備中・市場古城(びっちゅう・いちばこじょう)
●所在地 岡山県総社市新本
●形態 丘城
●高さ 40m
●築城期 不明(天正年間以前)
●築城者 不明
●城主 永井越前守一虎(天正2年)
●遺構 郭・堀切・石垣・井戸
●登城日 2015年2月21日
◆解説(参考文献『日本城郭体系13巻』等)
市場古城は、以前取り上げた備中・鬼ノ身城(岡山県総社市山田)の南西3.5キロの新本・市場にあって、その北麓には高梁川の支流新本川が流れている。形態としては標高40mのいわゆる丘城である。
【写真左】市場古城遠望
西側の市場南橋付近から見たもので、北側には三の壇・一の壇・二の壇が東西に連結され、畑を介してその南には出丸が残る。
なお、周囲には民家が建っており、細かな遺構は殆ど消失しているようだが、当時の概要は凡そ推測できる。
永井(長井)氏
築城期は不明だが、天正年間には安芸国から永井越前守一虎が入部し、城主となっている。安芸国の永井氏というのは手持ちの資料にはなく、その出自は不明である。ただ、以前取り上げた南天山城・その2で和智氏の支城であった、知和の池尻城主が長井氏(永井氏)を名乗っているので、この長井氏ではないかと考えられる。
【写真左】堀切
南側の出丸には北側と南側に堀切があったようだが、現在は南側には民家が建ち、北側の堀切しか残っていない。
写真では右側が出丸で、左側が畑となっている。
もっとも、この知和は南天山城と同じく、備後国にあるため、整合しないことになる。
しかし、この永井氏を含む和智氏一族は、三良坂・福山城(広島県三次市三良坂町灰塚)で述べたように、永禄年間に起った毛利元就嫡男・隆元の死に絡み、同年12年毛利氏による南天山城をはじめ、萩原山城・福山城の追討により主だった家臣が自害しているので、このとき、知和の池尻城主永井氏だけが、退城後毛利氏の許しを得て安芸国(吉田郡山城か)に移った可能性もある。
【写真左】西側から見る。
左手前が三の壇側になり、その奥の藪となっている箇所が出丸。右下の通路とは凡そ3m余りの高低差がある。
【写真左】西側
この写真も同じく西側から見たもので、中央の小道は犬走りの役目をしていたのかもしれない。
さて、その一虎は天正2年(1574)毛利氏による備中攻めにおいて、国吉城(岡山県高梁市川上町七地)の戦いに参陣、武勇の誉れ高い法行(六郎左衛門)之勝と槍を合わせ、これを打ち破ったことにより当地に入部した(『陰徳太平記』)、とされる。
越前守一虎夫妻の墓は、当城の西方小字庭木の福寿禅寺のそばにあり、位牌もあるとしているが(『日本城郭体系13巻』)、探訪した折探してみたが当寺が見つからなかった。寺が移転したのかもしれない。
一虎が亡くなったあと、その子四郎兵衛重虎が継嗣し、関ヶ原合戦に参陣したものの、その後の行方は分からない。
【写真左】祠
三の壇の西端部には、井戸が書かれてる(『日本城郭体系13巻』)。位置的にはこの付近になるが、奥の方まで行っていないので分からない。
ひょっとしてこの祠は、井戸を埋めたあとお祓いし、建立したものかもしれない。
【写真左】中間部の郭
左が一の壇で、右に出丸があるが、その間はご覧の様な畑となっており、そこには天体観測用の小型のドームが設置されている。
【写真左】一の壇に向かう。
手前の畑から踏み跡が見えたので、そこから向かった。
なお、畑から一ノ壇の天端までは約5m前後ある。
【写真左】一の壇
ご覧の通り笹などが繁茂しているため、中の方には入っていないが、平行四辺形の形をなし、凡そ600㎡の規模を持つ。
このあと、東に進み、ニの壇に向かう。
【写真左】二の壇・その1
上の一の壇から見たもので、西側には下段に示すような小社が祀られている。
【写真左】二の壇・その2
東側から見たもので、奥には先ほどの一の壇が見える。
二の壇の規模は400㎡と一の壇より少し小さい。
【写真左】石垣
一の壇とニの壇の間の斜面には石積が残る。
なお、奥に見える建物は「天守公会堂」というらしい。
【写真左】二の壇の東端部から下を見る。
『日本城郭体系13巻』では二の壇から東に下がった部分については言及されていないが、この畑となった箇所は、南に回り込んで、出丸と介在する郭と連続しているので、大型の帯郭ともいえる。
このあと、二の壇の北側にある階段を使って下に降りる。
【写真左】二の壇北側の階段
構造的に見ても、このルートが大手に当たると思われるが、階段を下りてみると思った以上に比高差がある。
当時はこの周りを切崖としていたのだろう。
【写真左】北麓部
先ほどの階段を下りて、北側の畦道を進む。
ご覧のように、現在は段で構成されているが、当時は一面の切崖だったのかもしれない。
【写真左】北西側から見る。
下の田圃天端から一の段頂部までの比高差は、おそらく10m以上はあるだろう。
【写真左】西側から見る。
中央の樹木が見える箇所が一の壇(主郭)になる。
【写真左】市場南橋から市場・古城を見る。
この南橋を流れる新本川の支流は、おそらく戦国期、当城に接近した西麓を流れ、濠の役目をしていたものと考えられる。
そして、川を挟んで西側の地区名が「屋敷」となっているので、家臣たちの住まいがあったものと思われる。
●所在地 岡山県総社市新本
●形態 丘城
●高さ 40m
●築城期 不明(天正年間以前)
●築城者 不明
●城主 永井越前守一虎(天正2年)
●遺構 郭・堀切・石垣・井戸
●登城日 2015年2月21日
◆解説(参考文献『日本城郭体系13巻』等)
市場古城は、以前取り上げた備中・鬼ノ身城(岡山県総社市山田)の南西3.5キロの新本・市場にあって、その北麓には高梁川の支流新本川が流れている。形態としては標高40mのいわゆる丘城である。
西側の市場南橋付近から見たもので、北側には三の壇・一の壇・二の壇が東西に連結され、畑を介してその南には出丸が残る。
なお、周囲には民家が建っており、細かな遺構は殆ど消失しているようだが、当時の概要は凡そ推測できる。
永井(長井)氏
築城期は不明だが、天正年間には安芸国から永井越前守一虎が入部し、城主となっている。安芸国の永井氏というのは手持ちの資料にはなく、その出自は不明である。ただ、以前取り上げた南天山城・その2で和智氏の支城であった、知和の池尻城主が長井氏(永井氏)を名乗っているので、この長井氏ではないかと考えられる。
【写真左】堀切
南側の出丸には北側と南側に堀切があったようだが、現在は南側には民家が建ち、北側の堀切しか残っていない。
写真では右側が出丸で、左側が畑となっている。
もっとも、この知和は南天山城と同じく、備後国にあるため、整合しないことになる。
しかし、この永井氏を含む和智氏一族は、三良坂・福山城(広島県三次市三良坂町灰塚)で述べたように、永禄年間に起った毛利元就嫡男・隆元の死に絡み、同年12年毛利氏による南天山城をはじめ、萩原山城・福山城の追討により主だった家臣が自害しているので、このとき、知和の池尻城主永井氏だけが、退城後毛利氏の許しを得て安芸国(吉田郡山城か)に移った可能性もある。
【写真左】西側から見る。
左手前が三の壇側になり、その奥の藪となっている箇所が出丸。右下の通路とは凡そ3m余りの高低差がある。
【写真左】西側
この写真も同じく西側から見たもので、中央の小道は犬走りの役目をしていたのかもしれない。
さて、その一虎は天正2年(1574)毛利氏による備中攻めにおいて、国吉城(岡山県高梁市川上町七地)の戦いに参陣、武勇の誉れ高い法行(六郎左衛門)之勝と槍を合わせ、これを打ち破ったことにより当地に入部した(『陰徳太平記』)、とされる。
越前守一虎夫妻の墓は、当城の西方小字庭木の福寿禅寺のそばにあり、位牌もあるとしているが(『日本城郭体系13巻』)、探訪した折探してみたが当寺が見つからなかった。寺が移転したのかもしれない。
一虎が亡くなったあと、その子四郎兵衛重虎が継嗣し、関ヶ原合戦に参陣したものの、その後の行方は分からない。
【写真左】祠
三の壇の西端部には、井戸が書かれてる(『日本城郭体系13巻』)。位置的にはこの付近になるが、奥の方まで行っていないので分からない。
ひょっとしてこの祠は、井戸を埋めたあとお祓いし、建立したものかもしれない。
【写真左】中間部の郭
左が一の壇で、右に出丸があるが、その間はご覧の様な畑となっており、そこには天体観測用の小型のドームが設置されている。
【写真左】一の壇に向かう。
手前の畑から踏み跡が見えたので、そこから向かった。
なお、畑から一ノ壇の天端までは約5m前後ある。
【写真左】一の壇
ご覧の通り笹などが繁茂しているため、中の方には入っていないが、平行四辺形の形をなし、凡そ600㎡の規模を持つ。
このあと、東に進み、ニの壇に向かう。
【写真左】二の壇・その1
上の一の壇から見たもので、西側には下段に示すような小社が祀られている。
【写真左】二の壇・その2
東側から見たもので、奥には先ほどの一の壇が見える。
二の壇の規模は400㎡と一の壇より少し小さい。
【写真左】石垣
一の壇とニの壇の間の斜面には石積が残る。
なお、奥に見える建物は「天守公会堂」というらしい。
【写真左】二の壇の東端部から下を見る。
『日本城郭体系13巻』では二の壇から東に下がった部分については言及されていないが、この畑となった箇所は、南に回り込んで、出丸と介在する郭と連続しているので、大型の帯郭ともいえる。
このあと、二の壇の北側にある階段を使って下に降りる。
【写真左】二の壇北側の階段
構造的に見ても、このルートが大手に当たると思われるが、階段を下りてみると思った以上に比高差がある。
当時はこの周りを切崖としていたのだろう。
【写真左】北麓部
先ほどの階段を下りて、北側の畦道を進む。
ご覧のように、現在は段で構成されているが、当時は一面の切崖だったのかもしれない。
【写真左】北西側から見る。
下の田圃天端から一の段頂部までの比高差は、おそらく10m以上はあるだろう。
【写真左】西側から見る。
中央の樹木が見える箇所が一の壇(主郭)になる。
【写真左】市場南橋から市場・古城を見る。
この南橋を流れる新本川の支流は、おそらく戦国期、当城に接近した西麓を流れ、濠の役目をしていたものと考えられる。
そして、川を挟んで西側の地区名が「屋敷」となっているので、家臣たちの住まいがあったものと思われる。
0 件のコメント:
コメントを投稿