翁山城(おきなやまじょう)
●所在地 広島県府中市上下町上下
●築城期 不明(戦国期か)
●築城者 長谷部氏
●城主 長谷部氏
●高さ 538m(比高160m)
●遺構 郭
●備考 翁山城跡公園
●指定 府中市指定史跡
●登城日 2007年12月26日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
翁山城を訪れたのは2007年で、6年も前の登城である。本丸跡といわれる頂部付近が公園となっていたため、明確な遺構がはっきりせず、このため写真は撮ったものの印象が薄く、段々と記憶が薄らぎ、投稿を保留していた城砦である。
【写真左】翁山城遠望
麓の上下町の町から見たもの。
当城の所在地は上下町(じょうげちょう)という変わった地名である。現在合併により府中市になっているが、江戸時代は石見銀山から瀬戸内に向かう銀山街道の宿場町として栄えた。また、その名の由来は、同町中心部が、北方の江の川と、南方の芦田川両水系の分水嶺になっていることから、ここで上(北)と下(南)に分かれているという意味からきている。
【写真左】翁山城案内図
当城の西麓を南北に走る国道432号線(石見銀山街道)や、JR福塩線が走る。
南麓には後述する善昌寺がある。
現地の説明板より
“府中市指定史跡「翁山城址(護国山城址)」
町指定 平成8年9月20日
所在/上下町字上下
「平家物語」の「信連合戦」に記されている高倉殿に仕えていた長谷部信連の流れをくむといわれる城主長谷部氏は、南北朝争乱の時北朝方に属し、南朝方有福城の竹内氏との戦をはじめ数々の戦に参加して戦功をたてたので、暦応3年(1340)上下の地頭に任ぜられ、前地頭斉藤氏の後、丹下城を賜り根拠地としていた。
【写真左】本丸跡・その1
車で頂部まで向かうことができるが、道は頗る狭い。また公園となっているものの、もともと本丸の規模は74m×16mという細長い形であるため、駐車台数も4,5台も程度が限度である。
その後戦国時代に至り、長谷部大蔵左衛門尉元信により領域は拡大され、居城もこの地に移されたものである。
山は傾斜急峻で比高160m余り20くらいの郭を配し、要所は石垣を築く等、全山を城郭化している堅固な山城であった。関ヶ原合戦の後毛利氏の萩移転に伴い、長谷部氏も主流は萩へ移住し、当城は廃城となったといわれる。
平成15年3月
府中市教育委員会”
【写真左】本丸・その2
車道としての道が設置されたため、当時の遺構がはっきりしないが、本丸の東側に小郭が一段下がった所に残る。
長谷部信連とその一族
翁山城の築城者は長谷部信連とされている。
信連(長左兵衛尉)は、後白河法皇の第二子以仁王(源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)参照)に仕えていたが、治承4年(1180)平家打倒の企てが知られるところとなり、王宮に一人留まって平家と戦うも捕えられた。その後、死罪を免れ一時伯耆国金持に配流された。
【写真左】本丸から上下の街並みを俯瞰する。
北方方面を見たもので、右側に県道三原・東城線が走る。
文治元年(1185)平家滅亡後、赦免され自由の身となった信連は、後に鎌倉に出仕するまで、現在の鳥取県日野町地区(下榎・土居)において開拓に励んでいる。そして、当地日野町にある長楽寺は信連再建の寺院といわれている。
【写真左】醫雲山 長楽寺
所在地 鳥取県日野郡日野町下榎875
こうしたことから、おそらく備後の上下町に長谷部氏がいたことは、信連の一族がその後、隣国の備後にも残り、扶植していった背景があるのだろう。
さて、翁山城の築城者並びに城主とされる長谷部氏については、説明板の通りであるが、築城期については諸説がある。
『西備名区』という史料によれば、長谷部信連が平家追討に土肥実平(安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1参照)と西進し、その戦功によって幕府から矢野荘を与えられ、信連自身が翁山城を築いたとされている。
【写真左】ご満悦の眺望?
山城探訪同伴犬として駆け出しの頃
ただ、『芸藩通誌』によれば、信連の子良連が建久3年(1221)に当地にきたとあり、信連自身が翁山城を築いたというのは断定できないと思われる。
南北朝期に至ると、説明板にある戦歴とは別に、建武3年(延元元年・1336)長谷部信仲は、南朝方の城砦であった世羅郡重永城を攻めている(「山内首藤家文書」)。このころが、おそらく翁山城に入る前の南方にあった丹下城を居城としていたものと思われる。
【写真左】翁座
この建物は中世史跡ではなく、大正時代に建てられた芝居小屋兼映画館の建物で、今では県下でもこうしたものはほとんどないという。
大友柳太郎・高田浩吉・鶴田浩二などなつかしい往年の銀幕スターも、当館の舞台に立ったという。
あの頃の時代劇映画は、理屈抜きで楽しめた。古き良き時代だったかもしれない。
室町期に至ると、当国守護職であった山名氏に従い、応仁・文明の乱などで活躍している。その後、出雲の尼子経久の支配が及ぶと、尼子氏に属することになるが、長谷部氏11代元政の代になる戦国後半期には、安芸国の毛利元就の傘下に入った。
翁山城の築城者の一人とされているのが、この第11代元政である。おそらく、元政は尼子氏から離れ、毛利氏に属した当初、尼子氏からの攻撃を想定し、当城をより堅固なものとしたのだろう。そして、12代元信に至って、本格的な整備を行い、完成させたものと思われる。
善昌寺
翁山城の南麓には、長谷部氏ゆかりの善昌寺という寺院がある。
【写真左】善昌寺山門
向背の山が翁山城
現地の説明板より
“曹洞宗 護国山善昌寺
本尊 千手観世音菩薩(伝 安阿弥正作)
開山 (臨済開山始祖)佛心慧燈国師辨翁智訥禅師(ぶっしんえとうこくしべんのうちとつぜんし)
(曹洞開山)関叟梵機大和尚(かんそうはんきだいおしょう)
(曹洞法地開山)雪嶺梵積大和尚(せつれいぼんせきだいおしょう)
開基 丹下城主(たんがのじょうしゅ) 斉藤美作守入道藤原朝臣景宗公
中興開基 翁山城主 長谷部加賀守元信公
【写真左】善昌寺本堂
(略縁起)
護国山善昌寺は、後醍醐天皇の御代、鎌倉幕府の地頭職として当地に下向された丹下城主斉藤美作守入道藤原朝臣景宗公が開基大檀那となり、臨済宗法燈派の佛心慧燈国師辨翁智訥禅師を請し、正中2年(1325)、10年の歳月を費やして創建された。
辨翁智訥禅師は、後に後村上天皇の帝師となられ、国師号を授けられるなど比類稀な傑僧であったが、南北朝時代が南朝方の滅亡で終わると共に禅師の名声も歴史より抹殺されてしまった。
【写真左】大鬼瓦
当院の前にはこうした特徴のある鬼瓦や棟瓦などが陳列してある。
創建百有余年後、外護者を失い衰微していた当寺を備中国西江原(岡山県井原市)、法泉寺関叟梵機大和尚が慨き、長禄2年(1458)、曹洞宗に改めて再興。
その後、教俊和尚が、足利幕府地頭職翁山城主長谷部加賀守元信公の絶大な外護によって34年の歳月をかけ諸堂伽藍を再興し、法地開山雪嶺梵積大和尚を経て現在に至っている。
【写真左】坐禅堂
正中2年(1325)創建された堂である。
この年は、鎌倉北条執権体制が次第に崩れ、後醍醐天皇が討幕計画を画策する頃でもあり、その首謀者とされた日野資朝が佐渡島に配流されることになる。
上下町指定重要文化財(昭和40年9月10日指定)
坐禅堂 善昌寺創建当時の建物で現存する唯一のもの。
鴬張り廊下 永禄3年(1560)本堂の再建にあたり、京都より名工を招いて造らせたと伝えられ、今なお妙音を響かせている。”
●所在地 広島県府中市上下町上下
●築城期 不明(戦国期か)
●築城者 長谷部氏
●城主 長谷部氏
●高さ 538m(比高160m)
●遺構 郭
●備考 翁山城跡公園
●指定 府中市指定史跡
●登城日 2007年12月26日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
翁山城を訪れたのは2007年で、6年も前の登城である。本丸跡といわれる頂部付近が公園となっていたため、明確な遺構がはっきりせず、このため写真は撮ったものの印象が薄く、段々と記憶が薄らぎ、投稿を保留していた城砦である。
【写真左】翁山城遠望
麓の上下町の町から見たもの。
当城の所在地は上下町(じょうげちょう)という変わった地名である。現在合併により府中市になっているが、江戸時代は石見銀山から瀬戸内に向かう銀山街道の宿場町として栄えた。また、その名の由来は、同町中心部が、北方の江の川と、南方の芦田川両水系の分水嶺になっていることから、ここで上(北)と下(南)に分かれているという意味からきている。
【写真左】翁山城案内図
当城の西麓を南北に走る国道432号線(石見銀山街道)や、JR福塩線が走る。
南麓には後述する善昌寺がある。
現地の説明板より
“府中市指定史跡「翁山城址(護国山城址)」
町指定 平成8年9月20日
所在/上下町字上下
「平家物語」の「信連合戦」に記されている高倉殿に仕えていた長谷部信連の流れをくむといわれる城主長谷部氏は、南北朝争乱の時北朝方に属し、南朝方有福城の竹内氏との戦をはじめ数々の戦に参加して戦功をたてたので、暦応3年(1340)上下の地頭に任ぜられ、前地頭斉藤氏の後、丹下城を賜り根拠地としていた。
【写真左】本丸跡・その1
車で頂部まで向かうことができるが、道は頗る狭い。また公園となっているものの、もともと本丸の規模は74m×16mという細長い形であるため、駐車台数も4,5台も程度が限度である。
その後戦国時代に至り、長谷部大蔵左衛門尉元信により領域は拡大され、居城もこの地に移されたものである。
山は傾斜急峻で比高160m余り20くらいの郭を配し、要所は石垣を築く等、全山を城郭化している堅固な山城であった。関ヶ原合戦の後毛利氏の萩移転に伴い、長谷部氏も主流は萩へ移住し、当城は廃城となったといわれる。
平成15年3月
府中市教育委員会”
【写真左】本丸・その2
車道としての道が設置されたため、当時の遺構がはっきりしないが、本丸の東側に小郭が一段下がった所に残る。
長谷部信連とその一族
翁山城の築城者は長谷部信連とされている。
信連(長左兵衛尉)は、後白河法皇の第二子以仁王(源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)参照)に仕えていたが、治承4年(1180)平家打倒の企てが知られるところとなり、王宮に一人留まって平家と戦うも捕えられた。その後、死罪を免れ一時伯耆国金持に配流された。
【写真左】本丸から上下の街並みを俯瞰する。
北方方面を見たもので、右側に県道三原・東城線が走る。
文治元年(1185)平家滅亡後、赦免され自由の身となった信連は、後に鎌倉に出仕するまで、現在の鳥取県日野町地区(下榎・土居)において開拓に励んでいる。そして、当地日野町にある長楽寺は信連再建の寺院といわれている。
【写真左】醫雲山 長楽寺
所在地 鳥取県日野郡日野町下榎875
こうしたことから、おそらく備後の上下町に長谷部氏がいたことは、信連の一族がその後、隣国の備後にも残り、扶植していった背景があるのだろう。
さて、翁山城の築城者並びに城主とされる長谷部氏については、説明板の通りであるが、築城期については諸説がある。
『西備名区』という史料によれば、長谷部信連が平家追討に土肥実平(安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1参照)と西進し、その戦功によって幕府から矢野荘を与えられ、信連自身が翁山城を築いたとされている。
【写真左】ご満悦の眺望?
山城探訪同伴犬として駆け出しの頃
ただ、『芸藩通誌』によれば、信連の子良連が建久3年(1221)に当地にきたとあり、信連自身が翁山城を築いたというのは断定できないと思われる。
南北朝期に至ると、説明板にある戦歴とは別に、建武3年(延元元年・1336)長谷部信仲は、南朝方の城砦であった世羅郡重永城を攻めている(「山内首藤家文書」)。このころが、おそらく翁山城に入る前の南方にあった丹下城を居城としていたものと思われる。
【写真左】翁座
この建物は中世史跡ではなく、大正時代に建てられた芝居小屋兼映画館の建物で、今では県下でもこうしたものはほとんどないという。
大友柳太郎・高田浩吉・鶴田浩二などなつかしい往年の銀幕スターも、当館の舞台に立ったという。
あの頃の時代劇映画は、理屈抜きで楽しめた。古き良き時代だったかもしれない。
室町期に至ると、当国守護職であった山名氏に従い、応仁・文明の乱などで活躍している。その後、出雲の尼子経久の支配が及ぶと、尼子氏に属することになるが、長谷部氏11代元政の代になる戦国後半期には、安芸国の毛利元就の傘下に入った。
翁山城の築城者の一人とされているのが、この第11代元政である。おそらく、元政は尼子氏から離れ、毛利氏に属した当初、尼子氏からの攻撃を想定し、当城をより堅固なものとしたのだろう。そして、12代元信に至って、本格的な整備を行い、完成させたものと思われる。
善昌寺
翁山城の南麓には、長谷部氏ゆかりの善昌寺という寺院がある。
【写真左】善昌寺山門
向背の山が翁山城
現地の説明板より
“曹洞宗 護国山善昌寺
本尊 千手観世音菩薩(伝 安阿弥正作)
開山 (臨済開山始祖)佛心慧燈国師辨翁智訥禅師(ぶっしんえとうこくしべんのうちとつぜんし)
(曹洞開山)関叟梵機大和尚(かんそうはんきだいおしょう)
(曹洞法地開山)雪嶺梵積大和尚(せつれいぼんせきだいおしょう)
開基 丹下城主(たんがのじょうしゅ) 斉藤美作守入道藤原朝臣景宗公
中興開基 翁山城主 長谷部加賀守元信公
【写真左】善昌寺本堂
(略縁起)
護国山善昌寺は、後醍醐天皇の御代、鎌倉幕府の地頭職として当地に下向された丹下城主斉藤美作守入道藤原朝臣景宗公が開基大檀那となり、臨済宗法燈派の佛心慧燈国師辨翁智訥禅師を請し、正中2年(1325)、10年の歳月を費やして創建された。
辨翁智訥禅師は、後に後村上天皇の帝師となられ、国師号を授けられるなど比類稀な傑僧であったが、南北朝時代が南朝方の滅亡で終わると共に禅師の名声も歴史より抹殺されてしまった。
【写真左】大鬼瓦
当院の前にはこうした特徴のある鬼瓦や棟瓦などが陳列してある。
創建百有余年後、外護者を失い衰微していた当寺を備中国西江原(岡山県井原市)、法泉寺関叟梵機大和尚が慨き、長禄2年(1458)、曹洞宗に改めて再興。
その後、教俊和尚が、足利幕府地頭職翁山城主長谷部加賀守元信公の絶大な外護によって34年の歳月をかけ諸堂伽藍を再興し、法地開山雪嶺梵積大和尚を経て現在に至っている。
【写真左】坐禅堂
正中2年(1325)創建された堂である。
この年は、鎌倉北条執権体制が次第に崩れ、後醍醐天皇が討幕計画を画策する頃でもあり、その首謀者とされた日野資朝が佐渡島に配流されることになる。
上下町指定重要文化財(昭和40年9月10日指定)
坐禅堂 善昌寺創建当時の建物で現存する唯一のもの。
鴬張り廊下 永禄3年(1560)本堂の再建にあたり、京都より名工を招いて造らせたと伝えられ、今なお妙音を響かせている。”