備前・太鼓丸城(びぜん・たいこまるじょう)
●所在地 岡山県和気郡和気町田土 天神山
●別名 天神山城
●別名 天神山城
●高さ 409m(比高360m)
●築城期 享徳5年(1532)
●築城者 日笠氏、浦上宗景
●城主 浦上宗景
●遺構 石垣、土塁、郭、堀
●指定 岡山県指定史跡
●登城日 2017年4月16日
●築城期 享徳5年(1532)
●築城者 日笠氏、浦上宗景
●城主 浦上宗景
●遺構 石垣、土塁、郭、堀
●指定 岡山県指定史跡
●登城日 2017年4月16日
◆解説(参考資料 『日本城郭体系 第13巻』等)
前稿の備前・日笠青山城(岡山県和気郡和気町日笠上)でも少し触れているが、浦上氏の居城であった天神山城(岡山県和気郡和気町田土)が築かれる際、最初に築いたのが太鼓丸城である。
【写真左】太鼓丸城 太鼓の丸と記された郭。
現地の説明板より
❝太鼓の丸城(旧天神山城)
室町時代以前に、日笠青山城の出城として日笠氏が築城したもので、浦上宗景の享禄4年天神山出陣の足掛かりとなり、天文時代より太鼓櫓として物見台の役目と家臣団集合の合図をした役目の櫓「人桝」と呼ばれ、東方に根小屋があり、搦手門となる。❞
現地に設置されているもので、右側に「和気美しい森」公園があり、そこから西に向かって太鼓丸に向かう道が描かれている。
浦上宗景、室津から太鼓丸城(天神山城)へ移る。
太鼓丸城及び天神山城の城主は浦上宗景である。彼については既に三石城(岡山県備前市三石)の稿でも述べているが、宗景の父村宗が播磨中津川で討死したあと、宗景は兄・政宗と対立、播磨室津城から大田原・日笠・延原ら六名の部将を引き連れ、備前国天神山へ移った。
天神山城を宗景の居城として勧めたのが、日笠青山城の城主日笠頼房である。最初に築いたのが本稿の太鼓丸城であるが、説明板にもあるように、元々日笠氏が出城もしくは砦形態のものとしてすでに築いていたとされている。
【写真左】和気美しい森公園 天神山東部60㌶を整備し森林公園として岡山県が造ったもので、平成13年にオープン。
写真は同公園入口。
上図の案内図に主だった遺構が描かれているが、天神山城のもう一つの登城口となる南東側の「和気美しい森」公園から進むと、太鼓丸城まではおよそ500mほどになる。
公園として整備されたため、元の地形がどの程度のものだったか分からないが、この区域も日笠氏時代にある程度城砦遺構があったのではないかと推測される。
【写真左】溜池 太鼓丸城へ向かう途中、公園内にあったもので、小さな溜池があった。説明板などはなかったが公園になる前から存在していたような池である。あるいは井戸だったかもしれない。
宗景と政宗の対峙
浦上宗景が太鼓丸城へ移ったのは、享禄4年(1531)である。翌天文元年(1532)、宗景の兄・政宗は富田松山城(岡山県備前市東片上)参照)に布陣し、弟宗景を討つべく動き出した。これに対し、宗景は太鼓丸城から南下し、富田松山城の北麓片上の葛坂に出陣した。
片上の葛坂とは、現在のJR赤穂線の西片上駅と伊部駅の間にあって、当時の西国街道葛坂峠付近である。富田松山城からは直線距離で西へ1.5キロほど向かった位置になる。
この時の合戦は理由は不明だが、途中で両者は軍を引き上げたため勝敗はつかなかった。
【写真左】根小屋 公園の脇を抜けるとすぐに左手に根小屋の標識がある。
雑木などに覆われているがかなりの広さで、家臣団などの屋敷があったところと思われる。
新たな天神山城の築城開始
兄政宗との戦った翌年(天文2年)、宗景は太鼓丸城から北に延びる尾根伝いに新たな城を築き始めた(第一期工事)。おそらく太鼓丸城のままでは防衛戦略的に弱いと判断したのだろう。
その後、天文8年にはさらに桜の馬場・西南端に鍛冶場・北に大手門・百貫井戸・長屋(倉庫)・腰曲輪を配し西方の中心部とした(第二期工事)。
そして最後の仕上げとなるのが第三期工事で、天文12年(1543)から開始し、三の丸・西櫓台・下の段を設け西方防備の郭とする。この年、宇喜多直家は初陣を果たしている。
【写真左】土塁 冒頭の案内図に表記されている土塁だが、案内図そのものの絵図を見ると、郭の姿が描かれ、それを土塁と表示している。
実際写真で見る限り、土塁の痕跡はあまり見られず、郭と比定した方がよいように思われる。
天神山城落城
天神山城が落城する直接的要因は、家臣であった宇喜多直家(新庄山城(岡山県岡山市竹原)参照)の離反からであるが、大局的にみれば、東方から侵攻してきた織田信長と、中国の覇者毛利氏との板挟みによって生じた結果ともいえる。
天正5年(1577)、4月12日、最初に日笠青山城が落城。5月には宗景の嫡男・浦上与次郎宗辰が直家により毒殺される。そして、8月10日天神山城は落城した。
宗景が築いた天神山城は、初期の日笠氏時代もあったものの、ほぼ宗景一代の居城として46年の歴史に幕を閉じたことなる。
【写真左】堀切 太鼓丸までの登城道は割と平坦に続くが、途中で堀切が出てくる。
だいぶ埋まっているため浅いが、当時はもっと深かったものと思われる。
さきほどの堀切を抜けると、周囲には削平された平坦地が現れだす。
整備されていないので規模は明確でないが、このあたりからまとまった郭が見え始める。
三角点は必ずしも最高所を示すものではないが、この位置がおそらく天神山の頂部(H:409m)となり、上掲した絵図の「本丸跡」になると思われる。
絵図ではここから犬走を介して西にも出丸が描かれているので、そちらに向かう。
出丸は本丸からかなり離れた位置にあり、より吉井川沿いに配置されている。
下段の鳥瞰図にもあるように、出丸にも建屋が描かれているので、写真はその礎石と思われる。
このあと再び元の道に戻る。
太鼓丸城の本丸とその先にある太鼓丸城(狼煙台)の間に設置されているもので、有事の際ここで敵の侵入を阻止するために設置されたものだろう。
石門を過ぎると主に左側に大きな岩が積んである。下から敵が登ってくる際、この石を使って上から落とすためのものだという。
前記した天神山頂部にある郭(本丸)より整備が行き届いているせいか、こちらが本丸に思える。
【上図】天神山城(太鼓丸城)鳥瞰図
前段で紹介した案内図と重複するが、この図は右に前期天神山城(太鼓丸城)を描き、左に堀切を介して後期天神山城の様子を鳥瞰図で描いたもの。
太鼓丸城を過ぎて左(北側)に進むと次第に下っていき、上の門・下の門・古井戸・亀の甲などがあり、最深部で堀切となる。そしてそこから再び尾根筋を上がっていくと後期天神山城へと続く。
【写真左】太鼓丸城から北東方向を眺望する。 中腹部が上田土で、その上の谷が杉平という地区になる。さらにその奥の山並みには大芦高原が見え、左側の谷を下がってくと吉井川と合流する。
因みに後期天神山城の最高所は337mなので、太鼓丸城(天神山)の頂部409mと比べると、72mほど低い。
山城登城しているとよく見かけるツツジだが、天神山城のツツジは特に色が鮮やかだ。
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