十膳山城(じゅうぜんやまじょう)
●所在地 島根県出雲市野郷町~松江市大野町空山
●高さ 193.5m(比高40m)
●築城期 不明(戦国時代か)
●築城者 不明(宮倉氏か)
●城主 宮倉氏(大野氏一族)
●遺構 郭等
●登城日 2017年4月15日
◆ 解説(参考資料 『日本城郭体系第14巻』、『宍道町ふるさと文庫16』等)
十膳山城は以前取り上げた本宮山城(島根県松江市上大野町)から西に直線距離で2.6キロほど向かった十膳山に築かれた城郭である。
【写真左】十膳山城遠望 東方にある大野氏居城・本宮山城から下山途中の道から見たもの。
主郭は南北に軸をとった独立峰である。左側が宍道湖方面になる。
撮影日 2021年12月6日
現地の説明板より
”十膳山 標高193.6m
出雲市と松江市の境界に位置。3等三角点がある。出雲風土記に都勢野とあり辺りに沢がありおしどりが住んでいたと記されています。
戦国時代には、大野氏の一族宮倉氏の居城があったと伝わっています。
近年、伊野地区の方により整備され、休憩施設もあり、桜祭りが開催されたり季節の花が訪れる人々を和ませてくれる。”
登り始めて振り返って見たものだが、ちょうどこの付近に1本の見事な桜が咲いており、その下で地元の老人会の皆さんが花見をしておられた。
駐車場はこの桜のある広場に設置されている。
宮倉氏と大野氏
本宮山城の稿でも紹介したように、現在の松江市大野町地域は大野氏が治めていたところで、十膳山城は現在の松江市と出雲市(旧平田市)との境に所在し、本宮山城の西の守りとして築かれたものと思われる。
本宮山城の稿でも紹介したように、現在の松江市大野町地域は大野氏が治めていたところで、十膳山城は現在の松江市と出雲市(旧平田市)との境に所在し、本宮山城の西の守りとして築かれたものと思われる。
城主は大野氏の一族宮倉氏とされ、宮倉八郎五郎の居城と記されている。
宮倉氏の主君大野氏については、本宮山城の稿ですでに紹介しているが、同氏本姓は紀氏といわれる。紀季康の孫季清のとき、源頼朝より大野庄地頭職に補任されて以来、大野庄に土着し、本宮山城を築き、館は坂本山(土居城(大野氏居館)跡(島根県松江市大野町)参照)に構えて大野氏と称した。
【写真左】登城途中、西方を見る。 十膳山城の西側から登って行く道なので、東側は見えないが、西方の眺めは確保できる。西麓の野郷町の景色と奥には地元では北山といっている山がかすかに見える、この山には古刹鰐淵寺がある。
頼朝から補任されている点から考えると、具体的な時期は建久年間(1190~98)の頃と思われる。
大野氏の重臣として知られるのは、大垣亀畑山城主であった大垣八郎左衛門秀清だが、本稿の十膳山城主宮倉氏も大野氏を支えた一族である。
因みに、大垣氏は本宮山城の東隣大垣町の地名から名乗った武将と思われるが、宮倉氏については、そもそも出雲国に宮倉という地名がないため、地元の国人領主ではなく、他国から入国した可能性が高い。そこで全く確証はないのだが、元々大野氏が紀氏を名乗っていた時代、出雲国東部および伯耆国にも触手を伸ばしていた時期があり、そのとき伯耆国から移ってきた可能性もある。現在でも宮倉姓が多いのは伯耆国(鳥取県)である。
さて、十膳山城への登城コースとしては、西側(出雲市側)から向かうものと、東側(松江市側)から向かう二つのものがある。松江市側から向かうと、途中で宮倉氏が勧請したといわれる稲荷神社がある。これは宮倉氏の末裔奥原氏が奉斎したもので、元は別の所にあったようだが、現在地に移転している(下の写真参照)。
【写真左】正一位稲荷神社 十膳山城の東側中腹にある社で、十膳山城主宮倉氏が勧請したもの。
宮倉氏の末裔奥原氏が奉斎し現在地に移転し、その由緒を認められて明和8年(1771)神祇官より正一位の位階を贈られた。
現在も奥原氏をはじめとする殿山地区の氏神として崇敬されている。
十膳山城の主郭は南北に軸をとる尾根の南端部に配置されているが、主郭となる頂部と、さらに尾根の北にも頂部がある。
遺跡データではこの北側頂部に関する記録は残っていないが、北側にも物見櫓的なものがあった可能性が高い。
遺構
十膳山城は写真でも分かるように、現在本丸跡とされる場所にはビニールハウスが建てられ、地元の方々がこの中でくつろげるようになっている。まわりにはきれいな花が植えられ、天気が良い日には宍道湖が眺望できる。
このためか、島根県遺跡データベースでは「明確な遺構なし」となっている。たしかに明確な遺構は見受けられないが、当城本丸から眺望できる視界はきわめて広く、物見櫓などがあった可能性は高い。
【写真左】最後のターンを過ぎると、奥に本丸が控えている。 今回利用した登城道は、地元のご年配の人が重機で整備されたとのこと。軽トラックならこのまま本丸まで行けそうだ。
東南麓に「殿山」という地名があるが、おそらく平時はこの地区に住まいを持ち、有事の際本丸に上がるという体制をとっていたのだろう。
また、西側から少し降りた中腹の野郷町(出雲市側)の畑の一角には土塁のような遺構が残っていることから、この付近にも何らかの手が加わっていた可能性が高い(下段の写真参照)。
ごらんのハウスが見えた。
一角には冒頭で紹介した説明板が掲示されている。
右側が登ってきた道で、左側に本丸。
【写真左】本丸に建つビニールハウス 休憩小屋として建てられたようで、
「ハウス ご自由にお使いください」と書かれたものや、
「認定 地域が誇る観光スポット 十膳山山頂及び山頂からの風景 2016、3,14
出雲市」
と記されたものも掲示してある。
ハウスの中は敷物があり、座布団まで用意してある。
ハウスから南側を眺める。
休憩小屋や桜の木、チューリップなどが植えられているため当時の状況は分からないが、現状は東西幅はおよそ5m、奥行は30m弱程度の規模である。
おそらく築城当時は東西幅は狭かったかもしれない。
ビニールハウスの一角に設置されている。
【写真左】本宮山城遠望【写真左】本丸から高瀬城を遠望する。 本宮山城から斐川の高瀬城までは直線距離で15キロ前後となる。
◎関連投稿
【写真左】本丸から丸倉山城、大平山城を遠望する。 なお、宍道湖対岸の宍道町西来待には「伝大野次郎左衛門墓」という大きな五輪塔がある(下の写真参照)。
所在地 松江市宍道町西来待
高さ2.9mの大型石塔。地元から産出される来待石で造られたもので、同石で造られたものとしては広瀬町にある堀尾吉晴墓に次ぐ大きさ。なお、この地域は大野原という地名である。
撮影日 2021年12月10日
伝承では左衛門は本宮山城主であったといわれ、大野氏がもっとも活躍した南北朝期から室町期にかけて、この西来待(大野原)付近も同氏が治めていたといわれる。
◎関連投稿
下山途中に見えたもので、右側が旧畑地で、左側には堤が控えている。
わざわざここで盛土する必要がないような地形なので、場合によっては屋敷跡とも考えられる。
【写真左】旧畑地側から見る。 高さは2m近くあるだろう。
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