多良倉城(たらくらじょう)
●所在地 福岡県北九州市八幡東区大字大倉 皿倉山
●備考 皿倉山
●高さ 標高622m(比高520m)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 不明
●城主 不明(南朝方)
●遺構 不明
●登城日 2015年1月10日
◆解説(参考文献『週刊日本の歴史23』週刊朝日百科等)
福岡県北九州市にある国定公園の一つ皿倉山は、隣接する帆柱山・花尾山などと併せて「帆柱連山」と呼ばれている。
南北朝の時代、筑前・豊前・築後など含めたこの九州北部で、南朝方と北朝方による壮絶な戦いが繰り広げられた。
【写真左】多良倉城(皿倉山)遠望
下山後、北麓側から撮ったものだが、日没が早い初冬の夕暮れ時であったため、手前のマンションの明かりが目立った画像になった。
現地の説明板・その1
皿倉山(標高622m)
伝説に、神功皇后が征西のおりこの山に登り、大岩の上から日暮れまで国々を眺望し、下山のとき更に夕闇が深まっていたので、「更に暮れたり」といわれたという。このことから更暮山或いは更暗山と呼ばれ、それが更倉山に転じたと伝えられている。皇后が立たれたという大岩は、当山頂の東肩にあり、この伝説にちなんで国見岩と呼ばれている。
【写真左】中腹にある帆柱ケーブル山麓駅
この日出雲から出発し、ここにたどり着いた時は既に午後3時を回っていたこともあり、登城(登山)はこのケーブルに乗って向かった。
争乱の南北朝時代、将軍足利義満は九州での北朝武家方の衰勢を挽回させるため、今川了俊を九州探題に任命した。了俊は建徳2年(1371)12月、中央軍を率いて門司に上陸。翌正月には赤坂(小倉北)に本陣を構えて九州の南朝宮方勢力封滅作戦を開始した。
その両軍最初の合戦の舞台になったのがこの一帯の多良倉城(皿倉山)鷹見山(権現山)麻生山(花尾山)の山々である。
了俊の探題軍は、この合戦の勝利に勢いを得て、宗像、高宮と陣を進め、その年8月には懐良親王の征西府大宰府を攻略した。
北九州市
帆柱自然公園愛護会”
皿倉山・権現山を含めた周辺部には、ビジターセンター・野外音楽堂・展望台・キャンプ場など多くの施設がある。
また、登山コースも東西南北の方向から10本前後あり、多くのハイカーなどに利用されているようだ。
今川了俊の征西府討伐
今川了俊は別名今川貞世といい、了俊は出家したときの名である。彼は名門武家今川氏(足利氏の支流)の出身で、戦国期にその名を馳せた東海の雄・今川義元も、了俊の父範国の系譜に繋がる。
貞治6年(1367)室町幕府の引付頭人・侍所頭人・山城守護に任じられたが、この年の暮れ2代将軍義詮が亡くなると、出家し貞世から了俊と号した。義詮の後を継いだのが3代将軍義満である。
【写真左】頂上の北東部
多良倉城といわれている皿倉山だが、山城遺構として確認できるものはほとんどない。遺構を見ることを目的に登城しても期待外れである。しかし、頂上から眺める360度のパノラマは筆舌に尽くしがたいほど素晴らしい。
写真は、北東方向に小倉・門司方面を見たもの。
ところで、後醍醐天皇は、延元元年(1336)9月、尊氏と講和を結んだとき、三人の皇子をそれぞれ各地に下向させている。
そのうちの一人、懐良親王には征西大将軍として九州へ下向させた。親王わずか8才の時である。この後観応の擾乱など北朝方の混乱もあり、九州から北朝方や足利直冬らが離れていくと、菊池武光や阿蘇氏の一部の協力を仰ぎ、正平元年(1359)8月6日に筑後大保原で北九州の北朝方守護少弐氏を破り、その2年後ついに大宰府に入城した。
懐良親王が京を離れてから19年後のことである。以後、ここ(大宰府)を本拠として、親王による征西将軍府(征西府)が12年の間続くことになる。
【写真左】皿倉山から北方を俯瞰する。
ほぼ真北には八幡・戸畑・若松の各市街地が見える。またその奥には戸畑港を介して燧灘が横たわり、その右奥には下関市が見える。
北朝方の尊氏が九州(征西府)討伐を目指しながら亡くなり、その後義詮が継ぐことになるが、彼が最初に九州探題として差し向けたのは、斯波氏経である。しかし、彼は九州に上陸したものの、何の実績もあげず、京都へ逃げ帰った。次に任じられた渋川義行に至っては、九州へ上陸もせず備後(中国)付近でウロウロしただけで無残な失態を演じた。そこで、管領になって間もない細川頼之が将軍に進言したのが今川了俊であった。このころは義詮が亡くなって幼い義満が跡を引き継いだころで、殆ど頼之の指示に負うところが大きい。
【写真左】東方に豊前・松山城を遠望する。
頂上に着くまでは松山城が見えるとは予想もしていなかったが、皿倉山から豊前・松山城(福岡県京都郡苅田町松山)までは直線距離でわずか18キロしか離れていない。
多良倉城における南北朝期の戦いは、ほぼ同時期この松山城でも行われた。
皿倉山(多良倉城)周辺での戦いが行われたのは、説明板にもあるように、了俊が赤坂(小倉北)に陣を構えた建徳2年(応安4年)の翌年となる文中元年・応安5年(1372)2月10日といわれている。その前段で了俊は、大隅の禰寝(ねね)久清、及び薩摩の島津親忠らに島津氏久とともに軍忠を尽くすようこれを招いている。
そして、皿倉山・花尾城(麻生山)に籠る征西府(南軍)側攻めには大内弘世・少弐冬資らが主役となって挑んだ。戦いは当初一進一退の様相を見せ、少弐冬資は南軍の出撃にあって敗れたが、その後毛利元春が救援撃退し、さらにはこれに続いた中国勢(吉河・長井・山内・周布氏(周布城(浜田市周布町)参照)など)が応戦し、ついにこの多良倉城周辺では勝利し、南軍は大宰府に奔った。
了俊はその後軍を進め、小倉・宗像・水内・高宮を経て大宰府を目指すことになる。
【写真左】平尾台・竜ヶ鼻を遠望する。
松山城から更に右に移動すると、カルスト台地で有名な平尾台、及び竜ヶ鼻が見える。
【写真左】花尾山城・河頭山を俯瞰する。
皿倉山から西北西1,2キロには、花尾山城が所在する。
標高351mの山城で、当城については次稿で取り上げる予定だが、山鹿氏の後裔麻生氏の居城で、別名麻生山とも呼ばれている。
【写真左】頂上部・その1
【写真左】頂上部・その2
頂上部には複数のテレビ塔や電波塔などが設置されている。
参考までに、帆柱自然公園について紹介しておきたい。
現地の説明板・その2
“帆柱自然公園のあらまし
帆柱自然公園は、皿倉山を中心に権現山、帆柱山、花見山と河内地区から成る景勝地で「北九州国定公園」「北九州自然休養林」として指定され、北九州百万市民の憩いの地とされているばかりでなく、学術上も貴重な公園である。
この山地を構成する主な岩石は、粘板岩、変質凝灰岩、角閃珍岩(かくせんちんがん)である。粘板岩は、今から9千万年~1億年前の白亜紀に形成されたもので、厚い層となしており断層褶曲(しゅうきょく)による乱れや、火成岩の貫入などによって複雑な構成を示している。
山地の大部分は、スギ、ヒノキ、クロマツ等の植林地であるが、特に権現山北側のスギは「皇后杉」と称せされ、旧藩時代に植えられた貴重な人工林である。北側登山道周辺は、保安林として保護されてきた天然林で、広葉樹がよく繁茂し、またこの一帯はシダ、コケの種類が多いことで有名である。
【写真左】帆柱ケーブルカー
下山時に撮ったものだが、車内から見ていると、ものすごい傾斜であることが分かる。
植物が豊富であるため、昆虫の種類も多く、これまでに蝶72種、蛾1,000種、甲虫その他約1,500種が確認され、また、日本で最初の蛾3種が発見されている。
広葉樹に恵まれ、また九州北端に位置し、渡り鳥のコースに当たっているため、鳥の種類も多く、これまで留鳥(りゅうちょう)27種、夏鳥14種、冬鳥27種、旅鳥1種が確認されている。
また、神功皇后の伝説にゆかりのある、皿倉山、帆柱山、神仏習合時代の信仰伝承のある権現山、中世山城跡の面影をとどめる花尾城址や、帆柱山城址などの多くの史跡があって、かずかずの伝説や史話を今に伝える。
なお、皿倉山には、野口雨情や北原白秋の文学碑のほか、昆虫碑なども建てられています。
北九州市
帆柱自然公園愛護会”
●所在地 福岡県北九州市八幡東区大字大倉 皿倉山
●備考 皿倉山
●高さ 標高622m(比高520m)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 不明
●城主 不明(南朝方)
●遺構 不明
●登城日 2015年1月10日
◆解説(参考文献『週刊日本の歴史23』週刊朝日百科等)
福岡県北九州市にある国定公園の一つ皿倉山は、隣接する帆柱山・花尾山などと併せて「帆柱連山」と呼ばれている。
南北朝の時代、筑前・豊前・築後など含めたこの九州北部で、南朝方と北朝方による壮絶な戦いが繰り広げられた。
【写真左】多良倉城(皿倉山)遠望
下山後、北麓側から撮ったものだが、日没が早い初冬の夕暮れ時であったため、手前のマンションの明かりが目立った画像になった。
現地の説明板・その1
皿倉山(標高622m)
伝説に、神功皇后が征西のおりこの山に登り、大岩の上から日暮れまで国々を眺望し、下山のとき更に夕闇が深まっていたので、「更に暮れたり」といわれたという。このことから更暮山或いは更暗山と呼ばれ、それが更倉山に転じたと伝えられている。皇后が立たれたという大岩は、当山頂の東肩にあり、この伝説にちなんで国見岩と呼ばれている。
【写真左】中腹にある帆柱ケーブル山麓駅
この日出雲から出発し、ここにたどり着いた時は既に午後3時を回っていたこともあり、登城(登山)はこのケーブルに乗って向かった。
争乱の南北朝時代、将軍足利義満は九州での北朝武家方の衰勢を挽回させるため、今川了俊を九州探題に任命した。了俊は建徳2年(1371)12月、中央軍を率いて門司に上陸。翌正月には赤坂(小倉北)に本陣を構えて九州の南朝宮方勢力封滅作戦を開始した。
その両軍最初の合戦の舞台になったのがこの一帯の多良倉城(皿倉山)鷹見山(権現山)麻生山(花尾山)の山々である。
了俊の探題軍は、この合戦の勝利に勢いを得て、宗像、高宮と陣を進め、その年8月には懐良親王の征西府大宰府を攻略した。
北九州市
帆柱自然公園愛護会”
(※下線管理人による)
【写真左】皿倉山・権現山周辺マップ皿倉山・権現山を含めた周辺部には、ビジターセンター・野外音楽堂・展望台・キャンプ場など多くの施設がある。
また、登山コースも東西南北の方向から10本前後あり、多くのハイカーなどに利用されているようだ。
今川了俊の征西府討伐
今川了俊は別名今川貞世といい、了俊は出家したときの名である。彼は名門武家今川氏(足利氏の支流)の出身で、戦国期にその名を馳せた東海の雄・今川義元も、了俊の父範国の系譜に繋がる。
貞治6年(1367)室町幕府の引付頭人・侍所頭人・山城守護に任じられたが、この年の暮れ2代将軍義詮が亡くなると、出家し貞世から了俊と号した。義詮の後を継いだのが3代将軍義満である。
【写真左】頂上の北東部
多良倉城といわれている皿倉山だが、山城遺構として確認できるものはほとんどない。遺構を見ることを目的に登城しても期待外れである。しかし、頂上から眺める360度のパノラマは筆舌に尽くしがたいほど素晴らしい。
写真は、北東方向に小倉・門司方面を見たもの。
ところで、後醍醐天皇は、延元元年(1336)9月、尊氏と講和を結んだとき、三人の皇子をそれぞれ各地に下向させている。
そのうちの一人、懐良親王には征西大将軍として九州へ下向させた。親王わずか8才の時である。この後観応の擾乱など北朝方の混乱もあり、九州から北朝方や足利直冬らが離れていくと、菊池武光や阿蘇氏の一部の協力を仰ぎ、正平元年(1359)8月6日に筑後大保原で北九州の北朝方守護少弐氏を破り、その2年後ついに大宰府に入城した。
懐良親王が京を離れてから19年後のことである。以後、ここ(大宰府)を本拠として、親王による征西将軍府(征西府)が12年の間続くことになる。
【写真左】皿倉山から北方を俯瞰する。
ほぼ真北には八幡・戸畑・若松の各市街地が見える。またその奥には戸畑港を介して燧灘が横たわり、その右奥には下関市が見える。
北朝方の尊氏が九州(征西府)討伐を目指しながら亡くなり、その後義詮が継ぐことになるが、彼が最初に九州探題として差し向けたのは、斯波氏経である。しかし、彼は九州に上陸したものの、何の実績もあげず、京都へ逃げ帰った。次に任じられた渋川義行に至っては、九州へ上陸もせず備後(中国)付近でウロウロしただけで無残な失態を演じた。そこで、管領になって間もない細川頼之が将軍に進言したのが今川了俊であった。このころは義詮が亡くなって幼い義満が跡を引き継いだころで、殆ど頼之の指示に負うところが大きい。
【写真左】東方に豊前・松山城を遠望する。
頂上に着くまでは松山城が見えるとは予想もしていなかったが、皿倉山から豊前・松山城(福岡県京都郡苅田町松山)までは直線距離でわずか18キロしか離れていない。
多良倉城における南北朝期の戦いは、ほぼ同時期この松山城でも行われた。
皿倉山(多良倉城)周辺での戦いが行われたのは、説明板にもあるように、了俊が赤坂(小倉北)に陣を構えた建徳2年(応安4年)の翌年となる文中元年・応安5年(1372)2月10日といわれている。その前段で了俊は、大隅の禰寝(ねね)久清、及び薩摩の島津親忠らに島津氏久とともに軍忠を尽くすようこれを招いている。
そして、皿倉山・花尾城(麻生山)に籠る征西府(南軍)側攻めには大内弘世・少弐冬資らが主役となって挑んだ。戦いは当初一進一退の様相を見せ、少弐冬資は南軍の出撃にあって敗れたが、その後毛利元春が救援撃退し、さらにはこれに続いた中国勢(吉河・長井・山内・周布氏(周布城(浜田市周布町)参照)など)が応戦し、ついにこの多良倉城周辺では勝利し、南軍は大宰府に奔った。
了俊はその後軍を進め、小倉・宗像・水内・高宮を経て大宰府を目指すことになる。
【写真左】平尾台・竜ヶ鼻を遠望する。
松山城から更に右に移動すると、カルスト台地で有名な平尾台、及び竜ヶ鼻が見える。
【写真左】花尾山城・河頭山を俯瞰する。
皿倉山から西北西1,2キロには、花尾山城が所在する。
標高351mの山城で、当城については次稿で取り上げる予定だが、山鹿氏の後裔麻生氏の居城で、別名麻生山とも呼ばれている。
【写真左】頂上部・その1
【写真左】頂上部・その2
頂上部には複数のテレビ塔や電波塔などが設置されている。
参考までに、帆柱自然公園について紹介しておきたい。
現地の説明板・その2
“帆柱自然公園のあらまし
帆柱自然公園は、皿倉山を中心に権現山、帆柱山、花見山と河内地区から成る景勝地で「北九州国定公園」「北九州自然休養林」として指定され、北九州百万市民の憩いの地とされているばかりでなく、学術上も貴重な公園である。
この山地を構成する主な岩石は、粘板岩、変質凝灰岩、角閃珍岩(かくせんちんがん)である。粘板岩は、今から9千万年~1億年前の白亜紀に形成されたもので、厚い層となしており断層褶曲(しゅうきょく)による乱れや、火成岩の貫入などによって複雑な構成を示している。
山地の大部分は、スギ、ヒノキ、クロマツ等の植林地であるが、特に権現山北側のスギは「皇后杉」と称せされ、旧藩時代に植えられた貴重な人工林である。北側登山道周辺は、保安林として保護されてきた天然林で、広葉樹がよく繁茂し、またこの一帯はシダ、コケの種類が多いことで有名である。
【写真左】帆柱ケーブルカー
下山時に撮ったものだが、車内から見ていると、ものすごい傾斜であることが分かる。
植物が豊富であるため、昆虫の種類も多く、これまでに蝶72種、蛾1,000種、甲虫その他約1,500種が確認され、また、日本で最初の蛾3種が発見されている。
広葉樹に恵まれ、また九州北端に位置し、渡り鳥のコースに当たっているため、鳥の種類も多く、これまで留鳥(りゅうちょう)27種、夏鳥14種、冬鳥27種、旅鳥1種が確認されている。
また、神功皇后の伝説にゆかりのある、皿倉山、帆柱山、神仏習合時代の信仰伝承のある権現山、中世山城跡の面影をとどめる花尾城址や、帆柱山城址などの多くの史跡があって、かずかずの伝説や史話を今に伝える。
なお、皿倉山には、野口雨情や北原白秋の文学碑のほか、昆虫碑なども建てられています。
北九州市
帆柱自然公園愛護会”