土御門天皇火葬塚(つちみかどてんのうかそうづか)
●所在地 徳島県鳴門市大朝町池谷
●探訪日 2013年11月17日
◆解説
阿波・重清城(徳島県美馬市美馬町字城)・その1でも少し紹介したように、今稿は山城とは少し逸れるが、承久の乱後、土佐から阿波国へ配流された後鳥羽上皇の第一皇子・土御門が荼毘に付された火葬塚を取り上げたい。
【写真左】土御門天皇火葬塚・その1
JR四国の高徳線と鳴門線が合流する池谷駅の北東500mの位置にあって、入口南側の脇を県道12号線(撫養街道)が走る。
知られているように、承久の乱の際首謀者とされた後鳥羽上皇は、その年(1221年)隠岐に配流され、18年後の延応元年(1239)2月22日、隠岐刈田郷の行在所で崩御となった。
この乱に直接関わっていなかった土御門ではあったが、自ら配流を希望し、最期を迎えたのがこの阿波国鳴門の地である。
【写真左】土御門天皇火葬塚・その2
火葬塚であるから一般的な天皇陵墓でないものの、宮内庁管轄地とされ、一般人は中には入れない。
東西50m×南北30m前後の規模
承久の乱
御門が生まれたのは建久7年(1196年)である。それから3年後の正治元年(1199)、鎌倉幕府を開いた源頼朝が亡くなると、頼家が跡を継いだが、専横が甚だしく、頼朝の妻政子が一計を案じ、頼家の子であった一幡(いちまん)と、弟実朝に将軍職を与えようとした。これに頼家は不満を持ち、舅であった比企能員(よしかず)と与同し、対立した。
【写真左】土御門天皇火葬塚・その3
当該火葬塚の右側(東側)には、阿波神社が祀られている(下段写真参照)。
政子は実父・時政と画策し、12歳になった実朝を第3代将軍に担ぎ上げ、時政は執権となった。事実上の鎌倉幕府執権体制の始まりである。
その後、時政は敵対してしまった頼家を伊豆修善寺で殺害する。これに対し、頼家の子公暁(くぎょう)は、父頼家が謀殺されてから15年後の承久元年(1219)、鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の礼を受けた実朝を帰途中に暗殺、ところが、今度はその公暁が報復を受け殺害されてしまった。
ここに、源氏宗家の嫡流が途絶えることになる。平家の滅亡に比して、源氏(頼朝)が打ち立てた政権は、結果として自滅の形をとったものといえるだろう。
源氏の正統が途絶えた後、鎌倉幕府は外戚であった北条氏が執権となって幕府権力の頂点に立った。
さて、後鳥羽天皇は治承4年(1180)に生まれている。鎌倉幕府が不安定な政権となりかけた頃はちょうど二十歳前後で、血気盛んなときである。しかも帝は天皇としては珍しく、文武両道の才があり、武芸にはひときわ秀でていたという。
こうしたこともあって、朝廷内における幕府寄りの公家であった九条兼実などを排斥し、ついに承久3年(1221)時の執権北条義時追討の院宣を発した。
【写真左】阿波神社・その1 神門
火葬塚の東側に鳥居があり、そこをくぐってしばらく歩くと、奥に見えてくる。
土御門を祭神として祭る社で、以前は丸山神社という名であったが、昭和になって阿波神社と改称した。
乱後の処罰
この乱は結果としてわずか1か月で幕府によって鎮圧された。乱後幕府は後鳥羽天皇を隠岐へ配流し、首謀者の1人とされた次男の順徳上皇は佐渡へ配流した。
しかし、土御門は直接関与していなかったため、処罰の対象とならなかった。この処置に対し、土御門は父や弟が罰せされ配流されたことに忍びなく、慮ったのだろう、自ら土佐への配流を希望した。その後、土佐から阿波国に移された。
【写真左】阿波神社・その2 拝殿
伝承によれば、土御門は争い事は好まず、温和で和歌に造詣が深かったという。
この社殿を含め境内全体が華美でなく、御門の性格がそのまま反映されたような落ち着いた雰囲気が感じられる。
そして寛喜3年(1231)、当地で崩御した。隠岐にあった後鳥羽上皇はその8年後、没することになる。
ところで、存命中であった上皇は、この阿波の国の訃報を知ることができたのであろうか。次稿では、そうした観点も含めて出雲国にある土御門にまつわる史跡を紹介したいと思う。
●所在地 徳島県鳴門市大朝町池谷
●探訪日 2013年11月17日
◆解説
阿波・重清城(徳島県美馬市美馬町字城)・その1でも少し紹介したように、今稿は山城とは少し逸れるが、承久の乱後、土佐から阿波国へ配流された後鳥羽上皇の第一皇子・土御門が荼毘に付された火葬塚を取り上げたい。
【写真左】土御門天皇火葬塚・その1
JR四国の高徳線と鳴門線が合流する池谷駅の北東500mの位置にあって、入口南側の脇を県道12号線(撫養街道)が走る。
知られているように、承久の乱の際首謀者とされた後鳥羽上皇は、その年(1221年)隠岐に配流され、18年後の延応元年(1239)2月22日、隠岐刈田郷の行在所で崩御となった。
この乱に直接関わっていなかった土御門ではあったが、自ら配流を希望し、最期を迎えたのがこの阿波国鳴門の地である。
【写真左】土御門天皇火葬塚・その2
火葬塚であるから一般的な天皇陵墓でないものの、宮内庁管轄地とされ、一般人は中には入れない。
東西50m×南北30m前後の規模
承久の乱
御門が生まれたのは建久7年(1196年)である。それから3年後の正治元年(1199)、鎌倉幕府を開いた源頼朝が亡くなると、頼家が跡を継いだが、専横が甚だしく、頼朝の妻政子が一計を案じ、頼家の子であった一幡(いちまん)と、弟実朝に将軍職を与えようとした。これに頼家は不満を持ち、舅であった比企能員(よしかず)と与同し、対立した。
【写真左】土御門天皇火葬塚・その3
当該火葬塚の右側(東側)には、阿波神社が祀られている(下段写真参照)。
政子は実父・時政と画策し、12歳になった実朝を第3代将軍に担ぎ上げ、時政は執権となった。事実上の鎌倉幕府執権体制の始まりである。
その後、時政は敵対してしまった頼家を伊豆修善寺で殺害する。これに対し、頼家の子公暁(くぎょう)は、父頼家が謀殺されてから15年後の承久元年(1219)、鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の礼を受けた実朝を帰途中に暗殺、ところが、今度はその公暁が報復を受け殺害されてしまった。
ここに、源氏宗家の嫡流が途絶えることになる。平家の滅亡に比して、源氏(頼朝)が打ち立てた政権は、結果として自滅の形をとったものといえるだろう。
源氏の正統が途絶えた後、鎌倉幕府は外戚であった北条氏が執権となって幕府権力の頂点に立った。
さて、後鳥羽天皇は治承4年(1180)に生まれている。鎌倉幕府が不安定な政権となりかけた頃はちょうど二十歳前後で、血気盛んなときである。しかも帝は天皇としては珍しく、文武両道の才があり、武芸にはひときわ秀でていたという。
こうしたこともあって、朝廷内における幕府寄りの公家であった九条兼実などを排斥し、ついに承久3年(1221)時の執権北条義時追討の院宣を発した。
【写真左】阿波神社・その1 神門
火葬塚の東側に鳥居があり、そこをくぐってしばらく歩くと、奥に見えてくる。
土御門を祭神として祭る社で、以前は丸山神社という名であったが、昭和になって阿波神社と改称した。
乱後の処罰
この乱は結果としてわずか1か月で幕府によって鎮圧された。乱後幕府は後鳥羽天皇を隠岐へ配流し、首謀者の1人とされた次男の順徳上皇は佐渡へ配流した。
しかし、土御門は直接関与していなかったため、処罰の対象とならなかった。この処置に対し、土御門は父や弟が罰せされ配流されたことに忍びなく、慮ったのだろう、自ら土佐への配流を希望した。その後、土佐から阿波国に移された。
【写真左】阿波神社・その2 拝殿
伝承によれば、土御門は争い事は好まず、温和で和歌に造詣が深かったという。
この社殿を含め境内全体が華美でなく、御門の性格がそのまま反映されたような落ち着いた雰囲気が感じられる。
そして寛喜3年(1231)、当地で崩御した。隠岐にあった後鳥羽上皇はその8年後、没することになる。
ところで、存命中であった上皇は、この阿波の国の訃報を知ることができたのであろうか。次稿では、そうした観点も含めて出雲国にある土御門にまつわる史跡を紹介したいと思う。
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