に至っています。

  平成5年1月吉日     尼子 区長
                 尼子むらづくり委員会”
【写真左】尼子城の堀跡、殿城池(別名 お園堀)・その3
 東方の勝楽寺側の鈴鹿山脈から流れてくる犬上川の伏流水だろう、尼子の集落には中小の用水路には絶え間なく豊富な水が流れている。
 城館を構えた近江尼子氏も、こうした地理的条件を巧みに利用し、堀を普請していったと考えられる。


現地の説明板より・その2

“尼子氏の城(館)跡の土塁公園

 この尼子城の土塁と堀跡は、今から650年余年前の正平2年(1347)(※)頃に、本家京極家の勝楽寺の前衛城として、京極家5代婆娑羅大名として天下にその名を馳せた佐々木佐渡判官入道道誉の孫6代高秀の四男高久が、甲良荘尼子郷を領有し、この地に築城し居城した。
【写真左】玄翁堂
 土塁公園は、この写真の右側(東)にある。おそらく当時、この場所も尼子氏城館だったと思われる。


 高久は地名を姓として、尼子左衛門尉高久と名乗り、尼子氏の始祖となった。嫡男詮久が近江尼子氏、次男持久は出雲国(島根県)の守護代として、月山富田城に拠り雲州尼子氏の祖となった。
 3代経久、晴久の時代には、山陰山陽道11ヶ国200万石の覇者として室町時代、天下に尼子氏の名を知らしめた。
【写真左】五輪塔群
 当院累代の住職の墓とは別に、中小の五輪塔がまとめられている。

 近江尼子氏のものだろうが、一部には下段で紹介するように、戦国期の藤堂氏一族のものも含まれているかもしれない。


 しかし、近江尼子氏は2代氏宗の頃、戦乱で落城し、当時としては広大な尼子城(館)と共に歴史の上から消えて、「まぼろしの尼子氏」と言われた。

 昭和63年に滋賀県教育委員会が玄翁堂の東の竹藪から、土塁と堀跡を発見した。この土塁と堀は室町時代、当地の領主尼子氏の居城(館)跡の一部であることを確認し発表された。
【写真左】尼子氏の城(館)跡の土塁公園
 冒頭の写真にもあるように、堀(濠)も残されているが、この土塁も小規模ながら往時を偲ばせてくれる。


 平成8年度に「むらづくり事業」で、甲良町の「水と緑の景観整備事業」の助成を受けて、落城後650余年間竹藪の中で眠っていた尼子城(館)の土塁、堀跡の一部を保存、修復して約1,300㎡の土塁公園とした。この公園は尼子氏の歴史、尊い史跡として後世に伝えると共に区民の憩いの場所です。

   平成8年3月30日   尼子 区長
                尼子むらづくり委員会”
【写真左】京極・尼子系図
 土塁公園に設置されているもので、これを見ると、尼子氏始祖・高久のあと、近江尼子氏となったのが、高久の長男・詮久である。

 そして、2代氏宗が正長元年(1428)、甲良荘円城寺に築城した、とされている。円城寺は現在の南隣・愛荘町円城寺地区である。

 また、7代宗光の代になると、織田信長による近江侵攻によって甲良荘雨降野に蟄居した、と書かれている。雨降野は、同じく南隣・豊郷町雨降野地区である。


尼子左衛門尉高久

 尼子氏城館を築城した武将で、道誉の孫で、京極氏6代高秀の四男である。因みに高秀の子を順に列記しておく。

高秀の男子
  • 長男 高詮      (六角氏頼猶子後に、京極氏7代)  
  • 次男 高経
  • 三男 秀満
  • 四男 高久     ⇒  長男 詮久(近江尼子氏始祖) 
                 ⇒  次男 持久(出雲尼子氏始祖) 
  • 五男 重秀     
  • 六男 秀益 → → 後に宍道氏(出雲国)
  • 七男 高雅
  • 八男 満秀
【写真左】尼子の歴史と十九宅案内図
 尼子地区の入口付近の交差点にかなり大きな案内図が設置されている。

 尼子という地名は7世紀天武天皇の時代、高市皇子の生母「尼子姫」が当地に住まわれたことが地名の由来と推定される、と書かれている。


築城期と築城者
 
 上記の説明板の(※)箇所では、道誉の孫高久が正平2年・貞和3年(1347)にこの地を領有し、築城したとされている。
 しかし、築城期が事実であれば、錯誤が生じてしまう。というのも、出典は不明ながら、高久の生誕年は、正平18年(1363)といわれているので、築城期(正平2年)頃にはまだ生まれていないからである。

 逆に、築城者・高久が事実であれば、当然本人生誕後すくなくとも元服後に築城されたと推測されるが、実はそれと相前後して、高久とは別にこの頃当地を安堵された女性の記録が残っている。その女性とは、道誉の後妻と思われる留阿(りゅうあ)である。
【写真左】尼子氏の城(館)跡の土塁公園を遠望する。
 土塁公園は住宅地が途切れる辺りにあるが、この付近は肥沃な土地であったことがうかがえる。



後家尼・留阿

 道誉は78歳という当時としては大変な長寿を全うした人物である。このこともあり、彼にはこれまで少なくとも二人の室(妻)(※別説では三人)がいたといわれている。一人は先妻と思われる女性で、次男・秀宗の母である。彼女の父は二階堂時綱で鎌倉幕府の事務方有力御家人である。

 もう一人は、「きた」といわれ、道誉が亡くなったあと出家して「留阿」と名乗っている。おそらく、二階堂の女が亡くなったあと、後妻として入ったものだろう。前稿の勝楽寺・勝楽寺城の中の事績でも紹介しているが、亡くなるこの年(応安6年:1373)の2月27日付の書状で次のように認めている。

 “ 所領とものなかに、甲良の尼子郷ほどに心やき(す脱)事あるへからす…”

 さらに道誉は続ける。

“…この心安き尼子郷を、親愛なる「ミま」に譲る…” と。

 この書状には掛け紙があり、一つは「御ミまへ たうよ(道誉)」であり、もう一つは嫡子高秀宛である。

 冒頭で紹介した「きた」が出家後「留阿」と号しているため、道誉が亡くなる応安6年にしたためた「ミま」宛てとする書状が、かならずしも「きた(留阿)」宛てのものと同一であるかどうか確証はないが、どちらにしても道誉には、死に際に託そうとした最愛の女(後妻)がいたことは確かである。
【写真左】尼子の街並み・その1
 写真右の小川は満々と水が流れる。









 道誉が往生してから6年後の永和5年(1379)3月、足利義満は室町新第(花御所)に移った。それまで義満を養育してきた細川頼之(讃岐守護所跡(香川県綾歌郡宇多津町 大門)参照)は、幕府内において次第に信頼を失い、4月ついに出家して讃岐に帰った(康暦の政変)。こののち、義満が幕府将軍職として絶大なる権限を広げていくことになる。丁度この頃である、義満は生前の道誉から頼まれていたのだろう、道誉亡き後、将軍の証判を添えて、この後妻の将来を保障・担保すべく袖判安堵状をしたためた。

“ (付箋) 「公方 鹿苑院殿  義満公」
               (花押) (足利義満)

 近江国甲良荘内尼子郷の事、亡夫佐渡大夫判官入道道誉譲与の旨に任せ、後家尼留阿 北と号す 領掌、相違あるべからざるの状、くだんのごとし、
       永和538日”

 幕府の重鎮であった道誉であるが、自身の死後、我が妻のために所領安堵を最高権力者である幕府将軍銘によって証すること自体、異例といえば異例である。うがったみかたをすれば、応安6年に書き残した事実上の遺言書が、道誉の思惑通りならなかったため、あえて将軍・義満が公式に袖判安堵を認めたのかもしれない。
【写真左】尼子の街並み・その2
 この写真の先を向かうと、隣地区である在士(ざいじ)がある。
 藤堂高虎生誕地といわれているところである(下段写真参照)。



 このあと、この留阿(きた・ミま)は安堵されたものの、19年後の応永5年(1398)6月1日に、この尼子郷を高秀の子・高久に譲った(「伊予佐々木文書」)。

あうみ(近江)のくにかう羅(甲良荘)のしやうあまこのかう(尼子郷)、せうらく(勝楽)寺殿ゝおほせおかるゝ御ゆつり(譲)御しやうにまかせて、さゝきの六らうさゑもん殿(高久)に、ゑいたい(永代)ゆつりあたふる所なり、たうしよ(当所)のうちのねんく米内くりやたのせに、めんめんにかくへち(格別)に、ゆつりしやうをもつてはからひ申候、これのめしつかう人々のふちとくふん(扶持得分)、いんしゆ(員数)にまかせて、この程にかわらす、さほい(相違)なく、御はからいあるへく候、さらにわつらい(煩い)候ましく候、御いちこ(一期)ののちは、いや(弥)六殿に御ゆつりあるへく候、

  おうゑい(応永)五年六月一日   きた(花押)
※赤字:管理人

道誉が当初留阿(ミま)に宛てた安堵は基本的に一期(いちご)、すなわち彼女の代で終了を意味している。出家時(道誉没後)、留阿はかなり若い女性だったようだが、この書状を見る限り彼女はこの土地(尼子郷)所有に対して、最期まで固執しなかったようである。また、生前の道誉が尼子郷をいずれ孫である高久に継いでもらいたいという意思もあったようで、留阿としては道誉のその想いも忖度したのだろう。
【写真左】藤堂高虎出生地の碑
在士村は井伊直孝が「藤堂村」から「在士村」と改めたという。
高虎は弘治2年(1556)に生まれているが、そのころ近江尼子氏はすでに円城寺の方に移っていたものと思われる。


限られた史料ではあるが、こうした慎ましやかな後妻・留阿であったからこそ、道誉は最大の愛情を彼女に注ぎ込んだと思われ、そこには、若き日に婆娑羅大名として名を馳せた道誉とはまた別の顔が見えてくる。

従って、当地に設置してある説明板の築城期等については、一つの参考資料ではあるが、城館の形式となるのは高久が居住した応永5年(1398)以降と思われる。

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