2020年6月11日木曜日

備後・赤城(広島県世羅郡世羅町川尻)

備後・赤城(びんご・あかじょう)

●所在地 広島県世羅郡世羅町川尻字池入堂
●別名 赤堀
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 林肥前守就長・実弟右馬允
●形態 城館
●遺構 郭・土塁・井戸
●登城日 2017年2月16日

◆解説(参考資料 「日本城郭体系 第13巻」等)
 広島県を縦断する尾道自動車道の世羅の道の駅から自動車道を並行しておよそ2キロほど南下した細長い谷の棚田に備後・赤城(以下『赤城』とする。)が築かれている。形態としては城館の遺構を持つもので、およそ南北60m×東西40mの規模である。
【写真左】赤城遠望
 西側から見たもので、田圃の中にポツンと残る。

 赤城を見た途端思い出したのが、椋梨城(広島県三原市大和町椋梨) だったが、赤城は椋梨城より小規模な城館である。



現地の説明板より


‟赤城跡

 川尻地区には松岡城と赤城跡があります。
 松岡城が林肥前守の本城で、赤城は支城で、弟の右馬允(すけ)が住んだと云われています。
 いずれも室町時代のもので、林肥前守は毛利の武将として聖神社を再建し、鎧や冑などを奉納したと伝えられております。

 赤城主の右馬允の位牌は、300m西方の西垣内谷の薬師寺に祀られてあります。

 薬師寺には薬師如来が祀られていて、昔から目の病を治すと云われ有名な霊験あらたかな如来であります。
【写真左】登城口付近
 登城口は東側にあり、現在は御覧のように土地改良に併せて橋が架けられているが、この小川が当時濠の役目をしていたものと思われる。なお、この小川は北進し本流芦田川に合流する。


 旧赤城主右馬允のご冥福を祈り、併せて薬師如来の温かいご利益をあまねく万民に御慈悲をいただくべくここに身代わり地蔵菩薩を建立したものであります。
 建立にあたっては、東上原地区の龍城山(りゅうじょうざん)、善行寺住職の真澄暎哲師(ますみえいてつし)にお願いして開眼鎮座していただきました。
敷地内にあります石塔に記念として住職の直筆で揮毫していただきました。
左下の丸いくぼみは、昔の井戸の跡か又何かに使用されたものかは記録もなく、定かではありませんが、昔からの言い伝えで古井戸のあった跡と聞いております。

 平成3年6月
     赤城跡守る会“

【写真左】登城道
 橋を渡るとそのまま東斜面を北の方向に向かう道がつけられている。







林肥前守就長菊池氏
 
 赤城の城主は林肥前守の弟右馬充が住んだと説明板には書かれているが、『西備名区』では、松岡城主林肥前守就長が晩年、松岡城を長子に譲り、ここに隠居して道範と号したことが記されている。
 松岡城というのは、赤城から芦田川を挟んで北に1.5キロ向かった日向に築かれた山城である。
【写真左】松岡城遠望
 赤城から北へおよそ1.3キロほどむかった標高400m余の位置に築かれている。
 この写真は、世羅の道の駅から見たもので、東へおよそ1キロほど隔てている。
 以前登城を試みたが、道が整備されていないようで断念した。
【写真左】郭跡・その1
 登って行くと館跡は公園に改変されている。








 ところで、林氏は旧姓菊池氏(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山) 参照)の一族といわれ、父は武長といい、彼の代から林氏を名乗っている。武長はもともと肥後の菊池氏第22代当主・能雲(よしゆき)に仕えていたとされ、その名が示すように、能雲の前の名である「武運」から偏諱を受け、武長と名乗ったと思われる。
【写真左】郭跡・その2 郭跡には花壇や遊具などが設置され、遺構の方はあまり期待できない。







 因みに、菊池氏は南北朝時代おける九州南朝方の中心となった名族だが、室町・戦国時代になると、19代菊池持朝のころから一族による家督相続の争いが生じ、最終的には能雲が永正元年(1504)、23歳の若さで亡くなると、ここに菊池氏嫡流は滅亡することになる。

 しかし、その能雲が永正元年(1504)死去すると、備後に移りその後毛利元就に仕えたといわれる。ただ、武長自身が元就に仕えたというのは時系列的にも符合しないので、武長の子息、即ち元就の「就」を名乗った就長であろう。

 就長は実務的な能力に優れ、毛利氏が石見を掃討したとき、石見銀山・温泉津の支配に活躍、また秀吉による西国侵攻後、領国境界の交渉などを安国寺恵瓊らと共にその任に当たった。 
【写真左】井戸跡か
 城内の一角には御覧のようなかなり大きな穴が残っている。直径3m前後はあるだろう。
 規模から考えて井戸としては大きすぎるような気もするが、明瞭に残っている。
【写真左】土塁
 大幅な改変のため分かりずらいが、西側が高くなっている箇所が土塁跡と思われる。
 現地はその個所に花壇が配置されている。





遺構

 写真でも分かるように城館形態のもので、当時三段に削平された郭で構成され、北西部に土塁を築き、東南部は小さな川が流れ、堀の役目をしていた。
 もっとも現在では地元の方の憩いの場としての公園整備が優先されたせいか、遺構の確認は井戸跡以外はあまり期待できない。
【写真左】城域南東部
 南東部先端から南側を見たもので、この谷は次第に南に行くに従って細くなる。






 
聖神社薬師堂

 説明板にもあるように、赤城の近くには林肥前守や、右馬允に関わる史跡が所在している。
【写真左】聖神社遠望
 薬師堂のある尾道自動車道側から見たもので、手前には「せらひがし小学校」がある。




 聖神社(ひじりじんじゃ)は、赤城から芦田川を挟んで北側の町立せらひがし小学校の裏に鎮座する古刹で、当地川尻は中世「杜庄川尻保(もりのしょうかわじりほ)」と呼ばれ、鎌倉時代に残された高野山文書にも「備後川尻社」と記載された社である。
 寛正3年(1462)の合戦で焼失し、その10年後の文明4年(1472)再建されたといわれるから、当時の備後国守護山名氏に関わる戦いがあったのだろう。
【写真左】聖神社
 せらひがし小学校の西側の道を進んでいくと、数段に配された境内の最上部に本殿が祀られている。




 右馬允の位牌が祀られている薬師堂は、赤城から尾道自動車道側の斜面に建立されている真言宗の寺である。写真にもあるように、室町時代初期のものといわれるかなり大型の宝篋印塔が残っている。
【写真左】聖神社側から赤城と薬師堂を遠望する。
 せらひがし小学校から少し降りて東側の道路から見たもので、左側の田圃の中に赤城が見え、そこからおよそ200mほど尾道自動車側に薬師堂が見える。
【写真左】薬師堂・その1
 平成2年ごろに屋根などの改修が行われているようだが、廃寺になっているためか、最近はあまり管理されていないようだ。
【写真左】宝篋印塔と地蔵群
 境内の脇には御覧のような像や宝篋印塔が収蔵されている。
【写真左】説教所
 本堂から少し階段を上がったところには説教所といわれる建物が建っている。
 写真の中央にある柱は両側から支え木がついており、特異な建築様式だ。

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