備中・中山城(びっちゅう・なかやまじょう)
●所在地 岡山県井原市芳井町川相
●高さ H:319m(比高40m)
●築城期 文明2年(1470)
●築城者 河合豊前守行重
●城主 河合氏(重元など)
●形態 丘城
●遺構 郭・空堀等
●登城日 2014年12月10日
◆解説
備中・中山城(以下「中山城」とする)は、前稿正霊山城(岡山県井原市芳井町吉井)から、小田川をおよそ3キロほど遡った旧川相小学校の裏にある丘城である。
【写真左】中山城遠望
南麓を流れる小田川対岸から見たもので、山容はなだらかな小丘である。
右の麓には旧川相小学校の校舎が建っている。
現地説明板
“中山城跡
川相小学校裏にある中山城は、文明2(1470)年河合豊前守行重(かわいぶぜんのかみゆきしげ)が築いたと伝えられています。
本丸部分は17m×53mの長方形で三段築城。東西に空濠跡があり中腹には五輪塔も多数残っています。本丸に祀られた稲荷大明神は、築城の際に河合行重が勧請したといわれ、またふもとにある天満宮も行重によって延徳元(1489)に建立されたと伝えられています。
【写真左】登城口
登城口は民家が点在している南西麓側にあり、近くには説明板が設置されている。
戦国時代、河合氏は吉井の正霊山城主・藤井氏と姻戚関係を結ぶなどして勢力をのばしていきましたが、3代城主・河合重元の頃には毛利氏の麾下に入って活躍をしました。
天正9(1581)年、備前八浜での宇喜多直家軍との戦いにも参戦し軍功があったと言われます。
平成17年3月
井原市教育委員会”
【写真左】登城道
途中まではこのような階段が設置され、真っ直ぐに向う。
河合氏
中山城主・河合氏については、前稿正霊山城(岡山県井原市芳井町吉井)でも少し紹介しているが、中山城を築いたとされる文明2年(1470)に、のちに正霊山城主となる藤井氏が、戦乱を避けるためこの河合氏を頼ったといわれる。藤井氏はその後、西吉井坂本の有井城に居城したあと、正霊山城を築いている。
【写真左】天満宮か
階段が途切れた箇所にはご覧の建物が建っている。
周辺には標記したものがないため確認できなかったが、これが築城者行重が勧請した「天満宮」かもしれない。
このあとさらに上を目指すが、道は階段はなくなり狭い道を進む。
文明2年の戦乱とは、応仁の乱のことであるが、当時河合氏や藤井氏は、備中守護細川氏の被官で東軍方に属していたと思われ、当地(備中国)は西隣の備後国、東隣の備前・美作両国といった西軍方に挟まれた状況であった。おそらく西軍方は旧山陽道側から入り、小田川を遡って攻めてきたことから藤井氏は河合氏を頼って北上していったのだろう。
【写真左】さらに本丸に向かう。
途中からご覧のような狭い道となるが、しばらくすると開放された場所に出る。
河合氏はその後藤井氏と姻戚関係を結ぶなど、絆を強めていくが、3代目の重元の代になると毛利氏に与することになる。
これに対し、前稿でも述べたように正霊山城の藤井皓玄が毛利氏に敵対していったことを考えると、この段階で河合氏にとっては、苦渋の決断であったと思われる。
【写真左】本丸・その1
次第に傾斜がつきはじめ、藪状の道は無くなるが、粘土質の道になっていく。雨天の場合は泥濘んで歩き難いだろう。
手前に鳥居が見えてきた。本丸である。
その後、河合氏は備前八浜で毛利軍の一員として、宇喜多直家軍と戦っている。備前八浜とは、両児山城(岡山県玉野市八浜町八浜)でも紹介したように、両児山(ふたごやま)又は二子山城のことで、この戦いは通称「八浜合戦」と呼ばれるものである。
なお、上記説明板にある宇喜多直家軍方の総大将は、宇喜多直家の養子・基家(春家の子息)で、基家をはじめ実父・春家もこの戦いで討死している。
【写真左】本丸・その2
河合行重が勧請したとされる「正一位稲荷大明神」の鳥居と、奥に拝殿が見える。
なお、本丸は幅6m前後で北東方向に長く伸びた郭となっている。
【写真左】本丸・その3
拝殿の先には少し距離を置いてもう一つの建物が建っている。これは恐らく社殿と思われる。
本来なら拝殿と社殿は続き棟で建っているが、当城の地形的な制約もあってこのようにそれぞれ単独に建てたものだろう。
【写真左】本丸北側の斜面
北側の斜面は急峻な形状となっている。
【写真左】北東部に延びる郭
近年整備されたせいか、なだらかな面となっているため、当時の遺構らしき箇所は明確ではないが、おそらくこの付近は高低差をもった郭段として構築されていたものだろう。
【写真左】本丸北東端
この箇所で5m前後の高低差ができているものの、整地されて重機でも上がれるような仕上がりとなっている。
おそらく拝殿・社殿の改修時に工事車両が本丸まで登れるように改修したのだろう。
【写真左】五輪塔群・その1
中山城の南側中腹には墓石群が点在している。
【写真左】五輪塔群・その2
西側にあるものは五輪塔形式というより、宝篋印塔の形式に近いもので、いずれも小ぶりなもの。
【写真左】五輪塔群・その3
上記の位置よりさらに東に向かうと、こちらは五輪塔形式ものものが点在している。
●所在地 岡山県井原市芳井町川相
●高さ H:319m(比高40m)
●築城期 文明2年(1470)
●築城者 河合豊前守行重
●城主 河合氏(重元など)
●形態 丘城
●遺構 郭・空堀等
●登城日 2014年12月10日
◆解説
備中・中山城(以下「中山城」とする)は、前稿正霊山城(岡山県井原市芳井町吉井)から、小田川をおよそ3キロほど遡った旧川相小学校の裏にある丘城である。
【写真左】中山城遠望
南麓を流れる小田川対岸から見たもので、山容はなだらかな小丘である。
右の麓には旧川相小学校の校舎が建っている。
現地説明板
“中山城跡
川相小学校裏にある中山城は、文明2(1470)年河合豊前守行重(かわいぶぜんのかみゆきしげ)が築いたと伝えられています。
本丸部分は17m×53mの長方形で三段築城。東西に空濠跡があり中腹には五輪塔も多数残っています。本丸に祀られた稲荷大明神は、築城の際に河合行重が勧請したといわれ、またふもとにある天満宮も行重によって延徳元(1489)に建立されたと伝えられています。
【写真左】登城口
登城口は民家が点在している南西麓側にあり、近くには説明板が設置されている。
戦国時代、河合氏は吉井の正霊山城主・藤井氏と姻戚関係を結ぶなどして勢力をのばしていきましたが、3代城主・河合重元の頃には毛利氏の麾下に入って活躍をしました。
天正9(1581)年、備前八浜での宇喜多直家軍との戦いにも参戦し軍功があったと言われます。
平成17年3月
井原市教育委員会”
【写真左】登城道
途中まではこのような階段が設置され、真っ直ぐに向う。
河合氏
中山城主・河合氏については、前稿正霊山城(岡山県井原市芳井町吉井)でも少し紹介しているが、中山城を築いたとされる文明2年(1470)に、のちに正霊山城主となる藤井氏が、戦乱を避けるためこの河合氏を頼ったといわれる。藤井氏はその後、西吉井坂本の有井城に居城したあと、正霊山城を築いている。
【写真左】天満宮か
階段が途切れた箇所にはご覧の建物が建っている。
周辺には標記したものがないため確認できなかったが、これが築城者行重が勧請した「天満宮」かもしれない。
このあとさらに上を目指すが、道は階段はなくなり狭い道を進む。
文明2年の戦乱とは、応仁の乱のことであるが、当時河合氏や藤井氏は、備中守護細川氏の被官で東軍方に属していたと思われ、当地(備中国)は西隣の備後国、東隣の備前・美作両国といった西軍方に挟まれた状況であった。おそらく西軍方は旧山陽道側から入り、小田川を遡って攻めてきたことから藤井氏は河合氏を頼って北上していったのだろう。
【写真左】さらに本丸に向かう。
途中からご覧のような狭い道となるが、しばらくすると開放された場所に出る。
河合氏はその後藤井氏と姻戚関係を結ぶなど、絆を強めていくが、3代目の重元の代になると毛利氏に与することになる。
これに対し、前稿でも述べたように正霊山城の藤井皓玄が毛利氏に敵対していったことを考えると、この段階で河合氏にとっては、苦渋の決断であったと思われる。
【写真左】本丸・その1
次第に傾斜がつきはじめ、藪状の道は無くなるが、粘土質の道になっていく。雨天の場合は泥濘んで歩き難いだろう。
手前に鳥居が見えてきた。本丸である。
その後、河合氏は備前八浜で毛利軍の一員として、宇喜多直家軍と戦っている。備前八浜とは、両児山城(岡山県玉野市八浜町八浜)でも紹介したように、両児山(ふたごやま)又は二子山城のことで、この戦いは通称「八浜合戦」と呼ばれるものである。
なお、上記説明板にある宇喜多直家軍方の総大将は、宇喜多直家の養子・基家(春家の子息)で、基家をはじめ実父・春家もこの戦いで討死している。
【写真左】本丸・その2
河合行重が勧請したとされる「正一位稲荷大明神」の鳥居と、奥に拝殿が見える。
なお、本丸は幅6m前後で北東方向に長く伸びた郭となっている。
【写真左】本丸・その3
拝殿の先には少し距離を置いてもう一つの建物が建っている。これは恐らく社殿と思われる。
本来なら拝殿と社殿は続き棟で建っているが、当城の地形的な制約もあってこのようにそれぞれ単独に建てたものだろう。
【写真左】本丸北側の斜面
北側の斜面は急峻な形状となっている。
【写真左】北東部に延びる郭
近年整備されたせいか、なだらかな面となっているため、当時の遺構らしき箇所は明確ではないが、おそらくこの付近は高低差をもった郭段として構築されていたものだろう。
【写真左】本丸北東端
この箇所で5m前後の高低差ができているものの、整地されて重機でも上がれるような仕上がりとなっている。
おそらく拝殿・社殿の改修時に工事車両が本丸まで登れるように改修したのだろう。
【写真左】五輪塔群・その1
中山城の南側中腹には墓石群が点在している。
【写真左】五輪塔群・その2
西側にあるものは五輪塔形式というより、宝篋印塔の形式に近いもので、いずれも小ぶりなもの。
【写真左】五輪塔群・その3
上記の位置よりさらに東に向かうと、こちらは五輪塔形式ものものが点在している。
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