筒井城(つついじょう)
●所在地 奈良県大和郡山市筒井町
●形態 平城
●築城期 永享元年(1429)又は、南北朝期
●築城者 筒井氏
●城主 筒井順覚、順弘、順永、順尊、順賢、順興、藤松(順昭)、藤勝(順慶)、越智氏、古市氏、松永氏等
●廃城年 天正8年(1580)
●遺構 堀、井戸等
●登城日 2015年12月1日
◆解説(参考文献『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』仁木宏・福島克彦編 吉川弘文館等)
筒井城は前稿大和・郡山城(奈良県大和郡山市城内町)から南に凡そ3.5キロほど下った筒井町に所在した平城とされている。
現在は畑や宅地化によって遺構の残存度は少ないが、外堀跡と内堀跡の一部、及び井戸跡が発見されている。
【写真左】『筒井城跡』の看板
下段の概要図の位置に設置されているもので、このフェンスの中に後段で紹介する井戸が発見されている。
現地の説明板より
“筒井城と筒井氏
筒井城は、主郭部を取り囲む内堀のほか、周囲の広い範囲を大きく外堀で取り囲む「惣構え」と呼ばれる構造を取っています。
外堀で囲まれた範囲は東西500m、南北400mに及ぶ広大なもので、奈良県内の中世平地式城館の中では最大級の規模を誇ります。また、筒井城のある場所は、東西に走る奈良街道と南北方向の吉野街道が交わる部分にあたり、交通の要衝を押さえています。
城の中心となる主郭部は、この案内板があるフェンスで囲まれた区域から、東側の菅田比賣神社(すがたひめじんじゃ)を含む東西約120m、南北100mの範囲と想定されます。主郭の周囲には内堀が巡らされ、中心部に城主が住む館がありました。
●所在地 奈良県大和郡山市筒井町
●形態 平城
●築城期 永享元年(1429)又は、南北朝期
●築城者 筒井氏
●城主 筒井順覚、順弘、順永、順尊、順賢、順興、藤松(順昭)、藤勝(順慶)、越智氏、古市氏、松永氏等
●廃城年 天正8年(1580)
●遺構 堀、井戸等
●登城日 2015年12月1日
◆解説(参考文献『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』仁木宏・福島克彦編 吉川弘文館等)
筒井城は前稿大和・郡山城(奈良県大和郡山市城内町)から南に凡そ3.5キロほど下った筒井町に所在した平城とされている。
現在は畑や宅地化によって遺構の残存度は少ないが、外堀跡と内堀跡の一部、及び井戸跡が発見されている。
【写真左】『筒井城跡』の看板
下段の概要図の位置に設置されているもので、このフェンスの中に後段で紹介する井戸が発見されている。
現地の説明板より
“筒井城と筒井氏
筒井城は、主郭部を取り囲む内堀のほか、周囲の広い範囲を大きく外堀で取り囲む「惣構え」と呼ばれる構造を取っています。
外堀で囲まれた範囲は東西500m、南北400mに及ぶ広大なもので、奈良県内の中世平地式城館の中では最大級の規模を誇ります。また、筒井城のある場所は、東西に走る奈良街道と南北方向の吉野街道が交わる部分にあたり、交通の要衝を押さえています。
城の中心となる主郭部は、この案内板があるフェンスで囲まれた区域から、東側の菅田比賣神社(すがたひめじんじゃ)を含む東西約120m、南北100mの範囲と想定されます。主郭の周囲には内堀が巡らされ、中心部に城主が住む館がありました。
【写真左】概要図
赤い線で囲んだ区域が城域で、中央に主郭を置き、ほぼ全周を内堀が巡っている。
虎口は西側を南北に走る吉野街道沿いに配置され、この付近はそのためか少しカーブしている。外堀は北側と東南部に図示されているが、特に南側の奈良街道側には恐らく並行して外堀が構築されていたと考えられる。
後段でも紹介してい入るが、特に吉野街道と奈良街道が交わる西南側の須浜池(左下の青色部分)などは当時の外堀と繋がっていたのではないだろうか。
赤い線で囲んだ区域が城域で、中央に主郭を置き、ほぼ全周を内堀が巡っている。
虎口は西側を南北に走る吉野街道沿いに配置され、この付近はそのためか少しカーブしている。外堀は北側と東南部に図示されているが、特に南側の奈良街道側には恐らく並行して外堀が構築されていたと考えられる。
後段でも紹介してい入るが、特に吉野街道と奈良街道が交わる西南側の須浜池(左下の青色部分)などは当時の外堀と繋がっていたのではないだろうか。
発掘調査では、館に伴う大規模な石組の井戸が見つかっています。主郭部の北には大型の宅地割りが並んでおり、ここに筒井家の重臣が住んでいたものと思われます。
また、南には八幡神社を中核とする農村部分(垣内(かいと))を、そのまま惣構えの中に取り込んでいます。このほか、吉野街道と奈良街道が交わる部分には、奈良街道を挟む形で南北にそれぞれ市場(商店街)がありました。
筒井城が文献に初めて現れるのは15世紀初頭のことですが、発掘調査により、14世紀中ごろにはすでに主郭を取り囲む幅約6m、深さ約2mもの大規模な堀(内堀)があったことが分かっています。
【写真左】筒井城周辺マップ
上記概要図とは別に筒井城周辺にある寺社・地名などを記したマップ。
北から、「土居」「外堀」「北垣内」「シロ畑」「東垣内」「順慶堤」などといった地名が記されている。
主郭部は、この図でいえば黄色い線で囲んだ中央部のエリアとなる。
一方、筒井氏の祖とされるのは筒井順覚(じゅんがく)で、至徳3年(1386)の文献にその名が記されています。しかし、それをさかのぼる康永2年(1343)の文献にも、筒井氏と思われる武士2名(順慎・順円)の署名があることが、近年の研究であきらかになりました。すなわち、筒井城と筒井氏は、共に14世紀中ごろに歴史の表舞台に現われるということになります。
筒井城最後の城主となったのは、筒井順慶(1549~84)です。順慶は苦戦の末、大和に侵攻した松永久秀に打ち勝ち、天正4年(1576)、織田信長によって大和国支配を任じられました。天正8年(1580)、筒井城は織田信長の命によって破却され、筒井氏は居城をここから約3.5km北にある郡山城に移しました。
平成26年1月 大和郡山市”
興福寺と筒井氏
平安時代、大和国はその荘園のほとんどが興福寺の支配下にあり、比叡山延暦寺とともに「南都北領」と称された。この流れは武士の時代となった鎌倉・室町時代になっても変わらず、興福寺自らが抱えた大和武士をもって堅持し続けた。このため、大和国だけは幕府による守護職補任が出来ない状況がしばらく続いた。
筒井城の城主であった筒井氏歴代の当主の名が、順慶をはじめ順覚、順興といった出家僧の名称で記録されていることからも分かるように、筒井氏はこの興福寺衆中(官符衆徒)を出自としている。
【写真左】井戸跡
冒頭の看板が設置されていた個所で、現在はすでに埋められているが、外径5m、内径およそ2.5mの規模を持ったものだったという。
因みに、発掘当時の写真を下段に紹介しておく。
【写真左】発掘調査時の井戸
この辺りは標高も低く、井戸の深さは浅かったものと思われる。
発掘時、周辺の取り外された石材が井戸の中に投げ込まれていたが、これは天正8年(1580)の信長の命令で出された破城の際行われた可能性が高いといわれる。
また、南には八幡神社を中核とする農村部分(垣内(かいと))を、そのまま惣構えの中に取り込んでいます。このほか、吉野街道と奈良街道が交わる部分には、奈良街道を挟む形で南北にそれぞれ市場(商店街)がありました。
筒井城が文献に初めて現れるのは15世紀初頭のことですが、発掘調査により、14世紀中ごろにはすでに主郭を取り囲む幅約6m、深さ約2mもの大規模な堀(内堀)があったことが分かっています。
【写真左】筒井城周辺マップ
上記概要図とは別に筒井城周辺にある寺社・地名などを記したマップ。
北から、「土居」「外堀」「北垣内」「シロ畑」「東垣内」「順慶堤」などといった地名が記されている。
主郭部は、この図でいえば黄色い線で囲んだ中央部のエリアとなる。
一方、筒井氏の祖とされるのは筒井順覚(じゅんがく)で、至徳3年(1386)の文献にその名が記されています。しかし、それをさかのぼる康永2年(1343)の文献にも、筒井氏と思われる武士2名(順慎・順円)の署名があることが、近年の研究であきらかになりました。すなわち、筒井城と筒井氏は、共に14世紀中ごろに歴史の表舞台に現われるということになります。
筒井城最後の城主となったのは、筒井順慶(1549~84)です。順慶は苦戦の末、大和に侵攻した松永久秀に打ち勝ち、天正4年(1576)、織田信長によって大和国支配を任じられました。天正8年(1580)、筒井城は織田信長の命によって破却され、筒井氏は居城をここから約3.5km北にある郡山城に移しました。
平成26年1月 大和郡山市”
興福寺と筒井氏
平安時代、大和国はその荘園のほとんどが興福寺の支配下にあり、比叡山延暦寺とともに「南都北領」と称された。この流れは武士の時代となった鎌倉・室町時代になっても変わらず、興福寺自らが抱えた大和武士をもって堅持し続けた。このため、大和国だけは幕府による守護職補任が出来ない状況がしばらく続いた。
筒井城の城主であった筒井氏歴代の当主の名が、順慶をはじめ順覚、順興といった出家僧の名称で記録されていることからも分かるように、筒井氏はこの興福寺衆中(官符衆徒)を出自としている。
【写真左】井戸跡
冒頭の看板が設置されていた個所で、現在はすでに埋められているが、外径5m、内径およそ2.5mの規模を持ったものだったという。
因みに、発掘当時の写真を下段に紹介しておく。
【写真左】発掘調査時の井戸
この辺りは標高も低く、井戸の深さは浅かったものと思われる。
発掘時、周辺の取り外された石材が井戸の中に投げ込まれていたが、これは天正8年(1580)の信長の命令で出された破城の際行われた可能性が高いといわれる。
【写真左】内堀
井戸周辺部には土盛や堀が発掘されているが、このうち内堀の状況。
この写真でみると、深さは2m前後か。
筒井氏惣領の流れ
筒井氏の始祖は、筒井順覚といわれている。説明板にもあるように、文献上ではその時期は至徳3年(1386)であり、足利義満の時代となる。
筒井城の名が出るのは、これより43年後の永享元年(1429)である。ただ、筒井城の築城期はこれより大分遡った頃と思われ、明徳年間頃には、前稿大和・郡山城(奈良県大和郡山市城内町)でのべたような、環濠集落的城館を有していたのではないかと思われる。
【写真左】主郭の西側
防護ネットで囲った位置が主郭付近と思われるが、そのネットの西側に行くと、1~2m前後低くなっている。
現在畑地となっているが、山川均氏(『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』)によると、東西に郭1・2・3と配置され、これら郭間にも小規模な内堀が介在しているので、主郭は単一のものではなかった可能性がある。
畑地周辺の畔道を無作為に歩いていたら、ご覧の石碑があった。
石碑手前は狭い路地が続くが、おそらく吉野街道と接する虎口付近と思われる。
大永年間の終わりごろになると、大和国の動きも様相が変化してくる。享禄元年(1528)、丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)の城主波多野秀長の弟・、柳本賢治が大和国に侵入してきた。
天文4年(1535)順興が亡くなると、藤松(順昭)が家督を継いだ。すると、2年後の天文6年(1537)、今度は木沢長政(信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)参照)が大和へ侵入してきた。
井戸周辺部には土盛や堀が発掘されているが、このうち内堀の状況。
この写真でみると、深さは2m前後か。
筒井氏惣領の流れ
筒井氏の始祖は、筒井順覚といわれている。説明板にもあるように、文献上ではその時期は至徳3年(1386)であり、足利義満の時代となる。
筒井城の名が出るのは、これより43年後の永享元年(1429)である。ただ、筒井城の築城期はこれより大分遡った頃と思われ、明徳年間頃には、前稿大和・郡山城(奈良県大和郡山市城内町)でのべたような、環濠集落的城館を有していたのではないかと思われる。
【写真左】主郭の西側
防護ネットで囲った位置が主郭付近と思われるが、そのネットの西側に行くと、1~2m前後低くなっている。
現在畑地となっているが、山川均氏(『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』)によると、東西に郭1・2・3と配置され、これら郭間にも小規模な内堀が介在しているので、主郭は単一のものではなかった可能性がある。
さて、順覚の晩年当城は、高取城(奈良県高取町)を本拠とした越智氏に攻められるが、順覚のあとを受け継いだ順弘が同氏惣領となった。永享7年(1435)のことである。
ところが、嘉吉年間になると、弟の成身院光宣に背かれ筒井城を追われるが、その後奪い返したものの、今度は一族・家臣に背かれ最後は殺害されてしまう。
光宣の弟順永がその後城主となるが、長禄元年(1457)幕府によって没収され、興福寺に寄進された。その後細川勝元の計らいで再び筒井城は筒井氏の手に戻った。
【写真左】旧奈良街道から北を見る。
現在の国道25号線が東西を横断しているが、この辺りは「南市場」といわれる地区で、右側には当時農村部があった。
この後、応仁・文明の乱が勃発すると、筒井氏は畠山政長(東軍)(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)参照)に属した。そして乱終結の前年、順永が亡くなると、長男順尊が跡を継いだ。
順尊の時代になると、再び越智氏などの攻略に逢うが、明応6年(1497)越智氏を破り、所領を回復した。2年後の明応8年(1499)順尊の長男順賢が家督を継ぎ、永正2年(1505)長らく抗争を続けてきた越智氏と和睦を結び、この結果大和国人衆が一揆を結ぶことになる。
この間、京都より赤沢朝経が大和国に侵入するなど動乱が続いたが、その都度巧みに凌ぎ大永元年(1521)、順尊の次男・順興が筒井氏惣領を継ぐと、同氏と越智氏の婚姻が成立し、再び大和国人衆が一揆を結んだ。
【写真左】「筒井順慶城址」と筆耕された石碑ところが、嘉吉年間になると、弟の成身院光宣に背かれ筒井城を追われるが、その後奪い返したものの、今度は一族・家臣に背かれ最後は殺害されてしまう。
光宣の弟順永がその後城主となるが、長禄元年(1457)幕府によって没収され、興福寺に寄進された。その後細川勝元の計らいで再び筒井城は筒井氏の手に戻った。
【写真左】旧奈良街道から北を見る。
現在の国道25号線が東西を横断しているが、この辺りは「南市場」といわれる地区で、右側には当時農村部があった。
この後、応仁・文明の乱が勃発すると、筒井氏は畠山政長(東軍)(船岡山城(京都府京都市北区紫野北舟岡町)参照)に属した。そして乱終結の前年、順永が亡くなると、長男順尊が跡を継いだ。
順尊の時代になると、再び越智氏などの攻略に逢うが、明応6年(1497)越智氏を破り、所領を回復した。2年後の明応8年(1499)順尊の長男順賢が家督を継ぎ、永正2年(1505)長らく抗争を続けてきた越智氏と和睦を結び、この結果大和国人衆が一揆を結ぶことになる。
この間、京都より赤沢朝経が大和国に侵入するなど動乱が続いたが、その都度巧みに凌ぎ大永元年(1521)、順尊の次男・順興が筒井氏惣領を継ぐと、同氏と越智氏の婚姻が成立し、再び大和国人衆が一揆を結んだ。
畑地周辺の畔道を無作為に歩いていたら、ご覧の石碑があった。
石碑手前は狭い路地が続くが、おそらく吉野街道と接する虎口付近と思われる。
大永年間の終わりごろになると、大和国の動きも様相が変化してくる。享禄元年(1528)、丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)の城主波多野秀長の弟・、柳本賢治が大和国に侵入してきた。
天文4年(1535)順興が亡くなると、藤松(順昭)が家督を継いだ。すると、2年後の天文6年(1537)、今度は木沢長政(信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)参照)が大和へ侵入してきた。
【写真左】内堀
主郭の南側には御覧の様な蓮根畑のような湿地帯が残っているが、この付近も元は内堀だったと考えられる。
藤勝(順慶)、筒井氏を継ぐ
天文16年(1547)、順昭は箸尾氏を傘下に治め大和国をほぼ平定、その2年後の天文18年、順昭は比叡山に入り、家督を藤勝に譲った。この藤勝が後の順慶である。
なお、箸尾氏は当時「大和四家」と呼ばれた興福寺衆中の一家で、他の三家は筒井氏、越智氏、十市氏である。
【写真左】筒井順慶木像
藤松が順慶と名乗ったのは、松永勢から筒井城を奪い返した永禄9年(1566)のことで、この年出家して、陽舜房順慶と名乗った。
松永久秀との抗争
永禄2年(1559)、松永久秀(信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)参照)が大和に侵入、筒井城は攻略され久秀が入城した。このとき、順慶は以前から支城としていた奈良市北椿尾町の椿尾上城へ一旦逃れた。
順慶が筒井城を離れている間に、久秀は併せて信貴山に城を構え、さらに永禄4年(1561)になると、多門町に多聞山城を築き、大和国支配を着々と進めていった。
しかし、永禄9年(1566)、順慶は奪われた筒井城を奪還すべく、松永勢を攻め、再び城主に返り咲いた。ところが、永禄11年織田信長が上洛すると、久秀は信長の支配下となり、筒井城は再び松永氏の手に入った。
筒井城破却
こうして度々松永勢との抗争が続いたが、天正4年(1576)織田信長より順慶は大和の支配を任せられ、筒井城をさらに堅固にすべく、多聞山城から多くの石を筒井城に運び込んだ。天正7年のことである。こののち、松永久秀は信長に背き、信貴山城に立て籠もるも、織田勢に攻められ爆死することになる。
ところが、翌8年信長より、大和一国破城と指出し検地が命ぜられ、大和国の城郭は郡山城を残してすべて破却されることになり、順慶は郡山城へ移り、筒井城は破却された。
【写真左】須浜池
吉野街道と奈良街道が交わる位置で、城域の南西部にある溜池で、当時外堀と繋がっていたものと思われる。
主郭の南側には御覧の様な蓮根畑のような湿地帯が残っているが、この付近も元は内堀だったと考えられる。
藤勝(順慶)、筒井氏を継ぐ
天文16年(1547)、順昭は箸尾氏を傘下に治め大和国をほぼ平定、その2年後の天文18年、順昭は比叡山に入り、家督を藤勝に譲った。この藤勝が後の順慶である。
なお、箸尾氏は当時「大和四家」と呼ばれた興福寺衆中の一家で、他の三家は筒井氏、越智氏、十市氏である。
【写真左】筒井順慶木像
藤松が順慶と名乗ったのは、松永勢から筒井城を奪い返した永禄9年(1566)のことで、この年出家して、陽舜房順慶と名乗った。
松永久秀との抗争
永禄2年(1559)、松永久秀(信貴山城(奈良県生駒郡平群町大字信貴山)参照)が大和に侵入、筒井城は攻略され久秀が入城した。このとき、順慶は以前から支城としていた奈良市北椿尾町の椿尾上城へ一旦逃れた。
順慶が筒井城を離れている間に、久秀は併せて信貴山に城を構え、さらに永禄4年(1561)になると、多門町に多聞山城を築き、大和国支配を着々と進めていった。
しかし、永禄9年(1566)、順慶は奪われた筒井城を奪還すべく、松永勢を攻め、再び城主に返り咲いた。ところが、永禄11年織田信長が上洛すると、久秀は信長の支配下となり、筒井城は再び松永氏の手に入った。
筒井城破却
こうして度々松永勢との抗争が続いたが、天正4年(1576)織田信長より順慶は大和の支配を任せられ、筒井城をさらに堅固にすべく、多聞山城から多くの石を筒井城に運び込んだ。天正7年のことである。こののち、松永久秀は信長に背き、信貴山城に立て籠もるも、織田勢に攻められ爆死することになる。
ところが、翌8年信長より、大和一国破城と指出し検地が命ぜられ、大和国の城郭は郡山城を残してすべて破却されることになり、順慶は郡山城へ移り、筒井城は破却された。
【写真左】須浜池
吉野街道と奈良街道が交わる位置で、城域の南西部にある溜池で、当時外堀と繋がっていたものと思われる。
0 件のコメント:
コメントを投稿